第13話 代償を求めない手
あの日、屋敷の前で見た、繕われた袖口と、一回り小さくなった馬車。それらの光景が、俺の頭からしばらく離れなかった。
――別に、契約上の相手の家庭事情だ。首を突っ込む道理はない。
夜、工房で図面を引きながらも、ふとした拍子にその光景が脳裏をよぎる。そのたびに俺は、意味もなくペン先を紙に強く押し付け、集中を装って考えを追い払おうとした。だが、そうして誤魔化せば誤魔化すほど、かえって気にかかる自分がいることに、次第に気づかされていった。
――どうせ、放っておいても構わない話だ。それなのに、なぜこうも落ち着かないのか。
結局、その問いに満足な答えを出せないまま、気づけば俺は、商業組合の伝手を使い、ヴァイデンフェルト子爵領の内情を、それとなく調べ始めていた。
調べてみれば、事情は思っていたより深刻だった。数年来続く不作に加え、先代の代からの負債が重くのしかかり、領地の維持すらままならない有様だった。グスタフ子爵自身は、決して無能な人物ではないらしい。むしろ、崩れかけた領地を、ぎりぎりのところで支え続けている――そんな印象を受けた。
だからこそ、グリューンヴァルト侯爵のような男に、これ以上つけこまれるわけにはいかない。
そこまで考えて、俺はふと、手にしていたペンを止めた。
――どうせ、これも契約を守るための実務的な判断に過ぎない。
いつものように、そう理屈をつけようとした。だが、口の中で繰り返してみても、その言葉はどこか空々しく響くだけだった。損得勘定だけの話なら、こんなふうに夜な夜な考え込む必要などないはずだ。
――柄にもない。
自嘲めいた息を一つ吐き、俺はその感情に、あえてそれ以上の名前をつけないことにした。今はまだ、それでいい。そう自分に言い聞かせて、俺は再びペンを取った。
俺は、王都の商業組合に籍を置く知人を訪ね、単刀直入に用件を切り出した。
「ヴァイデンフェルト子爵領への融資を、組合名義で進めてほしい。俺の名は、一切表に出さないでくれ」
「またそれですか、アイゼンハルト卿。……まあ、卿がそう仰るなら、組合としても否やはございませんが」
知人は苦笑しながらも、慣れた様子でそう請け合った。俺がこれまでにも、名を伏せたまま似たような依頼をしてきたことを、知っているからだろう。表向きは、あくまで組合の判断による通常の融資という体裁で処理される手筈になった。
加えて、領地の実情を調べる中で見えてきた、灌漑設備の老朽化と、非効率な農地管理にも手を打つことにした。俺が発明した揚水機構の簡易版と、収穫量を上げるための輪作の知識を、これも組合経由の技術提供という体裁で、密かに送り込んだ。
工房の片隅で図面を引きながら、ふと、前世の父の姿が脳裏をよぎった。
困っている常連客には、決して恩着せがましくせず、当たり前のように無償で修理を引き受けていた、あの背中。「困ったときはお互い様だ」が口癖だった父は、見返りなど一度も求めなかった。その姿を、当時の俺は、正直なところ、あまり理解できていなかった。損な生き方だとさえ思っていた時期がある。
油と傷が染み付いた、節くれ立った父の手を思い出す。修理を終えるたびに、その手をタオルで拭いながら、「困ったときはお互い様だ、そういうもんだよ」と、はにかむように笑っていた顔を、今でもはっきりと覚えている。もう二度と、あの手にも、あの笑顔にも会えないのだと思うと、遠い記憶のはずなのに、胸の奥が締め付けられた。
だが今、こうして誰にも知られぬまま手を貸している自分がいる。あの頃は分からなかった父の気持ちが、今になって、少しだけ分かるような気がした。彼方に置いてきたあの人には、もう二度とこの気持ちを伝えることはできない。それでも、こうして誰かのために手を差し伸べることだけは、今の俺にもできる。それが、せめてもの、あの人への恩返しになるのだろうか。
「若様、また商業組合宛の書状をお出しになるので」
執事が、いつもより少し訝しげな顔でそう尋ねてきた。
「別に。組合との取引の一環だ。他意はない」
俺はいつもの調子で素っ気なく返したが、執事は何か言いたげな顔のまま、それ以上は追及してこなかった。長年仕えてきた者の勘というのは、案外馬鹿にできないものらしい。
*
それから数週間が過ぎた頃、ローザリンデが工房を訪れた際、彼女の表情から、以前のような硬さが幾分か抜けていることに気がついた。
「近頃、父の様子が少し変わりましたの。以前より、書斎に籠る時間が減って、領地を見回る足取りにも、余裕が出てきたようで」
「……そうですか。それは何よりです」
俺は素知らぬ顔で答えたが、内心では、思っていたより早く効果が出ていることに、密かに安堵していた。
「実は先日、父が、商業組合から思いがけない支援の申し出があったと、珍しく上機嫌で話しておりました。誰が動いてくださったのかは分からないそうですが……卿は、何かご存知ではありませんか」
探るような視線を向けられ、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
「さあ。組合の判断でしょう。俺には関係のない話です」
我ながら白々しい返事だったが、ローザリンデはそれ以上追及せず、ただ小さく微笑んだだけだった。
「そうですか。……もしそうだとしたら、その方に、いつかきちんとお礼を申し上げたいですわ」
その言葉に、俺はどこかむず痒いものを感じながら、黙って設計図に視線を戻した。
それから間もなく、思いがけない来客があった。グスタフ子爵その人が、事前の知らせもなく、屋敷を訪ねてきたのだ。
「突然の訪問、失礼する。アイゼンハルト卿には、娘がいつも世話になっているようで――」
顔を合わせるのは、これが初めてだった。社交界の噂では、家の窮状ゆえに始終気を張り詰めた、抜け目のない人物だと聞いていた。だが実際に対面したグスタフは、そうした前評判とは裏腹に、憑き物が落ちたような、穏やかな顔つきをしていた。
「いえ、俺の方こそ、令嬢にはよくしていただいています」
「近頃、領地の方でも、思いがけず良い風向きが続いていてな。……こんなことを申し上げるのも妙な話だが、卿と婚約を結んでから、我が家に幸運が続いているような気がしている」
グスタフは、探るような素振りは見せず、ただ純粋に感謝を口にしているようだった。裏を勘繰られ、正体を突き止められるような事態にだけはなってほしくない――俺は素っ気なく「さあ、それはどうでしょう」とだけ返しながら、内心でそう安堵していた。この程度の世間話で済むのなら、願ってもないことだった。
これでいい。どうせ、恩着せがましくするつもりなど毛頭ない。ただ、契約上の利害が一致しただけの話だ――そう、自分に何度も言い聞かせながら。




