第3話 休みの日のあなた
殿下の執務室を訪ねたのは、翌朝の九の鐘が鳴る前だった。
殿下は窓辺の机に寄りかかり、昨日と同じ深緑の上着を着ていた。ミレナ嬢の姿はない。
「侍従から聞いたな。元の婚礼の日、四日後の夜会だ。婚礼のために揃えたものがあるだろう。花も、卓も、給仕の段取りも。あれをそのまま使えばいい。名目が変わるだけで、中身は同じだ」
名目が変わるだけ。
「婚礼の支度は、二百人の式に合わせたものです。四十人の夜会にそのまま移すことはできません。どうしても開かれるのでしたら、日を延ばされるか、厨房に頼める範囲の小さな会食になさるのがよろしいかと存じます」
「だから、それを女官たちに組み直させればいい」
「女官は明日から交代で休暇に入ります。昨日、私が承認いたしました。残る者は普段の勤めで手いっぱいです。夜会の準備はお引き受けできません」
殿下の眉が寄った。
「休暇? 全員か」
「全員です。一人も除いておりません」
沈黙が落ちた。
殿下は私を見ていた。いつもなら、ここで私が何か言う。では、手の空く者を一人だけ。では、私が夜に少し。殿下の不満が言葉になる前に、そうやって私が隙間を埋めてきた。
今日の私は、膝の前で手を重ねたまま待った。窓の外で鳥が鳴いた。殿下の指が、机の縁を一度だけ叩いた。
「そうか。なら、いい。自分でやる。たかが四十人の夜会だ」
「左様でございますか」
私はそれ以上、何も付け足さなかった。腕のいい仕出し屋の名も、厨房長の機嫌がいい時刻も。
一礼して廊下に出ると、膝が少し笑っていた。六年間、一度も言わなかった返事をしたのだから、無理もない。
数歩歩いたところで、口元が勝手にゆるんでいるのに気づき、私は廊下の角でそれを手で押さえた。
昼からは、オルド殿の部屋で引継ぎをした。
内務管理官のオルド殿は五十を過ぎた痩せた人で、書類をめくる指がいつも乾いている。私が持ち込んだ目録と日程表を、黙って一枚ずつ確かめていった。物品、日程、各部門への決裁の残り、婚礼のために借りた品の返却先。
「この背面装飾は」
「王家の所有ですが、アルヴェイン家の紋と一枚に織り込んであります。婚礼用の結合紋です。保管庫に入れたまま、使う予定はありません。もし誰かが使いたいと言ったら、そのことを必ず伝えてください」
「書いておきましょう」
オルド殿は余白に短く書き込み、それから日程表の一か所に指を置いた。
「花屋への中止の連絡が、入っていません」
「え」
覗き込むと、本当に抜けていた。婚礼の花は二軒に頼んでいて、一軒には昨日のうちに使いを出したのに、もう一軒を忘れていた。
「申し訳ありません。今書きます」
「今書いてください。昼の便にまだ間に合います」
私は連絡状を書き上げ、封をして渡した。オルド殿はそれを、今日出す箱に入れた。
「休暇のあいだは、私が暫定で見ます。ただし女官の仕事の中身は、出勤している者に任せます。私に衣装の寸法は分かりませんので」
「それで十分です」
「殿下の夜会のことは」
「お断りしました。延期か、小さな会食をお勧めして」
オルド殿は私の顔を一度見て、日程表に目を戻した。
「承知しました」
夕刻、王妃様の侍女頭に鍵の束と職印を返した。
送別の式はない。私がそう頼んだ。控え室では女官たちが、明日からの休暇に備えて引継ぎの札を書いていた。何人かが手を止めて頭を下げ、私も頭を下げ返した。ニナは札を三枚続けて書き損じ、隣の女官に笑われていた。
侍女頭が職印を布に包んで箱へ収める。私は思わず手を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。明日の朝、あれを押す書類はもう私のところへは来ない。
身軽になった、と思った。同時に、私がいなくても控え室は明日の支度で騒がしく、誰も困った顔をしていないことが、少しだけ寂しかった。
王宮の正門へ向かう回廊で、ルシアン・フェルツ殿と行き合った。
隣国から駐在している外交官で、二年前から公務で何度も顔を合わせている。背が高く、いつも書類鞄を左手に提げている人だ。今日も提げていた。
「アルヴェイン嬢。お帰りですか」
「ええ。今日で女官長代理を退きました。お世話になりました」
「そうでしたか」
ルシアン殿は、婚約のことにも退任の理由にも触れなかった。代わりに、少し考えるような間を置いて言った。
「では、明日からはお休みですか」
「休み」
私は言葉を繰り返した。
「この二年、あなたにお会いするときは、いつも何かのお仕事の最中でしたので。休みの日のあなたというのが、どうも思い浮かばなくて」
「私にも思い浮かびません」
正直に答えると、彼は意外そうに瞬きをして、それから笑った。笑うとずいぶん印象の変わる人だった。
公爵邸に戻ると、夕食の前に手紙が届いていた。差出人はルシアン・フェルツ。
明後日の昼、東通りの菓子店へ行かないか、という誘いだった。評判の揚げ菓子があるらしい。気晴らしになればと思うが、気が進まなければ遠慮なく断ってほしい。返事は急がない。用件はそれだけで、仕事の話は一行もなかった。
断る理由を探しかけて、やめた。王宮と関係のない場所へ行ってみたかった。揚げ菓子も、正直に言えば気になった。
父に行き先を告げると、父は少し眉を上げてから、侍女を一人付けると言った。昼間の菓子店に、侍女が一人。それなら妙な噂の種にもなりにくい。
返事を書き終えてから、気づいた。明後日の予定は、それしかない。その前の明日には、何の予定もない。
私は封をした返事を前に、明日をどう過ごせばいいのか、しばらく考えていた。
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