第5話 理屈が輪に伝わっていません
約束の菓子店の扉には、紙が一枚貼られていた。
本日、家族の祝い事のため休業いたします。
私は扉の前で、手提げから折りたたんだ紙を取り出した。昨夜のうちに作った今日の順路表だ。菓子店に半刻、東通りの書店に四半刻、川沿いの公園で休憩、帰りの馬車は四の鐘に広場で。いちばん下には、店が混んでいた場合の代案が二つ書いてある。休業の場合は書いていなかった。
それでも、二つ目の代案の店なら、ここから歩いて。
「アルヴェイン嬢」
顔を上げると、ルシアン殿も上着の内側から紙を一枚出していた。私のものより一回り大きい。
「休業でしたか。では、こちらの二番目に」
彼が広げた紙には、刻限がびっしりと並んでいた。菓子店、十二の鐘から。市場、一の鐘と四半刻から。休憩、二の鐘から二の鐘と四半刻まで。
「休憩の時間まで決めてあるんですか」
「お疲れにならないようにと思いまして」
「休憩が、四半刻単位で」
「そう言われると、あまり休憩らしくありませんね」
彼は自分の紙を見下ろし、それから私の手元に目をやった。私の紙にも、書店に四半刻、と書いてある。
二人で同時に、相手の紙と自分の紙を見比べた。休みの日に、二人とも勤務表を持ってきている。
先に吹き出したのは私だった。ルシアン殿も口元を押さえたが、肩が揺れていた。少し離れて控えていた侍女が、何事かという顔でこちらを見た。
「しまいましょうか」
「しまいましょう」
私たちは紙を畳んで、それぞれの懐へ戻した。
行き先を決めずに歩くと、東通りの先の市場に出た。
油の匂いのする屋台の前で、私は足を止めた。小麦の生地を揚げて、蜜と砂糖をたっぷり絡めた菓子。王宮の茶会には決して出ない、一つ銅貨二枚の品だ。
「お好きなんですか」
「子どもの頃、乳母がこっそり買ってきてくれたんです。それ以来、見かけると素通りできなくて」
ルシアン殿も一つ買って、一口かじった。そして、ゆっくりと噛みながら黙った。
「甘すぎますか」
「正直に申し上げると、歯が溶けそうです」
彼は残りを丁寧に紙に包み直し、隣の屋台で塩をふった焼き栗を買った。私に合わせて美味しいと言うこともできたはずなのに、そうしなかった。それがなぜだか気持ちよかった。
揚げ菓子の屋台には、いつのまにか列ができていた。列は途中で折れて隣の果物屋の前を塞ぎ、果物屋の主人が渋い顔をしている。私は思わず列の端へ歩み寄り、こちらへ並んでいただければ、と口を開きかけて、止まった。
私は客だ。
振り返ると、ルシアン殿が焼き栗の袋を持ったまま、列の折れ目をじっと見ていた。
「あなたも、今」
「ええ。釜をもう一つ増やせば、半分の時間で捌けるのではと」
私は笑いながら、指についた蜜を手巾で拭った。
市場の奥に、輪投げの屋台があった。
木の杭が九本立っていて、遠い杭ほど景品がいい。ルシアン殿はしばらく杭の並びを眺めてから、銅貨を払った。
「輪の重さと距離からすると、手首を使わず、腕全体で山なりに投げるのが」
輪はきれいな山なりを描き、杭の手前で跳ねて転がった。
「理屈では入るはずでした」
「理屈が輪に伝わっていませんね」
私は銅貨を払って輪を受け取った。
「こういうのは、腕ではなく目です。杭の根元ではなく、頭を見て」
投げた輪は杭の頭をかすめ、隣の杭の足元に落ちた。
ルシアン殿は何も言わなかった。言わないことが、何より雄弁だった。
「今のは練習です」
「では、私の今のも練習でした」
そこから先は、二人とも本気だった。ルシアン殿は三投目で理屈を捨てて手首を使いはじめ、四投目で手前の杭を一本取った。私は五投目で二列目の杭に輪をかけ、屋台の主人から木彫りの小鳥を受け取った。
「私の勝ちですね」
「景品の格で言えば、そうなりますね」
悔しさを隠そうともしない顔がおかしくて、私は小鳥を掌の上でくるりと回した。
「リディア様!」
人混みの向こうから声がした。ニナだった。十歳くらいの女の子の手を引いている。女の子の三つ編みの先に、真新しい水色の髪紐が結んであった。
「こんなところで。あの、おとといの控え室なんですけど、オルド様が札の束を」
「お姉ちゃん、あっちで飴細工やってる!」
女の子がニナの腕を引っ張った。ニナは私と妹を見比べて、困ったように笑った。
「すみません、また今度」
「ええ。楽しんで」
ニナは一礼し、妹に引かれるまま人混みへ消えていった。水色の髪紐が、何度か人の肩のあいだに見え隠れした。
王宮の話の続きを聞きそびれた、と思った。ほんの少しだけ、置いていかれた気がした。けれど、飴細工の屋台の前でニナが妹と並んでしゃがみこむのが見えて、その気持ちはすぐにどこかへ行ってしまった。
川沿いの公園の長椅子で、ひと休みした。侍女は少し離れた木陰で、ルシアン殿に分けてもらった焼き栗を食べている。
揚げ菓子の包み紙を畳みながら、私は言った。
「明日、何をすればいいのか分からないんです」
口に出してから、少し驚いた。言うつもりはなかった。
「朝起きても、行く場所がない。考えることもない。今日は楽しかったのに、明日も明後日もこうしていていいのか、よく分からなくて」
ルシアン殿は少し考えてから、真面目な顔で言った。
「でしたら、来月、うちの公使館で両国の商人を招く催しがあります。調整役を探していて、あなたなら」
言葉の途中で、自分の顔がこわばるのが分かった。
悪気がないことは分かっている。今日一日、彼は書類鞄も持たずに、輪投げで本気で悔しがっていた。この外出が採用の面談だったとは思わない。
それでも。
「ルシアン殿。今は、その話はつらいです」
思っていたより、小さな声になった。
「仕事に戻れと言われているようで。悪い意味でないのは、分かっているんですけれど」
ルシアン殿は口を開きかけた。いえ、そういうつもりでは、と続くのだろうと思った。
けれど彼は、そのまま口を閉じた。しばらく川面を見て、それから私のほうへ向き直った。
「すみません。今のは、なしにしてください」
「正直に言うと、ここから先、どう過ごせばいいのか私にもよく分かりません。紙をしまってしまったので」
私は思わず笑った。
「出しますか、紙」
「出しても、たぶん今日の役には立ちません。あなたは、どうしたいですか」
どうしたいか。そう尋ねられたのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
馬車は四の鐘に、広場で待っている。ここから広場へは、通りを抜ければすぐだ。川沿いを回れば、その倍はかかる。
「川沿いを歩いて戻りたいです」
理由は言わなかった。遠回りだということは、二人とも分かっている。
「そうしましょう」
ルシアン殿は立ち上がり、侍女に一声かけてから、私の歩幅に合わせて歩きはじめた。
川沿いの道は、昼下がりの光で白っぽく見えた。
話すことが途切れても、気まずくはなかった。水鳥が二羽、並んで流れていく。私はいつもより、ずっとゆっくり歩いていた。ルシアン殿も、そのことには何も言わなかった。
広場の手前で、彼がふと言った。
「次は、輪投げで勝つつもりです」
「次も私が勝ちます」
「理屈を捨てれば入ると分かりましたので」
「理屈を捨てた三投目も、外れていましたけれど」
ルシアン殿は反論しかけて、やめて、笑った。
広場にはもう馬車が着いていて、刻限にはまだ少し余裕があった。侍女が先に乗り込む。私は踏み台に足をかけてから、一度だけ振り返った。
ルシアン殿は、まだそこに立っていた。
次がいつなのか、どちらも口にしなかった。馬車が動き出してからも、掌の中の木彫りの小鳥は、しばらく温かいままだった。
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