第6話 婚礼の幕
広間の主卓の背後に、婚礼の幕が下がっていた。
深い青の地に、金糸で二つの紋が織り出されている。王家の獅子と、アルヴェイン家の百合。一枚の布の中で、二つは寄り添うように並んでいた。
昨日、無地の幕を前にして、アーヴェルは急に惜しくなったのだ。保管庫には、これほどの品が眠っている。使わずにしまっておくほうが、よほど無駄ではないか。
「アルヴェイン家の紋が、一体に織り込まれております」
保管庫の錠を開けながら、オルドはそう言った。引継ぎの書類にも、同じことが書いてあると。
「王宮の品だ。使って何が悪い。灯りを落とせば、紋など誰も気にしない」
アーヴェルはそう答えて、幕を広間へ運ばせた。
席のことも、昨日のうちに決めた。
ミレナの隣には母君を、と約束していた。だがその後、ハーゲン侯爵が招待に応じてくれた。北の領地を治める古株で、父王でさえ一目置いている。破談の噂を気にしている様子の侯爵に、アーヴェルは言った。ぜひ新しい女主人の隣で、話をしてやってほしい、と。
業者の取りまとめ役が、席が重なっていると知らせてきたのは昨日の昼だった。
「侯爵を主卓に。母君には、別の卓の上座を用意しろ」
「ミレナ様には、どなたからお伝えしましょう」
「私から話す」
そう言ったきり、話していない。昨日のミレナは衣装の仮合わせで忙しそうだったし、当日になれば、席くらいで騒ぎはしないだろう。この夜会の主役は彼女なのだから。
日が暮れて、広間に灯が入った。
仕出しの給仕たちが、銀の盆を手に壁際へ並んでいる。厨房からは、試食で食べたあの鴨の匂いが漂ってきた。楽師が弦を合わせる音が、高い天井に響く。花は業者が幕の色に合わせて揃え直した。
客が一人、また一人と入ってくる。ハーゲン侯爵はすでに主卓の席に着き、背後の幕を見上げて、何か言いたげに顎を撫でていた。
アーヴェルは広間を見渡した。どこにも手落ちはない。
リディアがいなくても、夜会は開ける。
ミレナが母君と腕を組んで入ってきたのは、それから間もなくだった。
薄紅のドレスに、真珠の髪飾り。広間の何人かが振り向くのが分かった。アーヴェルは満足して、二人を迎えに歩み出た。
案内役の給仕が、母君に一礼した。
「伯爵夫人様のお席は、こちらの卓でございます」
手が示したのは、主卓から二つ離れた卓の上座だった。
母君が戸惑ったようにミレナを見た。ミレナは主卓に目をやった。彼女の隣には、ハーゲン侯爵がもう座っている。
「殿下」
ミレナの声は、まだ笑っていた。
「母の席が、違うみたい」
「ああ、それは」
アーヴェルは声を落とした。
「ハーゲン侯爵が来てくださったんだ。今夜いちばん大事な客だよ。君の隣で話してもらえば、皆が君を認める。母君には、別の卓でいちばんいい席を用意した」
「私の隣は母だって、約束したわ」
「分かっている。だが、侯爵にも約束してしまった。今夜だけ、我慢してくれないか」
ミレナは黙った。母君が、娘の袖にそっと手を添えた。
「母の席を戻して」
「今からそれをしたら、侯爵に恥をかかせる」
自分が侯爵のところへ行って、事情を話して頭を下げれば済むことは、アーヴェルにも分かっていた。だが、新しい門出の夜に最初にすることが詫びだというのは、あまりに格好がつかない。
ミレナは返事をしなかった。代わりに、主卓のほうを見上げていた。正確には、主卓の背後の幕を。
「殿下。あれは、何」
「婚礼の幕だ。王宮の品で、見事なものだろう」
「金の百合が見えるわ」
ミレナの声から、笑いが消えていた。
「アルヴェイン家の紋でしょう。あの方との婚礼のために織らせたものでしょう。私は、あの下に座るの?」
「紋など誰も気にしない」
「私が気にするの」
声は大きくなかった。けれど、近くの卓の客が何人か、杯を置いてこちらを見た。
「母との約束は勝手に変える。私には何も言わない。座る場所は、あの方のために用意したものの下。殿下、今夜は誰のための夜会なの?」
「君のためだ。だからこそ、皆の前で」
アーヴェルは、ミレナの肘に手を添えた。
「頼む。客の前では、笑っていてくれ」
ミレナはその手を見下ろした。それから、ゆっくりと肘を引いた。
「母を別の卓には座らせられません。私たち、帰ります」
母君は何も言わなかった。娘と腕を組み直し、来たときと同じ扉へ歩きだした。薄紅のドレスの裾が、灯りの中を遠ざかっていく。楽師の弦が一つ、間の抜けた音を立てて止まった。
アーヴェルは、その場に立ち尽くした。
いつもなら、席を決める前に女官の誰かが、招待客の一人一人に望みを尋ねていた。そしてリディアが、重なった望みを両手に持って、どちらになさいますかと差し出しに来た。
「リ」
口が勝手に動いた。その先の音を、アーヴェルは歯の裏で止めた。
呼んでも来ない。もう、呼べる立場でもない。
広間には、まだ三十人あまりの客がいた。料理はある。楽師もいる。今から侯爵に詫び、卓を一つずつ回って事情を話せば、夜会は普通の会食として続けられる。
主役のいなくなった祝いの席で、自分が頭を下げて回る姿を、この人数に見せる。
「中止だ」
声がかすれた。
「今夜は、これで終いにする」
オルドがいつのまにか傍らに来ていた。何も言わずに頷き、給仕頭に短く指示を出すと、自ら扉の前に立ち、帰る客の一人一人に頭を下げはじめた。
客たちは、来たときより静かに出ていった。祝いの言葉を口にする者は、一人もいなかった。ハーゲン侯爵は幕を一度だけ振り返り、アーヴェルには目礼だけを残して去った。
その夜遅く、母上の居間で、オルドが報告を読み上げた。
当初の外注の案には、無理がなかったこと。幕と席を変えたのは、殿下ご自身の指示であったこと。
オルドの声は平らだった。誰を責める響きもなく、ただ順に並べていく。それが、どんな叱責よりもこたえた。
母上は最後まで聞き、しばらく黙っていた。
「アーヴェル。外に頼んだ案は、通っていたのね」
「はい」
「通っていたものを、あなたが変えた」
返す言葉がなかった。
居間を辞して、暗い回廊を自室へ戻りながら、アーヴェルは考えていた。
一度だけでいい。リディアが戻ってきてくれれば。ミレナへの詫びの手紙も、侯爵への取りなしも、リディアなら角の立たない形にまとめてくれる。
いつものように。
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