第10話 契約の申し出
執事から「ヴァイデンフェルト子爵家のご令嬢」と聞かされた時点では、正直、大した興味も湧かなかった。だが、応接間に向かう廊下で、すれ違った侍女たちが小声で交わす噂話が、耳に入ってきた。
「あの、噂の『氷の薔薇』様が、いらしてるんですって」
「まあ……本当に、あんなにお美しい方が実在するのね」
氷の薔薇。社交界に疎い俺でも、その二つ名だけは聞き覚えがあった。誰もが見惚れる美貌でありながら、誰にも心を開かない、近寄りがたい令嬢――そんな評判の人物らしい。
――どうせ、噂というのは大袈裟に膨らむものだ。
半信半疑のまま応接間の扉を開けた俺は、そこで、内心で小さく息を呑むことになった。
絹糸のような銀の髪、意志の強さを感じさせる大きな碧眼、輪郭の一つ一つが計算されたように整った顔立ち。この世界の美の基準に照らせば、まごうことなき最上級の美貌だった。噂に聞く社交界の華とは、こういう女性を指すのだろう。
俺が言葉を発するより先に、令嬢の方から静かに立ち上がり、優雅に一礼した。
「お忙しいところ、突然の訪問をお許しください、アイゼンハルト卿。ローザリンデ・フォン・ヴァイデンフェルトと申します」
凛とした、それでいて柔らかさを失わない声だった。俺はまだ椅子に腰を下ろしてもいないというのに、この場の主導権は、既に彼女の手の中にある――そんな錯覚さえ覚えた。
これまでの経験からすれば、初対面の令嬢は、まず例外なく俺の顔を見た瞬間に、微かな動揺の色を浮かべる。強張る表情、逸らされる視線、取り繕うような愛想笑い。俺はそのわずかな綻びを見極めることに、いつしか慣れきっていた。
だが、目の前のローザリンデは、俺と視線を合わせても、その表情に一切の乱れを見せなかった。優雅な佇まいのまま、真っ直ぐにこちらを見据えている。それが逆に、俺の中の警戒心を強く刺激した。ここまで完璧に取り繕える人間は、それだけ何か大きな目的を隠している証拠だ。
挨拶もそこそこに、ローザリンデは前置きなく、単刀直入に用件を切り出した。
「単刀直入に申し上げます。アイゼンハルト卿――わたくしと、契約上の婚約を結んでいただけませんか」
予想外の言葉に、俺は一瞬、返す言葉を失った。
「……契約上の、婚約」
「ええ。恋愛感情も、実際の結婚も伴わない、書面上だけの婚約です。わたくしには今、グリューンヴァルト侯爵からの求婚を退ける口実が必要なのです」
ローザリンデは、努めて冷静な口調で、事情を説明した。ヴァイデンフェルト子爵家の財政難につけこみ、マルクス・フォン・グリューンヴァルト侯爵が強引な縁談を進めようとしていること。侯爵はかねてより彼女の美貌の噂を聞きつけ、幾度となく求婚を重ねてきたこと。父であるグスタフ子爵は、家の困窮ゆえに、その申し出を無下に断り続けることもできずにいること。
「侯爵は、わたくしの中身になど、欠片も興味はございません。ただ、美しい戦利品として、社交界で見せびらかしたいだけなのです」
その口調には、隠しきれない苦さが滲んでいた。ヴァイデンフェルト家は、数年来続く不作と、先代からの負債とで、家計が火の車だという。侯爵はそこにつけこみ、多額の援助と引き換えに、ローザリンデを妻に迎えたいと申し出ているらしい。父であるグスタフ子爵は、その申し出を突っぱねきれずにいるが、娘の意志を完全に無視しているわけでもなく、板挟みで苦しんでいる――というのが、ローザリンデの説明だった。
既に婚約者のいる相手には、さすがの侯爵も強く出られないだろう――それが、彼女の描いた算段だった。
「なぜ、俺なんですか」
「アイゼンハルト卿でしたら、わたくしに下心を抱かれる心配がないと思ったからです。それに、他の殿方と違い、地位や打算だけで動くお方でもないと、お噂で伺っております」
その言葉に、俺は思わず自嘲めいた笑みを浮かべた。
――どうせ、この女も同じだ。
美しい顔で、殊勝な言葉を並べる。だが結局のところ、自分の都合のために、俺という駒を利用しようとしているだけに過ぎない。これまで散々見てきた、打算まみれの令嬢たちと、本質的には何も変わらない。
試すつもりで、俺はいつもの問いを口にした。
「――結婚するということは、閨を共にし、いずれは子を生すということでもあります。契約とはいえ、この顔の人間と、婚約者という立場を演じ続けられますか」
これまで、この一言で大抵の令嬢は表情を歪め、破談を申し出てきた。今度もそうなるだろうと、俺は半ば確信していた。
だが、ローザリンデは、わずかに目を見開いただけで、表情を大きく崩すことはなかった。
「……あくまで、書面上の契約です。閨を共にする必要も、子をなす必要もございません。それに――」
ローザリンデは、一拍置いてから続けた。
「その質問を投げかけること自体が、卿にとっての一種の防衛線なのでしょう。今のわたくしには、その手の内を責めるつもりはございません」
見透かされている、と思った。これまで幾人もの令嬢を、この一言で試してきた。その手管ごと言い当てられたのは、初めてのことだった。同時に、この程度の揺さぶりでは動じない胆力にも、内心で驚かされていた。
――いや、動じていないように見えるだけかもしれない。
俺はすぐに、そう自分に言い聞かせた。これほど徹底して感情を制御できるということは、それだけ切羽詰まっているか、あるいは、それだけ演技に長けているということでもある。どちらにせよ、額面通りに信用していい相手ではない。
「……お断りします。俺には、そんな茶番に付き合う理由がない」
俺は突き放すように、そう言い切った。だが、ローザリンデは席を立とうとしなかった。
「理由なら、これから差し上げます。どうか、もう少しだけお時間をいただけませんか」
まっすぐにこちらを見据えるその瞳には、簡単には引き下がらない、強い意志の光が宿っていた。
「百歩譲って話を聞くとして。俺の側に、何の得があるんですか。ただ厄介事を押し付けられるだけなら、お断りする以外にありませんが」
「もちろん、応分の見返りはご用意いたします。ヴァイデンフェルト家の伝手や、卿の研究への出資……卿が望まれる形で、相応の対価をお支払いするつもりです」
打算で成り立つ関係だと、あらかじめ明言しているあたり、いっそ清々しいとすら思った。少なくとも、下心を隠して媚びてくる相手よりは、幾分か扱いやすいのかもしれない。
「結構。話す分には自由です。ただし、俺の答えが変わる保証はありませんが」
突き放すつもりで放った言葉だったが、ローザリンデは、それすらも交渉の糸口とみなしたらしい。小さく頷くと、椅子に座り直し、改めて背筋を伸ばした。
どうせ、何を言われても、結論は変わらない。そう高を括りながらも、俺はどこかで、この令嬢が次に何を言い出すのか、わずかに興味を引かれている自分にも気づいていた。




