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婚約破棄された私、王宮の女官全員に有給休暇を出しました  作者: 白川 透


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17/18

祝いの夜

 エルナが壇に上がったのは、食事の皿が下げられてすぐだった。


 原稿は四つ折りにして手に持っていたけれど、一度も開かなかった。


「二十五年前の春、父と母の婚礼は、この家の庭で始まりました」


 広間のあちこちで、年配の客が顔を見合わせた。あの日にいた人たちだ。


「ところが、食事の途中で雨が降り出しました。皆が皿を抱えて広間へ走るなかで、祖父は帽子を押さえて走ったそうです。普段は、どんなに急ぐときでも決して走らない人でした」


 窓際の卓で、白髪の婦人が口元を押さえた。その隣の老紳士が、走った、走った、と小さく言って、膝を叩いた。


 エルナはそれから、帽子が風で飛ばされかけたこと、祖父がそれを片手で押さえたまま、もう片方の手で祖母の肩掛けを取りに戻ったことを話した。広間の端まで、誰も杯に口をつけなかった。


「父と母の二十五年に、乾杯をお願いします」


 三分と少しだった。


 杯が上がった。子爵は杯を上げたまま、しばらく下ろさなかった。夫人は、ハンカチを膝の上で畳んだり広げたりしていた。


 エルナは壇を下りると、まっすぐ私のところへ来て、原稿を差し出した。


「三分でした?」


「三分と少しです」


「少しは、どのくらいですか」


「お客様が笑っていらしたぶんです」


 エルナは原稿を胸に当てて、ようやく笑った。


 港町からの客が着いたのは、日が傾きはじめたころだった。


 楽団は予定どおり奥へ移り、窓辺の卓では、イルゼ夫人がもう庭を見ながら話しこんでいる。家令が玄関から合図を送ってきたとき、夫人はすでに席を立っていた。食事の時間は済んでいる。門まで迎えに行くのは、夫人の役目だ。


 しばらくして、夫人が一人の男性の腕を取って、広間へ戻ってきた。


 背が高く、日に焼けていて、旅の外套をまだ半分脱ぎかけている。子爵は卓で、ブラウン卿と何かの話をしていた。夫人は子爵の真後ろまで来ると、男性の腕を放した。


「あなた」


 子爵が振り返った。


 それから、何も言わなかった。


 ブラウン卿が、話の途中のまま杯を置いた。子爵は椅子から立ち上がりかけて、膝を卓の脚にぶつけ、それでも立った。


「テオ」


「遅くなった。港を出るのが半日ずれてね」


「お前、なんで」


「呼ばれたからだよ」


 子爵は夫人を見た。夫人は、子爵のその顔を、少し首をかしげて見上げていた。


 ずっと前から、この顔を見るつもりでいた人の顔だった。


「驚いた?」


「驚いた」


「よかった」


 夫人はそれだけ言って、満足そうに子爵の隣の席へ座った。もう自分の番は済んだ、という座り方だった。


 テオドール氏は、子爵と抱き合うようにして背中を二度叩き、それから夫人の向かいに腰を下ろした。給仕が杯を運んでくる前に、もう話しはじめていた。


「二十七年ぶりに言わせてもらうがね。あの晩、私がいなかったら、君たちはまだ壁際に立っていたよ。二人して」


「二十七年は立っていない」


 子爵が言った。


「三曲くらいだ」


「五曲よ」


 夫人が言った。


「五曲も立っていたのか」


「数えていたもの」


「数えていたのなら、誘いに来ればよかったんだ」


「誘うのは、そちらの役目でしょう」


 テオドール氏は、二人を交互に見て、満足そうに頷いた。


「見ろ。これだから、私が背中を押してやらなきゃならなかったんだ。こいつの背中をこう、両手で、思いきり」


「片手だった」


「片手でしたわ」


 二人が別々の方向から言った。テオドール氏は、両手を片手に直さなかった。


 私は広間の奥へ目を向けて、楽団の長に小さく頷いた。


 予定の刻限より、少し早かった。けれど、ちょうどよかった。


 前置きはなかった。誰も壇に上がらず、誰も杯を鳴らさなかった。歓談のざわめきの下から、古い舞曲の最初の小節が、静かに始まった。


 テオドール氏が、話の途中で口を閉じた。


 夫人が、顔を上げた。


 さっきまで子爵の驚いた顔を見上げていたのと同じ角度で、夫人は奥の楽団を見て、それから子爵を見た。今度は、首をかしげていなかった。


 子爵は、夫人の顔を見ていた。何も言わずに、妻が何か言うのを待っていた。きっと、何と言われるかを、何通りも考えてきたのだと思う。


 子爵の手が、卓の上から少し浮いた。


 夫人は何も言わなかった。


 その手が差し出されきる前に、夫人のほうが先に、それを取った。


 テオドール氏が、椅子から腰を浮かせかけた。両手を前に出しかけて、出しどころがないことに気づいて、そのまま膝に下ろした。


 夫人は子爵の手を引いて、広間の中央へ歩いていった。子爵は引かれるままに歩いた。床の真ん中で向かい合って、曲の拍に合わせて、夫人が先に一歩出た。


 子爵の足が、半拍遅れた。


 試奏の日、広間の隅で一歩、半歩と動いて止まった、あの足だった。夫人はそれを待たなかった。もう一度、子爵の手を引いた。子爵は、今度は遅れなかった。


「あいつ、あの晩も最初の一歩を間違えたんだ」


 テオドール氏が、私に向かって言った。私が誰かも知らないまま、たぶん、近くにいたから言った。


「それで、あの人が手を引いた。私の出る幕は、そこで終わった」


「では、今日も」


「今日も、出る幕がなかったな」


 テオドール氏は、それでも嬉しそうだった。


 私は、広間の真ん中を見ていた。


 夫人の手袋は、外してあった。手を使うことではないのね、と私に言った人の手だった。


 踊っている人は、ほかにもいた。ブラウン卿が夫人を誘い、ハイネの叔父様らしい人が、杯を持ったまま、曲に合わせて揺れていた。広間の端で、イルゼ夫人がまだ庭を見ながら話していた。


 曲が終わりに近づいたとき、エルナが私の袖を引いた。


「リディア様。もう一曲、続けられますか」


 私は頭の中で、家令と厨房と楽団に渡した書面をめくった。菓子を出す刻限まで、まだ余裕がある。


「一曲なら」


「一曲で。それから」


 エルナは声を落とした。


「焼き菓子、私の分は残しておいてください」


 彼女は私の手元の進行表を引き寄せて、時刻を一つ書き直した。それから進行表を私に返して、両親のほうを見た。何か書き足したそうな顔をしていたけれど、何も書かなかった。


 二曲目が終わって、子爵と夫人が卓へ戻ってきた。子爵は少し息が上がっていて、夫人は髪を一筋、耳にかけ直していた。


「見たか」


 テオドール氏が言った。


「二十七年経っても、私が引き合わせたとおりだ」


「引き合わせたのはお前だが、手を引いたのは妻だ」


「引き合わせたのはテオだけど、誘ったのは私よ」


 子爵と夫人が、また別々のところを直した。


 卓のまわりで、誰かが笑った。それから、皆が笑った。


 私は自分の手元の進行表に目を落とした。書き直された時刻の横に、エルナの字で小さく、二曲、とある。


 その下に、まだ余白があった。五曲も壁際に立っていた晩のことを、私はもう少し聞きたいと思っていた。

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