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婚約破棄された私、王宮の女官全員に有給休暇を出しました  作者: 白川 透


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18/18

坂の途中の店

 ローデン家からの報酬は、祝いの三日後に届いた。家令の手紙が添えてあって、来年の秋に、エルナ様の婚約の内祝いがあるかもしれない、とだけ書いてあった。かもしれない、の横に、四角い字で小さく、まだです、と書き足してあった。


 私は日付だけ控えて、手紙を引き出しにしまった。


 店は、王宮の西門から坂を下りたところにある。


 二年前、西門の衛兵詰所へ当番表を届けた帰りに、この店の前で足を止めたことがある。窓に、蜜を塗った林檎の焼き菓子が並んでいた。時間がなくて入れず、そのまま二年たった。


「ここです」


 ルシアン殿は、店の看板を見上げた。坂の途中の、間口の狭い店だ。扉の上の木の看板は、文字の半分が雨で薄くなっている。


「ずいぶん、坂の途中ですね」


「帰りは上り坂です。先に言っておきます」


 ルシアン殿が、少し笑った。


 中は思ったより奥行きがあって、炉の熱がこもっていた。侍女は入口近くの卓に座り、私たちは炉から一つ離れた窓際に通された。


 私は品書きを開かずに頼んだ。林檎の焼き菓子を一つ。それから、塩漬けの豚と豆の煮込みを一つ。焼いたパンを一籠。


「煮込みは、ルシアン殿の分です。甘くありません。窓から覗いたとき、隣の卓の方が食べていました」


「二年前に」


「二年前に」


 ルシアン殿は、それ以上は聞かなかった。代わりに、今日は私がご馳走になります、とだけ言った。言い方が素直すぎて、私のほうが少し調子を崩した。


 料理を待つあいだ、祝いの話をした。名前を出さずに話せることだけ。


 五曲も壁際に立っていた人たちのこと。両手を片手に直さなかった人のこと。祖父が帽子を押さえて走った話で、広間の誰も杯に口をつけなかったこと。


「楽団に合図を出したのは、予定の刻限より少し早かったんです」


「早かった」


「ちょうど、昔の話になったところだったので」


 パンの籠が来た。焼きたてで、割ると湯気が出た。


 私は鞄から、庭園で借りた本を出して、卓の端に置いた。


「お返しします。ありがとうございました」


「どうでしたか」


「旅の随筆としては、二章目が好きでした。橋の話の」


 ルシアン殿は、少し安心した顔をした。


「余白のほうは」


「余白のほうは」


 私は本を開かずに言った。


「同じ店の名前が、七回出てきます」


 ルシアン殿の手が、パンの籠の上で止まった。


「数えたんですか」


「四回目から数えはじめて、最初に戻りました」


「三回目までは、数えていなかったのに」


「三回目までは、偶然かと思いました」


 彼は観念したように、パンを一切れ取った。


「どうして、そんなに通ったんですか」


 ルシアン殿は、パンを持ったまま少し考えた。それから、とても真面目な顔をした。


「あの店の煮込みには、薄い焼きパンがついてくるんです」


「はい」


「それを、煮込みに浸して食べるのか、そのまま食べるのか、という問題がありまして」


 どうして通ったのかを聞いたはずだった。


「浸すと、パンが汁を吸って、香草の匂いがパンの側に移ります。煮込みの一番いいところが、パンで食べられる。私は、断然、浸すべきだと思っていました」


「思っていました」


「店主は、そのまま食べろと言うんです。焼きたての最初の一口だけは、何もつけずに食べてくれ、と。それで、毎回」


「毎回、言い争いを」


「言い争いではありません」


 ルシアン殿は、少しむっとした。


「議論です。店主も楽しんでいました。私が浸すと、向こうは厨房から首を振る。私がそれを見て、もう一切れ浸す。向こうがもう一枚、焼きたてを持ってくる」


「それは、パンが減りませんね」


「減りませんでした。七回行って、たぶん、二十枚は食べています」


「店主の勝ちですね」


 ルシアン殿は口を開いて、何も言わずに閉じた。


 私は笑って、林檎の焼き菓子にようやく手をつけた。蜜が温かくて、思っていたより甘かった。二年待ったぶん甘いのかもしれなかった。


「それで、次は焼きたてを、そのまま」


「最後の日に、書きました。次に行ったら、店主の言うとおりにしてみようと」


「行けましたか」


「行けませんでした。任地が変わったので」


 ルシアン殿は、手元のパンを見下ろした。焼きたてで、まだ割っていない。


 彼はそれを割って、煮込みの皿へ持っていきかけて、途中で止めた。


 それから、何もつけずに、一口食べた。


 しばらく、黙って噛んでいた。


「どうですか」


「……悔しいことに」


 それ以上は言わなかった。二口目は、煮込みに浸した。


 店を出ると、坂の上に、まだ日が残っていた。


 馬車は坂の上の広場で待っている。侍女が先に立って、少し離れて上りはじめた。私たちはその後ろを、並んで上った。


「上り坂ですね」


「上り坂です。先に言いました」


 上り坂の半分ほどで、ルシアン殿は、また来ましょう、と言いかけた。言いかけて、やめた。


「何か」


「いえ」


 彼は坂の上を見た。広場の屋根が、もう見えていた。


「今日は、もう少し坂が長ければよかったと思っているだけです」


 私は、坂の上の屋根を見た。それから、隣の人を見た。


 パンの話をしているときの顔を、まだ覚えていた。むっとして、議論です、と言ったときの顔も。悔しいことに、と言ったきり、二口目を浸したときの顔も。


 侍女は、ちょうど坂の角を曲がったところだった。


 私は一歩寄って、ルシアン殿の頬に、短く口づけた。


 ルシアン殿は止まった。


 坂の途中で、片足を一歩先に出したまま、止まっていた。何か言おうとして、口を開いて、言葉が出てこないまま閉じた。いつもなら、ここで何か整ったことを言う人だった。


 私は急に恥ずかしくなって、一歩下がろうとした。


 その手を、取られた。


「待ってください」


 声が、少し掠れていた。


「今、何か言いますから」


「言わなくても」


「言います。少し、待ってください」


 ルシアン殿は私の手を握ったまま、坂の下を見て、上を見て、それから私を見た。


「……だめですね。何も出てきません」


「出てこなくて、いいです」


「出てこないのに、手を離したくないので、困っています」


 私は笑ってしまった。笑ったら、手を引くきっかけがなくなった。


 坂の角から、侍女が顔を出して、すぐに引っこめた。


「見られましたね」


「見られました」


「侍女に、何と言いましょう」


 ルシアン殿は、少し考えた。私の手は、まだ離されていなかった。


「それも、出てきません」

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