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婚約破棄された私、王宮の女官全員に有給休暇を出しました  作者: 白川 透


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13/18

故郷の煮込み

 服が上がったという知らせは、注文から十二日目に届いていた。受け取りに行けたのは、父への挨拶の翌日だった。


 マルタの店の奥で袖を通すと、鳩羽色は、端切れで見たときより少し青く見えた。鏡の前で腕を下ろすと、手首から肘へ、貝のボタンが斜めに並んでいる。外側に寄せた列は、正面から見るとちょうどよく目に入った。


 私は鏡の前で、腕を下から前へ伸ばした。


「ここでは投げないでください」


 マルタが言った。


「投げていません」


「後ろに棚があります」


 振り返ると、確かに、反物の棚がすぐ後ろにあった。私は腕を下ろした。袖はどこにも引っかからなかった。棚にも当たらなかった。


 店の入口で、別の客が待っていた。マルタは私に代金の受け取りを書きつけてから、すぐにそちらへ行った。ベアトリスは今日はいなかった。王宮で勤めの日だという。


 その服を着て、ルシアン殿と出かけたのは、三日後だった。


 待ち合わせの広場で、彼は私を見ると、一度だけ足を止めた。


「その色は、よくお似合いです」


 そう言ってから、目が袖口へ下りた。


「ボタンが、外側に」


「腕を前に出したとき、内側に何も当たらないように寄せてもらったんです。並びは少し短くなりましたけど、正面から見えるのは、もともと外側ですから。それに、肘の手前で止めてあるので、腕を振っても」


 私は、下から前へ、腕を伸ばしてみせた。広場の真ん中で。


 ルシアン殿は、私の腕の動きを最後まで目で追った。


「……三戦目のための服ですか」


「外出用です」


「外出先で、輪投げがあるかもしれない」


「あるかもしれません」


 ルシアン殿は、しばらく私の袖口を見ていた。


「公邸の裏庭に、もう一本、杭を立てようと思います」


「執事が止めます」


「今度は、説得します」


 彼が連れていってくれたのは、川向こうの、職人の家が並ぶ通りの奥にある食堂だった。


 扉を開けると、知らない香草の匂いがした。壁に、見たことのない文字の札が掛かっている。彼の国の文字だった。店主は彼を見ると、私には分からない言葉で何か言い、ルシアン殿も同じ言葉で返した。彼がその言葉で話すのを聞くのは、初めてだった。


 席は長椅子で、隣り合って座る形だった。昼どきで、すぐに隣の卓も埋まった。肩と肩のあいだが、少しずつ狭くなった。私は詰めなかったし、離れもしなかった。


「煮込みを、ぜひ」


 ルシアン殿は品書きを開く前に言った。


「肉を香草と一緒に、朝から煮るんです。香草は三種類で、そのうち一つはこちらでは手に入りにくいので、店主が国から取り寄せています。故郷では冬の料理ですが、この店は一年じゅう出していて、季節によって香草の割合が少し」


「ルシアン殿」


「はい」


「まだ、来ていません」


 ルシアン殿は口を閉じた。それから、少しだけ笑った。


 煮込みは、深い皿で来た。脇に、薄く焼いたパンが何枚も重ねてある。


 ルシアン殿は、パンを一枚ちぎると、当たり前のように煮込みの汁に浸して口に入れた。考えてする動作ではなかった。


 私は煮込みを一匙すくった。肉は匙で崩れるほど柔らかくて、香草の匂いが、後から鼻に抜けた。おいしかった。


 それから、パンを一枚、何もつけずにかじった。


 焼いた生地の端が、少し焦げて、香ばしかった。中はもちもちしていた。


「どうですか、煮込みは」


「おいしいです」


 私はパンをもう一枚取った。


「こちらも」


「パンですか」


「パンです」


 ルシアン殿は、少しだけ寂しそうな顔をした。それから店主に向かって、彼の国の言葉で何か言った。


 しばらくして、パンの追加と一緒に、小さな皿が一つ来た。蜂蜜だった。


 私は頼んでいなかった。


 ルシアン殿は、煮込みの話の続きをしていた。季節によって香草の割合が少し違って、と。蜂蜜の皿については、何も言わなかった。


 私はパンを蜂蜜に浸した。故郷の人が見たら怒るかもしれないと思ったけれど、店主は厨房の奥から、首を振りもしなかった。


「煮込みも、本当においしいです」


「パンほどではない」


「パンほどではないです」


 ルシアン殿は、今度は笑った。


 食事のあいだ、次にどこへ行くかの話になった。


「次も、近くにしましょう。あまり遠いと、お疲れになるので」


 ルシアン殿が言った。


「そうですね。半日くらいの」


 私も言った。それから、二人とも黙った。


 前の外出も、その前の外出も、私たちはどちらも、相手が疲れないように、と言っていた。


「ルシアン殿は、本当は、どこか行きたいところがあるのでは」


「あなたは」


「私が先に聞きました」


 ルシアン殿は、少し迷ってから言った。


「王都の北に、古い庭園があります。若い頃に読んだ本に出てきて、いつか見たいと思っていました。馬車で、半日では帰れません」


「行きましょう」


「お疲れになりませんか」


「疲れたら、馬車で寝ます」


 ルシアン殿は懐から手帳を出した。私も、鞄から手帳を出した。二人とも、同時に、春の頁を開いていた。


 侍女が、少し離れた卓で、見なかったふりをして茶を飲んだ。


 庭園の花の見頃は、春の半ばだと彼は言った。そのころには、ローデン家の祝いの支度も、いちばん忙しい時期に入っている。私は手帳の、空いている日を指でたどった。


 帰りの馬車の中で、私は窓の外を見ながら、別のことを考えていた。


 西門の坂の途中に、二年前から入りそびれている店がある。窓に、蜜を塗った林檎の焼き菓子が並んでいた店だ。


 次は、あそこへ連れていきたい。

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