坂の途中の店
ローデン家からの報酬は、祝いの三日後に届いた。家令の手紙が添えてあって、来年の秋に、エルナ様の婚約の内祝いがあるかもしれない、とだけ書いてあった。かもしれない、の横に、四角い字で小さく、まだです、と書き足してあった。
私は日付だけ控えて、手紙を引き出しにしまった。
店は、王宮の西門から坂を下りたところにある。
二年前、西門の衛兵詰所へ当番表を届けた帰りに、この店の前で足を止めたことがある。窓に、蜜を塗った林檎の焼き菓子が並んでいた。時間がなくて入れず、そのまま二年たった。
「ここです」
ルシアン殿は、店の看板を見上げた。坂の途中の、間口の狭い店だ。扉の上の木の看板は、文字の半分が雨で薄くなっている。
「ずいぶん、坂の途中ですね」
「帰りは上り坂です。先に言っておきます」
ルシアン殿が、少し笑った。
中は思ったより奥行きがあって、炉の熱がこもっていた。侍女は入口近くの卓に座り、私たちは炉から一つ離れた窓際に通された。
私は品書きを開かずに頼んだ。林檎の焼き菓子を一つ。それから、塩漬けの豚と豆の煮込みを一つ。焼いたパンを一籠。
「煮込みは、ルシアン殿の分です。甘くありません。窓から覗いたとき、隣の卓の方が食べていました」
「二年前に」
「二年前に」
ルシアン殿は、それ以上は聞かなかった。代わりに、今日は私がご馳走になります、とだけ言った。言い方が素直すぎて、私のほうが少し調子を崩した。
料理を待つあいだ、祝いの話をした。名前を出さずに話せることだけ。
五曲も壁際に立っていた人たちのこと。両手を片手に直さなかった人のこと。祖父が帽子を押さえて走った話で、広間の誰も杯に口をつけなかったこと。
「楽団に合図を出したのは、予定の刻限より少し早かったんです」
「早かった」
「ちょうど、昔の話になったところだったので」
パンの籠が来た。焼きたてで、割ると湯気が出た。
私は鞄から、庭園で借りた本を出して、卓の端に置いた。
「お返しします。ありがとうございました」
「どうでしたか」
「旅の随筆としては、二章目が好きでした。橋の話の」
ルシアン殿は、少し安心した顔をした。
「余白のほうは」
「余白のほうは」
私は本を開かずに言った。
「同じ店の名前が、七回出てきます」
ルシアン殿の手が、パンの籠の上で止まった。
「数えたんですか」
「四回目から数えはじめて、最初に戻りました」
「三回目までは、数えていなかったのに」
「三回目までは、偶然かと思いました」
彼は観念したように、パンを一切れ取った。
「どうして、そんなに通ったんですか」
ルシアン殿は、パンを持ったまま少し考えた。それから、とても真面目な顔をした。
「あの店の煮込みには、薄い焼きパンがついてくるんです」
「はい」
「それを、煮込みに浸して食べるのか、そのまま食べるのか、という問題がありまして」
どうして通ったのかを聞いたはずだった。
「浸すと、パンが汁を吸って、香草の匂いがパンの側に移ります。煮込みの一番いいところが、パンで食べられる。私は、断然、浸すべきだと思っていました」
「思っていました」
「店主は、そのまま食べろと言うんです。焼きたての最初の一口だけは、何もつけずに食べてくれ、と。それで、毎回」
「毎回、言い争いを」
「言い争いではありません」
ルシアン殿は、少しむっとした。
「議論です。店主も楽しんでいました。私が浸すと、向こうは厨房から首を振る。私がそれを見て、もう一切れ浸す。向こうがもう一枚、焼きたてを持ってくる」
「それは、パンが減りませんね」
「減りませんでした。七回行って、たぶん、二十枚は食べています」
「店主の勝ちですね」
ルシアン殿は口を開いて、何も言わずに閉じた。
私は笑って、林檎の焼き菓子にようやく手をつけた。蜜が温かくて、思っていたより甘かった。二年待ったぶん甘いのかもしれなかった。
「それで、次は焼きたてを、そのまま」
「最後の日に、書きました。次に行ったら、店主の言うとおりにしてみようと」
「行けましたか」
「行けませんでした。任地が変わったので」
ルシアン殿は、手元のパンを見下ろした。焼きたてで、まだ割っていない。
彼はそれを割って、煮込みの皿へ持っていきかけて、途中で止めた。
それから、何もつけずに、一口食べた。
しばらく、黙って噛んでいた。
「どうですか」
「……悔しいことに」
それ以上は言わなかった。二口目は、煮込みに浸した。
店を出ると、坂の上に、まだ日が残っていた。
馬車は坂の上の広場で待っている。侍女が先に立って、少し離れて上りはじめた。私たちはその後ろを、並んで上った。
「上り坂ですね」
「上り坂です。先に言いました」
上り坂の半分ほどで、ルシアン殿は、また来ましょう、と言いかけた。言いかけて、やめた。
「何か」
「いえ」
彼は坂の上を見た。広場の屋根が、もう見えていた。
「今日は、もう少し坂が長ければよかったと思っているだけです」
私は、坂の上の屋根を見た。それから、隣の人を見た。
パンの話をしているときの顔を、まだ覚えていた。むっとして、議論です、と言ったときの顔も。悔しいことに、と言ったきり、二口目を浸したときの顔も。
侍女は、ちょうど坂の角を曲がったところだった。
私は一歩寄って、ルシアン殿の頬に、短く口づけた。
ルシアン殿は止まった。
坂の途中で、片足を一歩先に出したまま、止まっていた。何か言おうとして、口を開いて、言葉が出てこないまま閉じた。いつもなら、ここで何か整ったことを言う人だった。
私は急に恥ずかしくなって、一歩下がろうとした。
その手を、取られた。
「待ってください」
声が、少し掠れていた。
「今、何か言いますから」
「言わなくても」
「言います。少し、待ってください」
ルシアン殿は私の手を握ったまま、坂の下を見て、上を見て、それから私を見た。
「……だめですね。何も出てきません」
「出てこなくて、いいです」
「出てこないのに、手を離したくないので、困っています」
私は笑ってしまった。笑ったら、手を引くきっかけがなくなった。
坂の角から、侍女が顔を出して、すぐに引っこめた。
「見られましたね」
「見られました」
「侍女に、何と言いましょう」
ルシアン殿は、少し考えた。私の手は、まだ離されていなかった。
「それも、出てきません」
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