四本目の歯
ローデン子爵邸の玄関で私を出迎えたのは、見覚えのある夫人だった。
あの日の歓談会で、殿下が杯を鳴らす直前まで、お孫さんの乳歯の話をしてくださった方だ。私の袖を掴んだ手の感触まで、思い出せた。
「まあ、リディア様。あの日はお話の途中で」
「三本目の歯のところでした」
「覚えていてくださったの。四本目も抜けましたのよ。それがね、林檎をかじったら」
「お母様」
夫人の後ろから、私と同じくらいの年の令嬢が顔を出した。手に、四つ折りの紙を持っている。
夫人が振り返って、私に紹介した。
「娘のエルナです」
「立ち話はあとにして、まずお通ししてください」
「分かっていますよ」
「歯の話が始まってました」
夫人は否定しなかった。私は、四本目の歯の行方を少し気にしながら、二人について客間へ通った。
子爵は客間の窓辺に立っていて、私を見るなり両手を広げた。
「よく来てくださった。二十五年ですよ、アルヴェイン嬢。二十五年。それにふさわしい祝いをしたい」
エルナが四つ折りの紙を開いて、卓の上に置いた。
「こちらが、家族の希望です。一応まとめました」
一応、の意味はすぐに分かった。
紙の上半分には、四角い几帳面な字で項目が並んでいる。日取り、会場、人数、料理。その字の上に、大きく右へ傾いた字が乗り込んでいた。楽団、六人以上。可能なら八人。その横に、花火、と書いて、疑問符がついている。疑問符だけ、筆が違った。
余白という余白には、小さな丸い字が詰まっていた。人の名前だ。矢印が、紙の端から端へ三本走っている。一本は裏へ回っていた。
そして四角い字が、ところどころで踏みとどまっていた。両親の席。着席。着席。最後の着席には二重線が引いてある。
「楽団は私です」
子爵が言った。
「花火に疑問符をつけたのは私」
エルナが言った。
「名前は私ね。でも、まだ足りないの」
夫人が言った。
私は紙を手元へ引き寄せた。紙の右下の隅に、四角い字で、焼き菓子、木の実入り、と書いてある。着席と同じ筆圧だった。たぶん、これは本人の分だ。
「会場を、拝見できますか」
広間は庭に面していて、片側が背の高い窓になっていた。子爵は迷わず窓辺へ歩いていき、そこに立った。
「楽団はここだ。庭から入ってきた客が、まず音を聞く」
「あら」
夫人がその隣に並んだ。
「そこは、イルゼたちの卓にしようと思っていたの。窓から庭が見えるでしょう。あの人たち、庭を見ながらじゃないと落ち着いて話さないのよ」
「イルゼ夫人なら、どこでも話すだろう」
「どこでも話すから、せめて景色のいいところで話させてあげたいの」
子爵と夫人が窓辺の同じ一点に立ったまま、互いに一歩も引かないので、私は二人の足元を見ていた。床板の継ぎ目の、ちょうど同じ一枚の上だった。
「お父様、お母様。そこに何を置いても、給仕が通れません」
エルナが扉のほうから言った。
「厨房からの通り道です。そこを塞ぐと、料理は庭を回って運ぶことになります」
「庭を回ればいい」
「雨が降ったら?」
子爵が口をつぐんだ。夫人も口をつぐんだ。二人が同時に何かを思い出した顔をしたけれど、私には何のことか分からなかった。
「そうだ、雨といえば、ブラウン卿も呼ばねば」
子爵が言った。
「何の関係があるの」
「いや、思い出しただけだ」
「ブラウン卿をお呼びするなら、奥様もでしょう。それに、妹さんも」
夫人が指を折った。エルナが紙を壁に押し当て、四角い字で人数を書き直した。四十二が四十五になった。
「ハイネ家は」
「お母様」
「ハイネ家はお呼びしないと、あとで何を言われるか」
四十五が四十八になった。
私は窓辺の床板の一枚を見て、それから広間の奥の扉を見た。
「場所を、時刻で分けてはいかがでしょう。開宴からお食事までは、窓辺に楽団を置きます。ただし二歩だけ庭の側へ寄せて、通り道を空けます。庭から入っていらしたお客様は、まず音を聞く。お食事が済んだら楽団には奥へ移ってもらって、窓辺はご友人の卓に。日が傾いてからのほうが、庭はきれいに見えますから」
「楽団が、移る」
「移ります。楽団の方々は、移るのには慣れています」
子爵は自分の立っていた床板から二歩ずれたあたりを見下ろし、それから頷いた。夫人も頷いた。二人とも、自分が勝ったと思っている頷き方だった。
エルナだけが頷かなかった。
「それで、両親はいつ座るんですか」
紙の上の、二重線の着席だ。
「去年、祖母の誕生祝いを家で開いたとき、二人とも最後まで一度も座らなかったんです。終わってから、台所で冷めた肉を立ったまま食べていました。二十五年目の祝いまで、それは嫌です」
「冷めた肉もおいしかったわよ」
「そういう話じゃないの」
「では、旦那様と奥様の卓を一つ決めて、そこから動かずにいていただく形にしましょう。ご友人には、こちらから少人数ずつ卓へお連れします。お出迎えとお見送りは、お屋敷の方々に」
エルナの顔がぱっと明るくなった。言い終える前から、これでいけると私も思っていた。
「でも」
夫人が言った。
「遠くから来てくださる方は、私が門までお迎えしたいわ」
「お母様」
「だって、何日も馬車に揺られて着いて、扉が開いて最初に見る顔が執事では、がっかりなさるでしょう」
「執事の顔は、別に悪くないです」
「悪くないけど、がっかりはなさるわよ。私ならするもの」
夫人は、私のほうを見て言った。私に同意を求めているのではなく、本当にそう思っている顔だった。
私は、言いかけた次の段取りを飲み込んだ。夫人を座らせることばかり考えていて、夫人が出迎えを楽しみにしているかどうかは、考えていなかった。
「では、お出迎えは奥様に」
「ええ」
「その代わり、お食事のあいだだけは、どなたがいらしても屋敷の方がお通しする。奥様と旦那様は、そのあいだだけ卓から動かない。食事の途中にいらした方は、お菓子の時間に、奥様が改めてお迎えください」
「食事のあいだだけ?」
「食事のあいだだけです」
夫人は少し考えて、まあそれなら、と言った。
「それなら、私も妻を待たずに食べられるな」
子爵が言った。
「お父様は、もともと待たなくていいんです」
エルナが言った。子爵は聞こえなかったふりをして、窓の外を見た。
客間へ戻ると、私はもう一度、あの紙を広げた。
大きく傾いた字の楽団の隣に、小さく、床は広めに、と書き足してある。最初に見たときは、人の名前に紛れて気づかなかった。丸い字の名前の列は、子爵の古い友人と、夫人の古い友人と、どちらとも言えない人たちが混ざっていて、ところどころに、この人とは庭で話したい、と注釈がついている。四角い字の着席の横には、焼き菓子、木の実入り。
自分が聴きたいもの。自分が話したい人。自分が食べたいもの。それから、相手に座っていてほしいということ。一枚の紙の上で、全部が同じ場所を取り合っていた。
この家の祝いは、きっと当日まで増え続ける。
私はそれを、少し見てみたいと思った。
「焼き菓子の木の実は、胡桃ですか、榛ですか」
エルナが顔を上げて、それから少しだけ赤くなった。
「……榛です」
「残しましょう」
報酬と、私の受け持つ範囲と、実際の手配を屋敷の誰が担うかは、帰る前に書面で確かめた。家令は手際のよい人で、私が言う前に、職人の名簿を揃えていた。
玄関で、夫人が私の袖に、今度はそっと手を置いた。
「それでね、林檎をかじったら、歯が林檎に刺さったまま残っていたの」
四本目の行方が分かった。
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