第9話 孤独な天才
二十四歳になった今、俺は「アイゼンハルト卿」と呼ばれるようになっていた。
男爵位こそまだ父が保持しているものの、領地経営の実務と、王都の研究者組合における発言力は、とうに俺の方が上回っている。魔石と機械技術を組み合わせた発明の数々――冷暖房設備、灌漑用の揚水機構、負傷者の治療期間を大幅に縮める簡易な魔導医療器具――は、国内の貴族や商人たちの間で、もはや知らぬ者のいないほどの評判を得ていた。
王立研究院からは名誉顧問の座を打診され、他国の使節からも視察の申し出が絶えない。かつて「可愛らしい顔をしているだけの坊や」と俺を見下していたバルドゥルも、今では表向き、当たり障りのない世辞を口にするようになっていた。もっとも、その目の奥に燻る敵意までは、隠しきれていなかったが。
先日も、隣国から視察に訪れた使節団の団長が、俺の作った灌漑機構を一目見るなり、こう漏らしていた。
「これほどの技術者が、なぜ王都の中央にではなく、こんな地方領地に……」
その言葉に、俺はいつもの調子で「別に、地方だろうとどこだろうと、興味がないので」とだけ返した。団長は苦笑いを浮かべていたが、それ以上は何も聞いてこなかった。
今では、俺の発明の多くが、王都の主要な施設にまで取り入れられるようになっていた。上下水道の改良案は王都の一角で試験導入され、負傷者向けの魔導医療器具は複数の病院に配備された。貴族街の邸宅にも、あの魔導送風器を模した空調設備が、少しずつ広まりつつあるらしい。
工房には、そうした人々からの感謝の手紙が絶えなかった。灌漑設備のおかげで作付けが安定したという農村からの便り、医療器具のおかげで家族の命が助かったという商人からの礼状。差出人の多くは、俺の顔も知らない、ただの一般市民だった。
それらの手紙を読み返すたび、ふと、前世の父の背中を思い出す。電器屋の店先で、常連客に何度も深々と頭を下げられていた、あの姿だ。顔でも愛想でもなく、確かな技術で誰かの役に立つ――あの頃、ただ漠然と憧れていたものに、今の俺は、少しは近づけているのだろうか。
そう思うと、柄にもなく、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
*
仕事の面では、望んで得られなかったものは何もない。
だが、私生活はどこまでも荒涼としていた。
屋敷の使用人たちの間では、「若様に近づきすぎるな」という暗黙の了解が、いつしか出来上がっていた。俺自身がそう仕向けたわけではないが、必要以上の会話を避け、常に一定の距離を保つ俺の態度が、自然とそういう空気を作り上げたのだろう。食事もほとんど一人で摂り、休日も工房に籠って過ごす。友人と呼べる相手は、片手で数えるほどしかいなかった。
王都で開かれる夜会や祝宴に呼ばれることも増えたが、俺はそのほとんどを、仕事を理由に断り続けていた。たまに顔を出しても、壁際で酒を舐めながら、誰とも深く話さずに早々と退出する。それが、いつしか俺の定位置になっていた。「アイゼンハルト卿は、氷のように冷たいお方だ」――そんな評判が、社交界の間でまことしやかに囁かれているらしいことも、風の噂で聞いていた。否定する気にもならなかった。
縁談の申し出は、二十を過ぎてからというもの、数えきれないほど舞い込んできた。皮肉なことに、歳を重ねるごとに、俺の容姿はますます磨きがかかっていった。線の細さも、目鼻立ちの繊細さも、この世界の男性的な美とは対極にありながら、造形そのものの完成度だけは、年々増しているらしい。
持ち込まれる縁談の大半は、こちらの功績や資産だけを目当てにした、あからさまな打算によるものだった。実際に顔を合わせる段になって、生理的な嫌悪を隠しきれず、その場であからさまに顔をしかめる令嬢も少なくなかった。中には、挨拶を交わした直後に気分が悪いと言って退席する者や、後日、体調不良を理由に一方的に破談を申し入れてくる家もあった。
それでも、如才なく振る舞い、最後まで表向きの笑顔を崩さない令嬢も、いないわけではなかった。だが、そういう相手にこそ、俺は決まって同じ問いを投げかけることにしていた。
「――結婚するということは、閨を共にし、いずれは子を生すということでもあります。この顔の人間と、それができますか?」
あえて事務的な口調で、核心を突く問いだった。大抵の令嬢は、そこで初めて表情を歪めた。中には、その場で本当に吐いてしまった者までいた。取り繕っていた笑顔の下に隠れていた本音が、その瞬間だけは、誰の目にも明らかになる。
その一言を使えば、たいていの縁談は、その場で綺麗に破談になった。俺にとっては、無駄な駆け引きを続けるよりも、よほど効率のいい確認作業だった。どうせ最後には拒まれるのなら、傷つく前に、自分から引導を渡してやった方がいい。
母は今でも、たまに縁談の話を持ち出してくる。
「ヴォルフ、そろそろ身を固めることも考えてみては……。あなたが良ければの話ですけれど」
「別に、急ぐ理由もありませんから」
俺はいつも、そう言ってやんわりと話を切り上げる。母はそれ以上強くは言わず、少し寂しそうな顔をして引き下がるのが常だった。父も、それとなく心配そうな視線を向けてくることがあったが、無理に踏み込んでくることはなかった。
*
ある夜遅く、工房の明かりを消し忘れていたことに気づき、窓の外に目をやると、庭先に父が一人、佇んでいるのが見えた。声をかけるでもなく、ただこちらの明かりを、しばらくの間じっと見上げている。何か言いかけるように口を開きかけては、結局小さく首を振り、そのまま屋敷の方へと戻っていった。ガラス越しにその背中を見送りながら、俺は、父が何を言おうとしていたのか、あえて考えないようにした。踏み込まれれば、こちらの心構えが崩れてしまいそうな気がしたからだ。
二人がどれほど俺を案じてくれているか、分からないわけではなかった。それでも、下手に期待を持たせるくらいなら、最初から諦めておいてもらった方が、互いにとって楽なのだ。そんな理屈で、俺は毎回、二人の気遣いに軽く蓋をしてきた。
結婚などしなくても、この人生は十分に満ち足りている。少なくとも、そう自分に言い聞かせるだけの理屈は、いくらでも用意できた。
夜、誰もいない工房で一人、図面に向き合っているとき――ふと、ペンを持つ手を止めてしまう瞬間がある。窓の外から漏れ聞こえる、遠い夜会の楽団の音色。誰かと笑い合う声。そのたびに、自分がひどく静かな場所に取り残されているような感覚に襲われた。すぐに首を振って、また図面に視線を戻す。それの繰り返しだった。
誰にも期待せず、誰も愛さず、ただ研究にだけ没頭する。それが、俺がこの世界で選び取った、唯一安全な生き方だった。
*
その日も、いつものように工房で新しい魔導具の設計に没頭していると、屋敷の執事が慌ただしい足取りでやって来た。
「若様、火急のご報告が」
珍しく上ずった声に、俺は手を止めて顔を上げた。
「――どうした」
「本日の午後、ヴァイデンフェルト子爵家のご令嬢が、若様に折り入ってお話ししたいことがあると、当家をお訪ねになるとのことでして」
聞き覚えのない家名だった。俺の交友関係を考えれば、わざわざ令嬢が直々に訪ねてくるような用件など、思い当たる節が一つもない。
――どうせ、また面倒な縁談か、金の無心だろう。
そんな気怠い予感を抱きながら、俺は静かに設計図へと視線を戻した。
その来訪が、これまでの淡々とした日常を大きく揺るがすことになるとは、このときの俺は、まだ知る由もなかった。




