第2話 日付が欲しい
翌朝、両家の協議は一刻もかからずに終わった。
婚約は解消。五日後に予定していた婚礼は中止。公爵家は復縁を求めず、婚礼にかかった費用の精算と、私の女官長代理の退任を求めた。退任は明日の夕刻と決まった。父は協議の席から戻ると、私の肩に一度だけ手を置き、何も言わずに書斎へ入っていった。
王宮へ向かう馬車の窓から、婚礼の日に合わせて花綱を飾りはじめた店がいくつも見えた。あれは五日後には外されるのだろうか。外す手間を真っ先に考えてしまい、自分に呆れた。
執務室には寄らず、束を抱えたまま女官の控え室へ行った。
朝の交代の時刻で、部屋には二十人ほどがいた。私が入ると話し声が止み、全員が私の顔と、腕の中の束を順に見た。昨日のことは、もう誰もが知っている顔だった。
長机の上に束を置き、紐をほどく。
「婚礼は中止になりました。それに伴って、保留にしていた休暇申請を、今日すべて承認します」
誰も声を出さなかった。喜ぶより先に、言葉の意味を確かめているような沈黙だった。
最初に口を開いたのは、窓際で帳面をつけていたベアトリスだった。
「すべて、というのは」
「四十九件、全員分です」
「去年の秋もそうおっしゃいました。結局、休めたのは三人でしたけれど」
ベアトリスは帳面を閉じた。声を荒らげはしない。二十年以上この宮で勤めてきた人の、平らな声だった。
「春の祭りの前には、婚礼の準備が落ち着いたらと。夏には、招待客が決まったらと。そのたびにリディア様は申し訳なさそうな顔をなさって、申し訳なさそうな顔のまま、もう少しだけ、と」
反論しようとして、できないことに気づいた。全部、私が言った言葉だった。私が我慢しているのだから、皆にももう少しだけ。そうやって私は、自分の忍耐の代金を、他人の休日で払わせてきた。
「そのとおりです。私が延ばしてきました。申し訳ありません」
頭を下げると、ベアトリスの眉がわずかに動いた。けれど彼女は、それで表情をゆるめたりはしなかった。
「謝っていただくより、日付が欲しいです」
「はい。だから、日付を決めに来ました」
私は束の上にもう一枚、紙を置いた。昨夜オルド殿から届いた写しだ。婚礼が済んだら実施するつもりで、オルド殿とベアトリスが前から組んでいた二班交代の案。
「この案を前倒しで使います。明後日から五日間はA班の三十人、その次の五日間はB班の十九人。昔の希望日ではなく、今どちらで休みたいかを一人ずつ確かめて班を決めます。どちらの期間も、残った人数で普段の仕事は回るように組んである。そうですね」
「組んだのは私ですから」
ベアトリスは写しを手に取り、自分の筆跡を確かめるように眺めた。
「新しい行事を入れなければ、回ります」
「入れません。接遇の数を絞ることは、今朝、王妃様にご了承いただきました」
私は束から元の申請書を抜いて一人ずつ本人へ返し、控え室の外にいた者も呼んで、今の希望を聞いていった。
最初に署名したのは、二年前の冬に出された衣装係の一枚だった。本人は何のための休みだったか、もう覚えていなかった。少し考えてから、とにかく昼まで寝ていたいと言ったので、A班に入れた。
ニナの番が来たのは昼前だった。彼女は自分の申請書を両手で持ったまま、机の前に立った。
「あの、私のは短くしていただいて構いません。五日も要りませんので。一日、いえ、半日でも」
「申請には五日とあるけれど」
「妹と市へ行く約束をしていたんです。でも、去年の話ですし、妹ももう覚えているかどうか。それに、今は人も足りませんし」
昨日、入口で客を迎えていた手が、紙の端をきつく折っていた。休んでいいと言われても、本当に休めるとは思っていない顔だった。
「市はいつ?」
「え。三日後です。月に一度の大市で」
「A班なら明後日からの五日間に入るわね。妹さんと行けるわ」
私は申請書を彼女の手から抜き取り、日付の欄に新しい期間を書き入れて署名した。五日間、一日も削らずに。
ニナは紙を見て、私を見て、もう一度紙を見た。
「五日ある」
「五日申請したんでしょう」
「はい。はい、そうです」
ニナの指が日付をなぞり、二日目のところで止まって、それから先へ進んだ。
「大市の日のほかに、まだ四日もある。じゃあ、妹に髪紐を選んで、その前に母さんのところにも顔を出して、それから」
声がだんだん独り言になっていく。それを聞いていた隣の席の女官が、手元の申請書を差し出した。
「リディア様、私はB班のほうでいいでしょうか。弟の婚約者のご家族と会う日がありまして」
「私はA班で。実家の果樹園の収穫に間に合うんです」
「収穫なんて、手伝わされるだけじゃないの」
「手伝わされるのが楽しいのよ」
控え室が急に騒がしくなった。休みの日に何をするかという話が、あちこちで始まっている。さっきまで疑い深い顔で並んでいた人たちが、自分の予定の話になった途端に声を高くする。私は申請書を一枚ずつ受け取り、日付を書き、署名していった。
最後の一枚が、ベアトリスのものだった。
「B班でお願いします。休みの二日目に、娘が仕立て屋を開くんです。開店の日だけは、店にいてやりたいので」
「おめでとうございます」
「まだ開いていませんよ」
そう言いながら、ベアトリスは私が署名するのを最後まで見ていた。インクが乾くのを待って申請書を受け取り、四つに折る。
「お礼は、休みが明けてから申し上げます。休めたら、ですけれど」
「休めます」
「でしたら」
彼女は折った紙を胸元にしまった。
「先に、娘へ手紙を出してもよろしいでしょうか。午後の仕分けの前に、昼の郵便に間に合わせたいので」
普段の私なら、午後の仕分けの担当表を確かめてから頷いていたはずだ。誰が代わりに入るか、手は足りているか。
「どうぞ。今すぐ行って」
ベアトリスは一度だけ私の顔を見て、それから足早に出ていった。
長机の上には、承認を終えた申請簿だけが残った。四十九件、全員分。
五日後の私の婚礼がなくなったから、この人たちは休める。そう考えると、喉の奥が少し苦くなった。誰かの楽しみを取り戻すのに、私の結婚式がちょうどよい値段だったみたいで。
それでも、ニナが日付をなぞっていた指を思い出すと、口元がゆるむのを止められなかった。
申請簿を閉じたところで、控え室の戸が叩かれた。
殿下の侍従だった。見知った顔が、気まずそうに私から目をそらす。
「殿下からのお言付けです。五日後、元の婚礼の日に、内輪の夜会を開かれるとのことで。お客様は四十人ほど。婚礼のために用意した支度をそのまま使えるよう、整えておくように、と」
私はすぐには返事をしなかった。
まず申請簿の紐を結んだ。それから、棚の、承認済みの書類を置く段にそれを収めた。四十九件を、一枚も引き抜かずに。
振り返ると、侍従はまだ戸口に立っていた。
「殿下にお伝えください。ご用件は明日、私から直接お伺いします、と」
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