第8話 都合のいい世界
あの夜以来、俺は自分の中で、一つの結論を出そうとしていた。
女性に近づかれない。好かれない。むしろ嫌悪される。それが、この世界における俺の絶対的な条件なのだとしたら――いっそ、それを都合よく利用してやればいい。
女に振り回されることも、下心を疑って気を揉むことも、もうない。誰も彼も、最初から一定の距離を置いてくれる。それは、前世でずっと欲しかった「静かな環境」そのものではないか。
考えてみれば、前世の俺を悩ませていたのは、いつだって「女性にどう見られるか」という一点だった。好かれても疲れ、嫌われても傷つく。結局、どちらに転んでも心が休まる暇がなかった。だが、最初から嫌悪されると分かりきっているのなら、話は簡単だ。期待もしなければ、失望もしない。
そう割り切ってしまうと、不思議なくらい心が軽くなった。悲観するだけ無駄だ。ならば、この条件を最大限に利用して、研究と発明にだけ生涯を捧げればいい。前世では、家業の片手間に細々と齧るだけで終わった探究心を、この世界でなら誰に憚ることもなく、思う存分注ぎ込める。幸い、その方面でだけは、この世界で正当な評価を得られてもいた。ならば、そこに全てを賭ければいいだけの話だった。
*
十二歳になる頃、父に頼み込んで、領内の工房をさらに拡張してもらった。王都から取り寄せた専門書を読み漁り、屋敷に出入りする職人や学者から、貪欲に知識を吸収していった。魔法についても、独学で基礎を学び始めた。
特に俺の目を引いたのは、温度を操る初歩的な魔石の存在だった。この国では、魔石はもっぱら暖炉代わりの魔導具や、食料保存庫の簡単な冷却装置など、単純な用途にしか使われていない。だが、前世の記憶にある空調の仕組みを思い出しながら、魔石の冷却・加熱の力と、送風機や風道――ダクトと呼んでいた仕組みを組み合わせれば、部屋全体の温度を自在に操れるはずだと閃いた。
試作の魔導送風器が完成し、屋敷の一室に据え付けてみせた日のことは、今でもよく覚えている。真夏だというのに、部屋の中にだけひんやりとした風が満ちているのを見て、両親も使用人たちも、しばらく言葉を失っていた。「魔石で暖を取るならまだしも、涼を取るとは……」と、父は扇いでいた手を止めて、何度も部屋の中を見回していた。
この世界の技術と魔法を組み合わせれば、前世の知識をさらに面白い形で活かせる。その手応えに、俺は純粋な興奮を覚えていた。
その過程で出会ったのが、バルドゥルという青年だった。
王都の研究者組合に籍を置く、俺より五つ年上の魔道具技師で、いくつかの功績で名を上げつつある男だった。共同の研究発表の場で顔を合わせたとき、バルドゥルは値踏みするような目で俺を上から下まで眺めた後、周りに聞こえるように鼻で笑った。
「これはこれは。噂のアイゼンハルト家の坊やか。……ずいぶんと、可愛らしい顔をしているじゃないか」
周囲の失笑を誘うような、悪意の滲んだ声だった。バルドゥル自身は、いかにもこの世界の美醜基準に忠実な、彫りの深い精悍な顔立ちをした男だった。自分の容姿が、この世界では疑いようもなく「正解」とされていることを、心のどこかで誇っているのが伝わってくる態度だった。
「本物の発明家というのは、もっとこう、無骨で、苦労を刻んだ顔をしているものだ。そんな女みたいな顔で、まともな研究ができるとはとても思えないがね」
以前の俺なら、傷ついていたかもしれない。だが、あの会食の一件からこっち、俺はもう、この程度の悪意にいちいち動じなくなっていた。
「――さあ。顔で発明の質が変わるなら、それはそれで面白い研究テーマになりそうですね」
俺が淡々と切り返すと、バルドゥルは一瞬鼻白んだ様子を見せたが、すぐに苛立たしげに舌打ちをして、その場を後にした。
*
それからも、顔を合わせるたびに、バルドゥルは何かと俺の研究にケチをつけてきた。「坊やの思いつきにしては上出来だ」「どうせ誰かの受け売りだろう」。そのたびに周りの研究者たちは、ばつが悪そうに視線を逸らした。彼らの多くは、俺の実力を認めながらも、あからさまにバルドゥルの機嫌を損ねてまで俺の肩を持とうとはしなかった。
どうせ、何を言っても分かり合えない相手はいる。別に、理解されたいとも思わない。そんな人間の評価に、いちいち興味を持つだけ無駄だ。
――どうせ。別に。興味がない。
いつしかそれが、俺の口癖になっていた。傷つく前に予防線を張るための言葉たち。優しくされれば「裏があるのでは」と勘繰り、褒められれば「同情か、侮蔑の裏返しだろう」と斜に構える。そうやって心の周りに壁を築くたび、俺はどこか安堵している自分に気づいていた。
誰にも期待しなければ、誰にも裏切られない。誰も愛さなければ、誰にも拒まれない。
両親は、そんな俺の変化を心配しているようだった。母は時折、それとなく社交の場に誘ってきたし、父も「無理に根を詰めなくてもいい」と声をかけてくれることがあった。だが俺は、そのたびに当たり障りのない理由をつけて、やんわりと断り続けた。二人の優しさを疎ましく思っているわけではない。ただ、これ以上誰かに深く踏み込まれるのが、単純に怖かっただけだ。
それは、前世でどれだけ願っても手に入らなかった、ある種の平穏だった。
もっとも、根っこの部分まで完全に冷え切っていたわけではなかったと思う。工房で働く職人が体を壊したときには、誰にも言わずに治療費を工面してやったし、不作に苦しむ小作人の家には、収穫を増やす工夫をこっそり教えて回ったりもした。ただそのたびに、礼を言われるのが妙にむず痒くて、俺はいつも「別に、大したことじゃない」とだけ言って、そそくさとその場を離れるのが常だった。
困っている人間を放っておけない性分だけは、前世からどうやら変わっていないらしい。それを素直に認めるのは、どうにも気恥ずかしかったが。
こうして、俺は研究と発明にのみ生涯を捧げる、皮肉屋で他人と距離を置く人間として、少しずつ完成されていった。
――それから数年の月日が流れ、俺は成人と呼ばれる年齢を迎えることになる。




