第12話 素顔の断片
婚約発表から一月が過ぎた頃には、俺たちの間には、奇妙な均衡のようなものが出来上がりつつあった。
社交の場では婚約者らしく振る舞い、それ以外では互いの生活に干渉しない。契約書に記された通りの、実に事務的な関係だ。少なくとも、俺はそのはずだと思っていた。
「今日も、工房にお邪魔してよろしいでしょうか」
週に一度か二度、ローザリンデはそう言って屋敷を訪れるようになっていた。最初のうちは、婚約者としての体裁を整えるための、義務的な訪問なのだろうと思っていた。だが、いつからか、その頻度は契約上の必要を明らかに超えていた。
夜会に同伴を求める使いの手紙も、以前よりずっと簡潔なものになっていた。事務的な文面の端々に、次第に飾らない言葉が混じるようになっていることに、俺は気づかないふりを続けていた。どうせ、これも契約を円滑に進めるための、単なる潤滑油のようなものに過ぎない――そう自分に言い聞かせるのが、いつしか癖になっていた。
「別に、構いませんが。退屈するだけだと思いますよ」
俺はそう言いながらも、工房の扉を開けて彼女を招き入れた。ローザリンデは邪魔にならないよう部屋の隅に椅子を置き、静かに俺の作業を眺めるのが常だった。
だが、ただ眺めているだけではないことに、俺はすぐに気づかされることになった。
「その歯車の配置は、先ほどの図面と違うようですが、何か意図がおありなのですか」
灌漑用の揚水機構を調整していた俺の手元を指差し、ローザリンデが問いかけてきた。適当にあしらえる質問ではなかった。彼女は本当に、図面の細部まで目で追っていたらしい。
「力の伝達効率を上げるための調整です。図面通りに作ると、途中で歯が欠けやすい」
俺が説明すると、ローザリンデは小さく頷き、さらに二つ、三つと質問を重ねてきた。どれも的を射た問いだった。社交辞令で相槌を打っているだけの人間には、決して出てこない種類の質問だ。
「令嬢が、こういった話に興味を持たれるとは、意外でした」
「……意外、でしょうか」
ローザリンデは少し視線を落とし、それからいつもより幾分か柔らかい声で続けた。
「殿方は皆、わたくしに向かって、詩や花や、宝石の話しかなさいません。相槌さえ打っていれば、それで満足そうな顔をなさいます」
言葉が、そこで一度途切れた。俺が黙って続きを待っていると、彼女は小さく息を吐き、ようやく続きを口にした。
「本当は、幼い頃から、こうした仕組みの話の方が、ずっと好きでした。父の書斎から算術の本を持ち出しては、こっそり読んでいたくらいに。……でも、そう申し上げると、決まって『令嬢らしくない』と、困ったような顔をされるのです。ですから、いつからか、口にしないようにしていました」
そこまで言って、ローザリンデは我に返ったように、小さく苦笑した。
「――失礼いたしました。こんな話、退屈でしたでしょう」
「別に。退屈とは思いませんでしたが」
俺が素っ気なく返すと、ローザリンデは一瞬だけ、意外そうに目を見開いた。それから、これまで見せたことのない、ひどく自然な微笑みを浮かべた。
美しく着飾られた人形として扱われることに、慣れきっているはずの彼女が、今このとき、ほんの少しだけ素の顔を覗かせたような気がした。
――なるほど。顔で判断されるのは、何も俺だけの専売特許ではないらしい。
嫌悪されるか、愛でられるかの違いこそあれ、顔という表面だけで中身を推し量られる不快さは、存外似たようなものなのかもしれない。そんな考えが、ふと頭をよぎった。
*
その日、ローザリンデは初めて、実際に道具を手に取ってみたいと申し出た。俺は簡単な組み立て作業を見せながら、小さな歯車機構の調整を彼女に任せてみた。不慣れな手つきながらも、彼女は真剣な顔で作業に取り組み、やがて小さな歯車がかちりと噛み合った瞬間、珍しく年相応の、無邪気な笑みを浮かべた。
「動きました」
「……ええ。筋はいいようです」
俺は素っ気なく返しながらも、内心では少なからず驚いていた。この短いやり取りの中で見せた彼女の表情は、社交界で見せる完璧な仮面とは、明らかに異質なものだった。
だがその笑みも、束の間のことだった。工房を辞去する間際、ローザリンデが纏っていたドレスの袖口が、丁寧に繕われた跡があることに、俺はふと気づいてしまった。子爵令嬢が身につけるにしては、些か質素すぎる装いだった。
――気のせいだろうか。それとも。
屋敷の前まで彼女を見送りに出た俺は、もう一つ、小さな違和感を覚えた。停まっていた馬車は、以前より一回り小さく、御者の数も減っているように見えた。付き添いの侍女も、今日は一人だけだった。
ローザリンデも、俺の視線が馬車に向いたことに気づいたのだろう。一瞬だけ、表情から色が抜け落ちるのが分かった。
「――あの馬車は、少々修理に出しておりまして。今日は、急ごしらえで借りたものですの」
いつもより幾分か早口な口調だった。それだけならまだしも、続けて紡がれるはずだった言葉を、彼女は寸前で飲み込んだように見えた。
「……何か」
「――いえ。何でもございません」
ローザリンデは、すぐにいつもの完璧な微笑みを取り戻すと、それ以上は何も語らずに馬車へと乗り込んでいった。その横顔に一瞬だけ差した翳りを、俺は見なかったことにした。
それが、ヴァイデンフェルト家の抱える事情の、ほんの断片に過ぎなかったのだと知るのは、もう少し先の話になる。




