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婚約破棄された私、王宮の女官全員に有給休暇を出しました  作者: 白川 透


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15/18

七拍

 王都の北の庭園までは、馬車で二刻かかった。


 侍女は向かいの席で、出発して半刻もしないうちに眠ってしまった。私も途中で少し眠った。目を覚ますと、ルシアン殿は窓の外を見ていて、膝の上に、古い革表紙の本を一冊載せていた。


「その本ですか」


「その本です」


 彼は本を開かなかった。着いてから、と言った。


 庭園は、思っていたより古かった。


 門を入ると、刈りこまれた生垣が奥まで続いていて、その向こうに、花の盛りの花壇が広がっていた。見物の人たちは、まっすぐそちらへ流れていく。


 ルシアン殿は、花壇のほうへは行かなかった。生垣の脇の、細い砂利道へ入っていった。


「花は」


「あとで」


 砂利道の先に、小川が流れていた。その上に、石の橋が一つ架かっている。欄干の低い、苔の生えた、どこにでもありそうな橋だった。


 ルシアン殿は橋の真ん中まで行って、立ち止まった。


 それから、しばらく何も言わなかった。


 私は彼の隣に立って、同じように川面を見た。水は浅くて、底の石が見えた。上流から、白い花びらが一枚流れてきて、橋の下へ消えた。


 ルシアン殿が、欄干から身を乗り出して、橋の反対側を覗いた。


「何をなさっているんですか」


「花びらが、橋の下を抜けるのに何拍かかるか」


「数えていたんですか」


「七拍でした」


「そのために、ここまで?」


「そのために」


 彼は欄干から身を戻して、満足そうな顔をした。


「書いてあったとおりでした」


 花壇は、そのあとで見た。


 確かに見事だった。赤や黄色の花が、刺繍の図案みたいに区切られて咲いていて、見物の人たちが、その縁をゆっくり回っていた。ルシアン殿は、ちゃんと花壇も一回りした。一回りしてから、もう一度、橋のほうを振り返った。


「橋のほうが、お好きなんですね」


「花壇も、きれいだと思います」


「思います、と言うときの声でした」


 ルシアン殿は少し笑って、否定しなかった。


 帰りの馬車の刻限が近づいて、私たちは橋の近くの長椅子に座った。侍女は、少し離れた木陰で、売店で買った焼き菓子の包みを開いている。


 ルシアン殿は、ようやく膝の上の本を開いた。


「ここです」


 開いた頁を、私のほうへ傾けた。旅の随筆だった。この庭園の、橋のことが書いてある。名高い花壇には一行しか触れず、残りは全部、苔の生えた橋と、その下を流れる花びらのことだった。花びらが橋の下を抜けるのに、七拍かかる、とあった。


 私は、隣から本を覗きこんだ。


 頁は小さくて、字も細かかった。覗きこむと、肩が、彼の肩に触れそうなところまで寄った。


 私はそのまま読んだ。離れなかった。


 ルシアン殿も、本を引かなかった。


 読み終えて、頁の余白に目が行った。


 余白に、細い字で、何か書き込みがあった。本の印刷の字ではない。インクの色が、少しだけ褪せている。


 次は焼きたてを、そのまま。


「これは」


 ルシアン殿が、私の視線の先を見た。それから、ほんの少しだけ、本を自分のほうへ引き戻しかけた。


「……私の字です」


「ルシアン殿の」


「若い頃に、旅先で書きました。その本を持って歩いていたので」


「焼きたて、というのは」


「パンの話です」


 それ以上、彼は言わなかった。言わないことにしている顔だった。橋の上で、花びらが何拍で抜けるかを数えていた人と、同じ顔とは思えなかった。


 私は、もう少しだけ、その本を読みたくなった。


「お借りしてもよろしいですか」


 ルシアン殿は、本と私の顔を見比べた。


「余白も、読まれますね」


「読みます」


「……そうですよね」


 彼は少し迷ってから、本を閉じて、私の膝の上に載せた。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 私は本の表紙に手を置いた。革が、彼の膝の上にあったぶん、温かかった。


「祝いが終わったら」


 私は言った。


「お連れしたい店があります。この本の感想は、そこでお話しします」


「店」


「二年前から、入りそびれている店です」


 ルシアン殿は、少し不思議そうな顔をした。


「二年も」


「二年もです」


「では、楽しみにしています。二年ぶんの」


 馬車の刻限を告げる鐘が、門のほうから聞こえた。侍女が、焼き菓子の包みを畳んで立ち上がった。


 その夜、公爵邸の自室で、借りた本を読んだ。


 旅の随筆は、思っていたより面白かった。橋の話のほかに、峠の宿の話と、港の市場の話があった。余白には、ところどころに、細い字の書き込みがあった。


 三つ目の書き込みに、店の名前があった。


 前の二つと、同じ名前だった。


 四つ目からは、数えることにした。

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