七拍
王都の北の庭園までは、馬車で二刻かかった。
侍女は向かいの席で、出発して半刻もしないうちに眠ってしまった。私も途中で少し眠った。目を覚ますと、ルシアン殿は窓の外を見ていて、膝の上に、古い革表紙の本を一冊載せていた。
「その本ですか」
「その本です」
彼は本を開かなかった。着いてから、と言った。
庭園は、思っていたより古かった。
門を入ると、刈りこまれた生垣が奥まで続いていて、その向こうに、花の盛りの花壇が広がっていた。見物の人たちは、まっすぐそちらへ流れていく。
ルシアン殿は、花壇のほうへは行かなかった。生垣の脇の、細い砂利道へ入っていった。
「花は」
「あとで」
砂利道の先に、小川が流れていた。その上に、石の橋が一つ架かっている。欄干の低い、苔の生えた、どこにでもありそうな橋だった。
ルシアン殿は橋の真ん中まで行って、立ち止まった。
それから、しばらく何も言わなかった。
私は彼の隣に立って、同じように川面を見た。水は浅くて、底の石が見えた。上流から、白い花びらが一枚流れてきて、橋の下へ消えた。
ルシアン殿が、欄干から身を乗り出して、橋の反対側を覗いた。
「何をなさっているんですか」
「花びらが、橋の下を抜けるのに何拍かかるか」
「数えていたんですか」
「七拍でした」
「そのために、ここまで?」
「そのために」
彼は欄干から身を戻して、満足そうな顔をした。
「書いてあったとおりでした」
花壇は、そのあとで見た。
確かに見事だった。赤や黄色の花が、刺繍の図案みたいに区切られて咲いていて、見物の人たちが、その縁をゆっくり回っていた。ルシアン殿は、ちゃんと花壇も一回りした。一回りしてから、もう一度、橋のほうを振り返った。
「橋のほうが、お好きなんですね」
「花壇も、きれいだと思います」
「思います、と言うときの声でした」
ルシアン殿は少し笑って、否定しなかった。
帰りの馬車の刻限が近づいて、私たちは橋の近くの長椅子に座った。侍女は、少し離れた木陰で、売店で買った焼き菓子の包みを開いている。
ルシアン殿は、ようやく膝の上の本を開いた。
「ここです」
開いた頁を、私のほうへ傾けた。旅の随筆だった。この庭園の、橋のことが書いてある。名高い花壇には一行しか触れず、残りは全部、苔の生えた橋と、その下を流れる花びらのことだった。花びらが橋の下を抜けるのに、七拍かかる、とあった。
私は、隣から本を覗きこんだ。
頁は小さくて、字も細かかった。覗きこむと、肩が、彼の肩に触れそうなところまで寄った。
私はそのまま読んだ。離れなかった。
ルシアン殿も、本を引かなかった。
読み終えて、頁の余白に目が行った。
余白に、細い字で、何か書き込みがあった。本の印刷の字ではない。インクの色が、少しだけ褪せている。
次は焼きたてを、そのまま。
「これは」
ルシアン殿が、私の視線の先を見た。それから、ほんの少しだけ、本を自分のほうへ引き戻しかけた。
「……私の字です」
「ルシアン殿の」
「若い頃に、旅先で書きました。その本を持って歩いていたので」
「焼きたて、というのは」
「パンの話です」
それ以上、彼は言わなかった。言わないことにしている顔だった。橋の上で、花びらが何拍で抜けるかを数えていた人と、同じ顔とは思えなかった。
私は、もう少しだけ、その本を読みたくなった。
「お借りしてもよろしいですか」
ルシアン殿は、本と私の顔を見比べた。
「余白も、読まれますね」
「読みます」
「……そうですよね」
彼は少し迷ってから、本を閉じて、私の膝の上に載せた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私は本の表紙に手を置いた。革が、彼の膝の上にあったぶん、温かかった。
「祝いが終わったら」
私は言った。
「お連れしたい店があります。この本の感想は、そこでお話しします」
「店」
「二年前から、入りそびれている店です」
ルシアン殿は、少し不思議そうな顔をした。
「二年も」
「二年もです」
「では、楽しみにしています。二年ぶんの」
馬車の刻限を告げる鐘が、門のほうから聞こえた。侍女が、焼き菓子の包みを畳んで立ち上がった。
その夜、公爵邸の自室で、借りた本を読んだ。
旅の随筆は、思っていたより面白かった。橋の話のほかに、峠の宿の話と、港の市場の話があった。余白には、ところどころに、細い字の書き込みがあった。
三つ目の書き込みに、店の名前があった。
前の二つと、同じ名前だった。
四つ目からは、数えることにした。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




