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婚約破棄された私、王宮の女官全員に有給休暇を出しました  作者: 白川 透


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第1話 承知いたしました

「リディア様、開始が早まるそうです」


 女官のニナが、空の盆を胸に抱えたまま小走りで寄ってきた。広間の時計は、約束の刻限よりまだ四半刻も前を指している。


「どなたのご指示?」


「殿下です。まだお着きでない方が十人ほどいらっしゃいますけれど、どういたしましょう」


 私は入口の扉へ目をやった。婚礼まであと六日。王都に集まった縁者を招く、内輪の歓談会だ。遅れて着いた客が、自分の来る前に乾杯が済んでいたと知れば、気まずい思いをするのは客のほうになる。


「ニナ、盆は誰かに預けて入口に立ってちょうだい。遅れていらした方には、ちょうど今始まったところですとお伝えして、杯をお渡ししてから中へ。ご案内の順はあなたに任せます」


「はい」


 ニナが頷いて駆けていく。私は振り返り、話の途中で置いてきた子爵夫人のもとへ戻った。お孫さんの乳歯が抜けた話の続きを伺わなければならない。


 夫人が三本目の歯の話に差しかかったところで、広間の奥から杯を鳴らす音がした。


 アーヴェル殿下が壇の前に立っていた。金の髪を後ろへ撫でつけ、婚礼衣装の仮縫いで私が選んだものとは違う、見慣れない深緑の上着を着ている。その腕に、薄紅のドレスの令嬢が手を添えていた。伯爵家のミレナ嬢。先月の夜会で、殿下と三度踊っていた方だ。


「皆、聞いてほしい。私は今日ここで、リディア・アルヴェインとの婚約を破棄する」


 杯を持った手が、いくつも宙で止まった。子爵夫人が私の袖を、ほとんど無意識のように掴んだ。


 殿下は私を見つけると、まっすぐこちらへ歩いてきた。人垣が左右に割れる。こういうとき人は本当に道を空けるのだと、妙なところに感心している自分がいた。


「リディア、君はいつも仕事だ。私が話しかけても、次の予定、次の客、次の書類。婚礼の打ち合わせでさえ、君は私ではなく衣装の寸法表を見ていた」


 あの寸法表は、殿下が三度目に上着の意匠を変えたときのものだ。言葉が喉まで上がってきて、そこで止まった。


「ミレナは私の話を聞いてくれる。私が何を望んでいるか、尋ねてくれる。君は一度でも、私自身を見たことがあったか」


 ミレナ嬢は殿下の腕に寄り添ったまま、私と目を合わせなかった。伏せた横顔からは、申し訳なく思っているのか、それとも別の何かを隠しているのか、読み取れない。


 私は殿下の上着の深緑を見ていた。似合っている、と思った。私が選んだ色より、ずっと。


 十八の春に婚約が決まってから六年、私はこの人の隣に立つために働いてきた。公務の補助を覚え、女官の仕事を覚え、前の女官長が退いてからは代理として王宮の内向きを回してきた。忙しさの理由はいつも、この人の婚礼であり、この人の名誉だった。全部が片づいたら、殿下は振り返って、よくやってくれたと言ってくださる。そう思っていた。


 見返りなど求めないつもりでいたのに。


 言い返す材料ならいくらでもある。招待客を二度増やしたのは誰か。花の色を最後に変えたのは誰か。けれど、ここで帳簿を読み上げて勝ったところで、殿下が私を見るようになるわけではない。


「承知いたしました」


 声は思ったよりまっすぐ出た。


「婚約のことは、両家で改めてお話しいただくことになりましょう。本日はお客様がいらっしゃいますので、私は下がらせていただきます」


 一礼して背を向ける。殿下が何か言いかけた気配がしたけれど、続きは聞こえなかった。入口では、ニナが遅れて着いた男爵夫妻に杯を差し出しているところだった。私と目が合うと、彼女はその姿勢のまま固まった。


「ご苦労さま。そのまま続けて」


 それだけ言って、私は広間を出た。


 執務室の扉を閉めると、廊下のざわめきが遠くなった。


 机の上は、今朝出たときのままだった。右手には、婚礼の主卓を飾る背面装飾の確認書。王家の紋とアルヴェイン家の紋を一枚の布に織り合わせた結合紋の、糸の色見本が留めてある。金糸は三度染め直してもらった。殿下が、陽に透かしたときの色が気に入らないとおっしゃったから。


 色見本の端をつまんで、しばらくそのまま持っていた。もう誰も、この布の下には座らない。そう思った途端、怒りより先に、間の抜けた寂しさが来た。三度も染め直したのに、と。


 確認書を脇へ寄せると、その下から紐で綴じた束が出てきた。


 休暇申請書だ。


 王宮の女官四十九人、一人一件ずつ。どれも一度は提出され、私が「婚礼が済むまで」と頼んで保留にしてきたものだ。去年の秋に、久しぶりに母親の顔を見に帰りたいと出されたもの、春の祭りに合わせて出されたもの。書き直された日付の上に、また別の日付が重ねてある。いちばん上の一枚は古参のベアトリスのもので、日付の欄に三度、線が引いてあった。


 婚礼が済むまで。その婚礼が、もうなくなる。


 延期の理由は、一つ残らず消えることになる。


 私は椅子に腰を下ろし、束の紐をほどいた。今すぐ署名するわけにはいかない。婚約の解消は両家の協議で正式に決まるもので、殿下があの場で口にしただけでは、まだ何も決まっていない。決まるのはおそらく明日の朝だ。父のところには、もう知らせが届いているだろう。


 それでも、待つあいだにできることはある。


 四十九件を日付の古い順に重ね直す。本人に今の希望を確かめるための一覧を作る。オルド殿の手元にあるはずの、婚礼後に回すつもりだった交代案の写しを、今夜のうちに届けてもらうよう依頼状を書く。


 ペンを取って最初の行を書きかけたとき、指先が震えているのに気づいた。広間で泣かなかった分が、今になって手に来ているらしい。


 一度ペンを置き、震えが収まるのを待ってから、もう一度握り直した。


 明日の朝、婚約が終わる。そうしたら、この束を全部動かす。

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