第14話 安心という感情
グスタフ子爵の来訪から一月ほどが経つ頃には、ヴァイデンフェルト家の窮状は、目に見えて改善の兆しを見せていた。
商業組合を通じた融資と技術提供の効果は、想像していた以上に早く現れた。灌漑機構の改良により、荒れていた農地の収穫量は着実に回復し、負債の返済にも目途が立ち始めているという。ローザリンデの口から語られる家の近況は、以前とは打って変わって明るいものばかりになっていた。
「最近は、父も母も、随分と穏やかになりましたの。以前は、食卓でも数字の話ばかりでしたのに、今ではくだらない世間話で笑い合うことも増えました」
工房の椅子に腰掛けたローザリンデが、そう話す横顔には、隠しきれない安堵の色が滲んでいた。かつて、初めて工房を訪れたときの、あの張り詰めた表情が嘘のようだった。
「使用人たちの間でも、ようやく笑い声が戻ってきましたの。今までは、皆が皆、屋敷の先行きを案じて、どこか気を張っていましたから」
そう語る声には、家族だけでなく、屋敷で働く者たちの安堵までもが、我がことのように滲んでいた。
「別に、俺には関係のない話ですが」
俺はいつもの調子で素っ気なく返したが、内心では、その安堵の色を見られたことに、妙な満足感を覚えていた自分がいた。
「卿は、本当にお優しい方ですね」
唐突にそう言われ、俺は思わず手元の作業を止めた。
「……何の話です」
「先日、商業組合からの支援について、それとなく調べさせていただきました。融資の申請人こそ組合の名義でしたが、担当者の口ぶりから察するに、裏で誰かが強く後押ししたのは間違いなさそうでしたので」
図星を突かれ、俺は一瞬、返す言葉に詰まった。
「買いかぶりすぎです。俺は、契約上の利害が一致していただけに過ぎません」
いつもの理屈で誤魔化そうとしたが、ローザリンデは静かに首を振った。
「打算だけで動く方が、正体を隠してまで、見返りを求めない援助などなさるはずがございません。……本当に、感謝しております」
まっすぐに向けられたその言葉に、俺はどう応じていいか分からず、黙って視線を逸らした。これまで、女性からこうした真っ直ぐな感謝を向けられたことなど、一度もなかった。
嫌悪でもなく、打算でもなく、ただ純粋な感謝だけが込められた眼差し。それがどうにも落ち着かなくて、俺はしばらくの間、手元の工具を意味もなく弄び続けていた。
*
その日以来、俺は自分でも気づかぬうちに、ローザリンデへの態度が、以前より幾分か柔らかくなっていることに気がついていた。工房を訪れた際に出す茶の温度に気を配ったり、彼女が興味を示しそうな新しい仕組みを、あらかじめ用意しておいたり。契約とは無関係な、ささやかな気遣いの数々を、俺は「効率的な関係維持のためだ」と、無理やり理屈をつけて自分を納得させていた。
執事は、そんな俺の変化に気づいているのか、いないのか、茶を運んでくるたびに、どこか含みのある顔をするようになっていた。何か言いたげな視線を向けられるたび、俺は素っ気なく「何か」とだけ返し、それ以上の追及を封じるのが常だった。
「――これを」
ある日、俺は小さな歯車細工を、無造作にローザリンデへ差し出した。以前、彼女が興味を示していた歯車機構を、手慰みに小型化してみたものだった。掌に収まるほどの大きさで、取っ手を回すと、内部の小さな歯車が連動して、精巧に噛み合う仕組みになっている。
「……頂いてもよろしいのですか」
「別に、余り物です。捨てるのも面倒だっただけで」
素っ気なくそう答えたが、ローザリンデは、それを大切そうに両手で受け取ると、これまで見た中で一番柔らかい笑みを浮かべた。取っ手を回し、歯車が滑らかに動くのを確かめては、子供のように目を輝かせている。
その笑顔を見ながら、俺は密かに、自分が思っていた以上に手の込んだ細工を施していたことに気づいた。単なる余り物にしては、随分と丁寧に磨き上げてしまったものだ――そんな自分自身の律儀さに、我ながら呆れてしまった。
*
――のちに人づてに聞いた話だが、ちょうどそのころ、俺たちの婚約を快く思わない者たちの間では、別の思惑が動き始めていたらしい。
「アイゼンハルト卿が、ヴァイデンフェルト家の借金を、密かに肩代わりしているらしい……か」
王都の酒場の片隅で、その噂を聞きつけたバルドゥルは、酒杯を傾けながら、忌々しげに舌打ちをした。
「あの陰気な女みたいな顔の男が、いい格好をしやがって。……面白くないな」
同席していた取り巻きの一人が、へつらうように口を挟んだ。
「しかし、証拠があるわけではないのでしょう。組合はあくまで、組合の判断だと」
「証拠なんぞ、後からいくらでもこじつけられる。……あの氷の薔薇を手に入れた挙句、恩まで着せて、涙ぐましい忠犬にでも仕立てるつもりか」
バルドゥルの目には、隠しきれない嫉妬と敵意が滲んでいた。並みの令嬢なら一目見ただけで顔を背け、生理的な嫌悪すら露わにするという、あの気味の悪いほど女々しい顔をした男が、地位も、評判も、そして今度は美しい婚約者からの信頼まで、独り占めにしていく――その事実が、どうしようもなく癪に障るらしかった。
「少し、調べてみるか。何か、あの男の化けの皮を剥がせるような材料がないか」
この噂を、どう利用してやろうか――そんな思案がバルドゥルの脳裏を過ぎっていることに、このとき俺はまだ、気づく由もなかった。




