二つの秘密
春の半ばの午後、子爵は楽団の位置をもう一度見ておきたいと言って、私を広間へ呼んだ。
楽団の位置は、先月の打ち合わせで最終確認も済んでいる。窓辺から奥へ、移る時刻も書面に入れた。子爵は窓辺に立ち、決まった位置を一度だけ眺めてから、扉が閉まっているのを確かめた。
「実は、頼みがある」
声が、急に小さくなった。
「曲を一つ、入れてほしい。開宴のすぐあと、皆が席についたところで。妻には言わないでほしい」
子爵は、その曲の名を言った。私の知らない、古い舞曲だった。
「若い頃の、ある集まりで流れていた曲でね。それから、何かあるたびに二人で選んできた。娘の洗礼のときも、妻の父上の還暦のときも。今度も、私から妻を誘いたい」
「開宴のすぐあとに」
「妻は、客と話しはじめたら戻ってこない。その前に」
子爵は窓辺から広間の中央へ目を移した。そこに、まだ何もない床が広がっている。
「あの晩、この曲が流れていたんだ」
それ以上は言わなかった。言わないことにしているのか、言わなくても自分には分かるからなのか、私には判断がつかなかった。
広間を出たところで、今度は夫人に呼び止められた。
「リディア様、招待客の確認をお願いしたいの。ちょっと、こちらへ」
こちら、は廊下の角の、花台の陰だった。招待客の確認をする場所ではない。
「一人、名簿に足してほしい方がいるの。でも、夫には内緒にして」
夫人は、港町に住む古い友人の名を言った。テオドール。若い頃、夫と夫人の両方と親しかった人で、ここ十年ほどは手紙のやりとりしかしていないという。
「あの人がいなかったら、私たち、たぶん結婚していないの。あの晩、二人とも踊りたいくせに、どちらも誘いに行かなくて。見かねたテオが、私たちの背中を押したのよ」
あの晩。
私は、さっき広間で聞いた言葉を思い出した。
「港町からだと、着くのは夕方になるわ。だから、後半はゆっくり話せるように、大きな催しは入れないでほしいの。主人が驚く顔を、私が隣で見たいから」
二人とも、あの晩と言った。
二人の贈り物は、ばらばらに用意しても成り立つ。子爵は開宴すぐに曲を流し、夫人は後半に友人を迎える。どちらの希望も、時刻の上ではぶつかっていない。
けれど、あの晩の曲が、あの晩の人の前で流れたら。
私はそれを、ひどく見てみたくなった。
翌日、私はまず夫人に、それから子爵に、同じことを尋ねた。
「ご準備なさっていることがある、ということだけ、お相手の方へお伝えしてもよろしいでしょうか。中身は申しません。時刻を合わせるために、それだけは必要なのです」
夫人は、主人も何か用意しているの、とは聞かなかった。少し考えて、それだけなら、と言った。
子爵は、聞いた。
「妻も、何か用意しているのか」
「旦那様がご準備なさっていることを、奥様へお伝えしてよいか、伺っています」
「伝えてくれていい。それで、妻は何を用意している」
了承を取りに来たはずが、了承と質問が同時に返ってきた。
「申し上げられません」
「人か、物か」
「申し上げられません」
「大きいか、小さいか」
「旦那様」
「いや、大きさくらいは」
「旦那様の曲が、大きいか小さいか、奥様に申し上げてよろしいですか」
子爵は黙った。
「奥様も、旦那様に喜んでいただくための準備をなさっています。私はそれと、旦那様の曲を合わせたいのです。ですから、曲を開宴のすぐあとではなく、後半の歓談の途中に動かしていただけませんか」
「後半では、妻は客と話しこんでいる」
「奥様にも、後半のお時間を空けていただきます。お誘いになる機会は、こちらで整えます」
「そういうことを心配しているんじゃない」
子爵は、窓辺の床板を靴の先で一度叩いた。
「妻の準備と合わせたら、何がどうなる」
「申し上げられません」
「なるほど」
なるほど、と言ったきり、子爵はしばらく窓の外を見ていた。庭の木は、まだ半分しか芽吹いていない。
「それは、私が驚いたほうがいいものなのか」
「驚いていただけると、奥様はお喜びになると思います」
「では、驚く準備をしておこう」
「準備をなさると、驚けません」
「……では、何もしないでおこう」
子爵は振り返った。曲を後半に動かすことに、もう反対はしなかった。
「曲の前に、一言だけ挨拶を入れてもいいだろうか。なぜこの曲なのか、皆に」
「どのような一言を」
子爵は咳払いをして、広間の中央を向いた。
「皆さん。今から流れるこの曲は、二十五年前、いや、正確には二十七年前の、ある春の晩に。私はまだ若く、妻はさらに若く」
子爵は口を閉じた。
「……長いな」
「長いです」
子爵は少し笑って、挨拶はやめておく、と言った。
夫人のほうは、子爵のようには聞いてこなかった。
その週の終わり、招待客の席順を見せに行くと、夫人は名簿をめくりながら言った。
「主人も何か用意しているのでしょう。いいの、聞かないわ。楽しみにしておくから」
「ありがとうございます」
「ところで、当日の手袋なんだけど」
夫人は名簿から顔を上げなかった。
「後半は、外しておいたほうがいいかしら。食事の後は暑くなるでしょう」
「そうですね、お手を」
お手を取られることを考えると、と続けかけて、私は止まった。
「……お好きなほうで、よろしいかと」
「どちらでもいいのね」
夫人は名簿をもう一枚めくった。
「手を使うことでは、ないのね」
私は返事をしなかった。返事をしないことまで、たぶん材料にされた。
夫人は名簿を閉じて、にっこりした。私は一礼して部屋を出てから、廊下で一度だけ立ち止まった。何も明かしていない。明かしていないはずだった。
エルナには、当日に必要なことだけを伝えた。後半の歓談の途中で、楽団が一曲、予定にない曲を演奏すること。その少し前に、港町からの客が一人着くかもしれないこと。着かなくても、曲は予定の刻限に始めること。料理を下げる合図は、家令と厨房に先に伝えてあること。
エルナは帳面に書きつけて、それから天井を見た。
「また増えた」
「増えました」
「父も母も、私には何も言わないんです。二人とも、私が知らないと思ってるんです」
「エルナ様は、ご存じなのですか」
「知りません。でも、二人ともここ一週間、私にやたらと優しいので」
エルナは帳面を閉じた。
「ばれたくないことがある人の優しさです」
試奏は、夫人が港町の友人へ手紙を出しに出かけた午後に、短く済ませた。
楽団が最初の数小節を弾くと、広間の隅で聞いていた子爵の靴の先が、床板の上で小さく動いた。一歩、半歩。それから止まった。
子爵は自分の足元を見て、少しだけ苦い顔をした。何か言うかと思ったけれど、何も言わなかった。
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