第11話 取引成立
結局、その日だけでは話がまとまらず、ローザリンデとは翌週、改めて条件を詰めることになった。
双方の弁護士を交えたその席で、俺たちは実務的に契約の細部を詰めていった。婚約期間は当面一年、更新は双方の合意による。婚約中、互いの私生活には干渉しない。社交の場では最低限、婚約者らしい振る舞いを見せる。どちらかが正当な理由で解消を申し出た場合、円満に応じる――。
「同居の義務は、発生しないという理解でよろしいですか」
「ええ。あくまで書面上の関係ですので、これまで通りの生活を続けていただいて構いません」
ローザリンデは、こちらの懸念を先回りするように、淡々と条件を並べていった。研究一辺倒の生活を乱されたくない俺にとっては、願ってもない条件だった。
見返りとして、ヴァイデンフェルト家からは、王都の商業組合との伝手と、俺の研究費用の一部援助が提示された。悪くない条件だった。少なくとも、これまで持ち込まれたどの縁談よりも、筋の通った取引ではある。
「一つだけ、確認しておきたいことがあります」
書面に目を通しながら、俺はローザリンデに向き直った。
「この契約が公になれば、あなたは『あの気味の悪い顔の男の婚約者』と、陰で好き放題に言われることになる。それでも構わないんですか」
試すような問いだった。だが、ローザリンデは眉一つ動かさずに答えた。
「わたくしにとっては、顔で判断されるだけの結婚より、よほど誠実な取引です。陰口くらい、今更どうということもございません」
その即答ぶりに、俺は内心で小さく感心していた。少なくとも、覚悟だけは本物らしい。
*
こうして、契約は正式に成立した。数日後、両家連名で婚約の発表が行われると、社交界は瞬く間にその話題で持ちきりになった。
「まさか、あの氷の薔薇が、アイゼンハルト卿と……」
「よほど切羽詰まっていらしたのでしょうね。お可哀想に」
夜会の片隅で交わされる、そんな囁き声を、俺は何度も耳にした。俺に向けられるのは、憐れみと嘲りの混じった視線。ローザリンデに向けられるのは、同情と、あるいは面白半分の好奇の視線。どちらも、当人たちの心情など一顧だにしない、無責任な野次馬根性に過ぎなかった。
「あんな顔の男と婚約するなんて、よほどの物好きか、それとも訳ありか」
聞こえよがしに囁く貴族の一人に、俺はいつもの調子で、心の中だけで返した。
――どうせ、何を言われようと構わない。この程度の悪意には、とうに慣れている。
かつてのバルドゥルも、この話を聞きつけて、わざわざ嫌味を言いに来たものだった。
「アイゼンハルト卿もなかなかやりますな。あの氷の薔薇を落とすとは」
「別に、落としたわけでは。契約上の話ですので」
俺が素っ気なく返すと、バルドゥルは面白くなさそうに鼻を鳴らして去っていった。真実を知らない周囲からすれば、俺があの美貌の令嬢を口説き落としたように見えているらしい。皮肉なものだ、と思いながらも、俺はそれ以上気に留めなかった。
ただ一つ、意外だったのは、ローザリンデがそうした視線に、まるで動じる様子を見せなかったことだ。むしろ、堂々と背筋を伸ばし、俺の隣に立つことを、少しも恥じている様子がなかった。
その毅然とした横顔を見ながら、俺はふと、妙な感覚に襲われた。これまで誰かと並んで、こんな風に人前に立ったことなど、一度もなかった気がする。
考えてみれば、これまでの俺は、常に一人で悪意や好奇の視線に晒されてきた。誰かと肩を並べて、同じ方向から視線を浴びるという経験自体が、そもそも初めてだったのだ。それが不思議と、悪い気分ではなかった。もっとも、あくまで契約上の話だ――そう自分に言い聞かせることも、忘れなかったが。
*
婚約発表から数日後、王城で開かれる建国記念の夜会に、俺たちは婚約者として初めて、揃って出席することになった。
会場の前で落ち合ったローザリンデは、この日のために誂えたという深紅のドレスに身を包んでいた。それでなくとも人目を引く美貌が、一段と華やかさを増している。
「アイゼンハルト卿。お手を」
彼女が静かに手を差し出してくる。
その手を取るべきか、一瞬迷った。だが、これも契約のうちだ。俺は小さく息を吐き、彼女の手を取った。
会場の扉が開かれた瞬間、大広間に集う人々の視線が、一斉にこちらへ注がれるのを感じた。囁き声、扇の陰に隠された失笑、値踏みするような眼差し――それらすべてを一身に浴びながら、俺たちは並んで、煌びやかな会場の中へと足を踏み入れた。
しばらく歩いたところで、周囲の空気が微かに強張るのを感じた。人混みが波のように割れ、その隙間を悠然と歩いてくる、恰幅のいい男の姿があった。仕立ての良い夜会服の胸元には、これ見よがしに大粒の宝石が輝き、値踏みするような視線を四方に配る足取りには、隠しきれない傲慢さが滲んでいた――マルクス・フォン・グリューンヴァルト侯爵。
周囲の貴族たちが、さりげなく、しかし確実に距離を取っていくのが分かった。関わり合いになりたくない――そんな空気が、露骨なほどに伝わってくる。
侯爵は俺たちの正面で足を止めると、まずローザリンデに向かって、芝居がかった仕草で一礼した。
「これはこれは、ローザリンデ嬢。まさか、このような茶番に付き合わされることになろうとは……いや、失礼。婚約、おめでとうございます」
言葉とは裏腹に、その口元には隠しきれない嘲笑が浮かんでいた。侯爵の視線が、ゆっくりと俺の方へと移る。頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするようにねっとりと這い回るその目つきに、俺は久方ぶりに、はっきりとした不快感を覚えた。
「貴殿がアイゼンハルト卿か。噂には聞いていたが……なるほど、これはまた、随分と可愛らしいお顔立ちだ。この灯りの下では、下手な令嬢よりよほど肌艶がいい」
周囲に聞こえるよう、わざとらしく張り上げた声だった。近くにいた数人が、扇の陰で忍び笑いを漏らすのが聞こえた。俺は表情一つ変えずに返した。
「お褒めいただき光栄です。もっとも、顔の造形と中身の質は、また別の話ですが。侯爵閣下ほどの御方なら、よくご存知かと思いますが」
皮肉を込めた返しに、侯爵の眉がぴくりと動いた。
「口だけは達者なようだ。もっとも、その口が、いつまで軽やかに回せるものかな」
侯爵は鼻を鳴らすと、値踏みするような笑みを消し、今度はローザリンデに向き直った。声が、一段低く落ちる。
「令嬢。こんな見え透いた茶番が、いつまでも通用するとお思いか。ヴァイデンフェルト家の財政が、この程度の小細工で立ち直るとでも? 私が本気になれば、御父上の立場など、いつでも――」
「侯爵様」
ローザリンデが、静かに、しかしはっきりと言葉を遮った。表情こそ変わらないが、その声には、有無を言わせない硬質な響きが宿っていた。
「わたくしの婚約者の前で、脅しのような真似はおやめください。見苦しゅうございます」
「脅し、だと? 人聞きの悪い。私はただ、旧知の間柄として、忠告を差し上げているだけだ」
「忠告と脅迫の区別もつかぬ御方に、これ以上申し上げることは何もございません」
ローザリンデの声は、あくまで淡々としていた。だがその一言一言には、これまで彼女が見せたことのない鋭さが込められていた。
凛としたその応酬に、周囲の貴族たちが、興味津々といった視線を隠しもせずに向けてくる。衆目を集めてしまったことに気づいたのだろう、侯爵は忌々しげに顔を歪め、口の中で何事かを吐き捨てると、それ以上は言葉を継がずにその場を後にした。
――なるほど。厄介な相手だ。
侯爵の後ろ姿を見送りながら、俺は改めて、この契約の裏にある事情の重さを実感していた。同時に、あの程度の脅しにも眉一つ動かさず、毅然と言い返したローザリンデの胆力にも、少なからず感心させられていた。
「……すみません、卿まで巻き込んでしまって」
「別に。契約のうちです」
俺はいつもの調子でそう返したが、内心では、彼女が一人で抱え込んできた重圧の大きさを、初めて具体的に思い知らされていた。
――これが、今後一年の、俺たちの日常になるわけか。
そんな感慨とも覚悟ともつかない思いを抱きながら、俺はローザリンデと共に、視線の海の中を歩き続けた。




