祝いの夜
エルナが壇に上がったのは、食事の皿が下げられてすぐだった。
原稿は四つ折りにして手に持っていたけれど、一度も開かなかった。
「二十五年前の春、父と母の婚礼は、この家の庭で始まりました」
広間のあちこちで、年配の客が顔を見合わせた。あの日にいた人たちだ。
「ところが、食事の途中で雨が降り出しました。皆が皿を抱えて広間へ走るなかで、祖父は帽子を押さえて走ったそうです。普段は、どんなに急ぐときでも決して走らない人でした」
窓際の卓で、白髪の婦人が口元を押さえた。その隣の老紳士が、走った、走った、と小さく言って、膝を叩いた。
エルナはそれから、帽子が風で飛ばされかけたこと、祖父がそれを片手で押さえたまま、もう片方の手で祖母の肩掛けを取りに戻ったことを話した。広間の端まで、誰も杯に口をつけなかった。
「父と母の二十五年に、乾杯をお願いします」
三分と少しだった。
杯が上がった。子爵は杯を上げたまま、しばらく下ろさなかった。夫人は、ハンカチを膝の上で畳んだり広げたりしていた。
エルナは壇を下りると、まっすぐ私のところへ来て、原稿を差し出した。
「三分でした?」
「三分と少しです」
「少しは、どのくらいですか」
「お客様が笑っていらしたぶんです」
エルナは原稿を胸に当てて、ようやく笑った。
港町からの客が着いたのは、日が傾きはじめたころだった。
楽団は予定どおり奥へ移り、窓辺の卓では、イルゼ夫人がもう庭を見ながら話しこんでいる。家令が玄関から合図を送ってきたとき、夫人はすでに席を立っていた。食事の時間は済んでいる。門まで迎えに行くのは、夫人の役目だ。
しばらくして、夫人が一人の男性の腕を取って、広間へ戻ってきた。
背が高く、日に焼けていて、旅の外套をまだ半分脱ぎかけている。子爵は卓で、ブラウン卿と何かの話をしていた。夫人は子爵の真後ろまで来ると、男性の腕を放した。
「あなた」
子爵が振り返った。
それから、何も言わなかった。
ブラウン卿が、話の途中のまま杯を置いた。子爵は椅子から立ち上がりかけて、膝を卓の脚にぶつけ、それでも立った。
「テオ」
「遅くなった。港を出るのが半日ずれてね」
「お前、なんで」
「呼ばれたからだよ」
子爵は夫人を見た。夫人は、子爵のその顔を、少し首をかしげて見上げていた。
ずっと前から、この顔を見るつもりでいた人の顔だった。
「驚いた?」
「驚いた」
「よかった」
夫人はそれだけ言って、満足そうに子爵の隣の席へ座った。もう自分の番は済んだ、という座り方だった。
テオドール氏は、子爵と抱き合うようにして背中を二度叩き、それから夫人の向かいに腰を下ろした。給仕が杯を運んでくる前に、もう話しはじめていた。
「二十七年ぶりに言わせてもらうがね。あの晩、私がいなかったら、君たちはまだ壁際に立っていたよ。二人して」
「二十七年は立っていない」
子爵が言った。
「三曲くらいだ」
「五曲よ」
夫人が言った。
「五曲も立っていたのか」
「数えていたもの」
「数えていたのなら、誘いに来ればよかったんだ」
「誘うのは、そちらの役目でしょう」
テオドール氏は、二人を交互に見て、満足そうに頷いた。
「見ろ。これだから、私が背中を押してやらなきゃならなかったんだ。こいつの背中をこう、両手で、思いきり」
「片手だった」
「片手でしたわ」
二人が別々の方向から言った。テオドール氏は、両手を片手に直さなかった。
私は広間の奥へ目を向けて、楽団の長に小さく頷いた。
予定の刻限より、少し早かった。けれど、ちょうどよかった。
前置きはなかった。誰も壇に上がらず、誰も杯を鳴らさなかった。歓談のざわめきの下から、古い舞曲の最初の小節が、静かに始まった。
テオドール氏が、話の途中で口を閉じた。
夫人が、顔を上げた。
さっきまで子爵の驚いた顔を見上げていたのと同じ角度で、夫人は奥の楽団を見て、それから子爵を見た。今度は、首をかしげていなかった。
子爵は、夫人の顔を見ていた。何も言わずに、妻が何か言うのを待っていた。きっと、何と言われるかを、何通りも考えてきたのだと思う。
子爵の手が、卓の上から少し浮いた。
夫人は何も言わなかった。
その手が差し出されきる前に、夫人のほうが先に、それを取った。
テオドール氏が、椅子から腰を浮かせかけた。両手を前に出しかけて、出しどころがないことに気づいて、そのまま膝に下ろした。
夫人は子爵の手を引いて、広間の中央へ歩いていった。子爵は引かれるままに歩いた。床の真ん中で向かい合って、曲の拍に合わせて、夫人が先に一歩出た。
子爵の足が、半拍遅れた。
試奏の日、広間の隅で一歩、半歩と動いて止まった、あの足だった。夫人はそれを待たなかった。もう一度、子爵の手を引いた。子爵は、今度は遅れなかった。
「あいつ、あの晩も最初の一歩を間違えたんだ」
テオドール氏が、私に向かって言った。私が誰かも知らないまま、たぶん、近くにいたから言った。
「それで、あの人が手を引いた。私の出る幕は、そこで終わった」
「では、今日も」
「今日も、出る幕がなかったな」
テオドール氏は、それでも嬉しそうだった。
私は、広間の真ん中を見ていた。
夫人の手袋は、外してあった。手を使うことではないのね、と私に言った人の手だった。
踊っている人は、ほかにもいた。ブラウン卿が夫人を誘い、ハイネの叔父様らしい人が、杯を持ったまま、曲に合わせて揺れていた。広間の端で、イルゼ夫人がまだ庭を見ながら話していた。
曲が終わりに近づいたとき、エルナが私の袖を引いた。
「リディア様。もう一曲、続けられますか」
私は頭の中で、家令と厨房と楽団に渡した書面をめくった。菓子を出す刻限まで、まだ余裕がある。
「一曲なら」
「一曲で。それから」
エルナは声を落とした。
「焼き菓子、私の分は残しておいてください」
彼女は私の手元の進行表を引き寄せて、時刻を一つ書き直した。それから進行表を私に返して、両親のほうを見た。何か書き足したそうな顔をしていたけれど、何も書かなかった。
二曲目が終わって、子爵と夫人が卓へ戻ってきた。子爵は少し息が上がっていて、夫人は髪を一筋、耳にかけ直していた。
「見たか」
テオドール氏が言った。
「二十七年経っても、私が引き合わせたとおりだ」
「引き合わせたのはお前だが、手を引いたのは妻だ」
「引き合わせたのはテオだけど、誘ったのは私よ」
子爵と夫人が、また別々のところを直した。
卓のまわりで、誰かが笑った。それから、皆が笑った。
私は自分の手元の進行表に目を落とした。書き直された時刻の横に、エルナの字で小さく、二曲、とある。
その下に、まだ余白があった。五曲も壁際に立っていた晩のことを、私はもう少し聞きたいと思っていた。
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