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婚約破棄された私、王宮の女官全員に有給休暇を出しました  作者: 白川 透


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16/18

二つの秘密

 春の半ばの午後、子爵は楽団の位置をもう一度見ておきたいと言って、私を広間へ呼んだ。


 楽団の位置は、先月の打ち合わせで最終確認も済んでいる。窓辺から奥へ、移る時刻も書面に入れた。子爵は窓辺に立ち、決まった位置を一度だけ眺めてから、扉が閉まっているのを確かめた。


「実は、頼みがある」


 声が、急に小さくなった。


「曲を一つ、入れてほしい。開宴のすぐあと、皆が席についたところで。妻には言わないでほしい」


 子爵は、その曲の名を言った。私の知らない、古い舞曲だった。


「若い頃の、ある集まりで流れていた曲でね。それから、何かあるたびに二人で選んできた。娘の洗礼のときも、妻の父上の還暦のときも。今度も、私から妻を誘いたい」


「開宴のすぐあとに」


「妻は、客と話しはじめたら戻ってこない。その前に」


 子爵は窓辺から広間の中央へ目を移した。そこに、まだ何もない床が広がっている。


「あの晩、この曲が流れていたんだ」


 それ以上は言わなかった。言わないことにしているのか、言わなくても自分には分かるからなのか、私には判断がつかなかった。


 広間を出たところで、今度は夫人に呼び止められた。


「リディア様、招待客の確認をお願いしたいの。ちょっと、こちらへ」


 こちら、は廊下の角の、花台の陰だった。招待客の確認をする場所ではない。


「一人、名簿に足してほしい方がいるの。でも、夫には内緒にして」


 夫人は、港町に住む古い友人の名を言った。テオドール。若い頃、夫と夫人の両方と親しかった人で、ここ十年ほどは手紙のやりとりしかしていないという。


「あの人がいなかったら、私たち、たぶん結婚していないの。あの晩、二人とも踊りたいくせに、どちらも誘いに行かなくて。見かねたテオが、私たちの背中を押したのよ」


 あの晩。


 私は、さっき広間で聞いた言葉を思い出した。


「港町からだと、着くのは夕方になるわ。だから、後半はゆっくり話せるように、大きな催しは入れないでほしいの。主人が驚く顔を、私が隣で見たいから」


 二人とも、あの晩と言った。


 二人の贈り物は、ばらばらに用意しても成り立つ。子爵は開宴すぐに曲を流し、夫人は後半に友人を迎える。どちらの希望も、時刻の上ではぶつかっていない。


 けれど、あの晩の曲が、あの晩の人の前で流れたら。


 私はそれを、ひどく見てみたくなった。


 翌日、私はまず夫人に、それから子爵に、同じことを尋ねた。


「ご準備なさっていることがある、ということだけ、お相手の方へお伝えしてもよろしいでしょうか。中身は申しません。時刻を合わせるために、それだけは必要なのです」


 夫人は、主人も何か用意しているの、とは聞かなかった。少し考えて、それだけなら、と言った。


 子爵は、聞いた。


「妻も、何か用意しているのか」


「旦那様がご準備なさっていることを、奥様へお伝えしてよいか、伺っています」


「伝えてくれていい。それで、妻は何を用意している」


 了承を取りに来たはずが、了承と質問が同時に返ってきた。


「申し上げられません」


「人か、物か」


「申し上げられません」


「大きいか、小さいか」


「旦那様」


「いや、大きさくらいは」


「旦那様の曲が、大きいか小さいか、奥様に申し上げてよろしいですか」


 子爵は黙った。


「奥様も、旦那様に喜んでいただくための準備をなさっています。私はそれと、旦那様の曲を合わせたいのです。ですから、曲を開宴のすぐあとではなく、後半の歓談の途中に動かしていただけませんか」


「後半では、妻は客と話しこんでいる」


「奥様にも、後半のお時間を空けていただきます。お誘いになる機会は、こちらで整えます」


「そういうことを心配しているんじゃない」


 子爵は、窓辺の床板を靴の先で一度叩いた。


「妻の準備と合わせたら、何がどうなる」


「申し上げられません」


「なるほど」


 なるほど、と言ったきり、子爵はしばらく窓の外を見ていた。庭の木は、まだ半分しか芽吹いていない。


「それは、私が驚いたほうがいいものなのか」


「驚いていただけると、奥様はお喜びになると思います」


「では、驚く準備をしておこう」


「準備をなさると、驚けません」


「……では、何もしないでおこう」


 子爵は振り返った。曲を後半に動かすことに、もう反対はしなかった。


「曲の前に、一言だけ挨拶を入れてもいいだろうか。なぜこの曲なのか、皆に」


「どのような一言を」


 子爵は咳払いをして、広間の中央を向いた。


「皆さん。今から流れるこの曲は、二十五年前、いや、正確には二十七年前の、ある春の晩に。私はまだ若く、妻はさらに若く」


 子爵は口を閉じた。


「……長いな」


「長いです」


 子爵は少し笑って、挨拶はやめておく、と言った。


 夫人のほうは、子爵のようには聞いてこなかった。


 その週の終わり、招待客の席順を見せに行くと、夫人は名簿をめくりながら言った。


「主人も何か用意しているのでしょう。いいの、聞かないわ。楽しみにしておくから」


「ありがとうございます」


「ところで、当日の手袋なんだけど」


 夫人は名簿から顔を上げなかった。


「後半は、外しておいたほうがいいかしら。食事の後は暑くなるでしょう」


「そうですね、お手を」


 お手を取られることを考えると、と続けかけて、私は止まった。


「……お好きなほうで、よろしいかと」


「どちらでもいいのね」


 夫人は名簿をもう一枚めくった。


「手を使うことでは、ないのね」


 私は返事をしなかった。返事をしないことまで、たぶん材料にされた。


 夫人は名簿を閉じて、にっこりした。私は一礼して部屋を出てから、廊下で一度だけ立ち止まった。何も明かしていない。明かしていないはずだった。


 エルナには、当日に必要なことだけを伝えた。後半の歓談の途中で、楽団が一曲、予定にない曲を演奏すること。その少し前に、港町からの客が一人着くかもしれないこと。着かなくても、曲は予定の刻限に始めること。料理を下げる合図は、家令と厨房に先に伝えてあること。


 エルナは帳面に書きつけて、それから天井を見た。


「また増えた」


「増えました」


「父も母も、私には何も言わないんです。二人とも、私が知らないと思ってるんです」


「エルナ様は、ご存じなのですか」


「知りません。でも、二人ともここ一週間、私にやたらと優しいので」


 エルナは帳面を閉じた。


「ばれたくないことがある人の優しさです」


 試奏は、夫人が港町の友人へ手紙を出しに出かけた午後に、短く済ませた。


 楽団が最初の数小節を弾くと、広間の隅で聞いていた子爵の靴の先が、床板の上で小さく動いた。一歩、半歩。それから止まった。


 子爵は自分の足元を見て、少しだけ苦い顔をした。何か言うかと思ったけれど、何も言わなかった。

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