第15話 二人だけが知ること
王立研究院で開かれた定例発表会の会場に、俺は珍しく足を運んでいた。新しい灌漑機構の改良案を発表するためだったが、会場に着くなり、周囲の視線がいつもと違うことに気づいた。
値踏みするような、あるいは何かを探るような、粘つく視線。壇上に立った瞬間、聴衆の中から、聞こえよがしの囁き声が耳に届いた。
「アイゼンハルト卿、ヴァイデンフェルト家の弱みを握って、援助と引き換えに婚約を迫ったそうじゃないか」
「なんでも、借金のカタに、無理やり令嬢を差し出させたとか」
根も葉もない話だった。だが、事実の断片――ヴァイデンフェルト家の財政難と、匿名の援助、そして契約婚約という三つの点が、都合よく繋ぎ合わされ、悪意ある物語に仕立て上げられていた。誰の仕業かは、考えるまでもなかった。
発表を終えて壇を降りると、会場の隅で、バルドゥルがいかにも愉快そうな笑みを浮かべているのが目に入った。
「なかなか、たいした噂だと思わないか、アイゼンハルト卿。もっとも、火のない所に煙は立たぬというからな」
「さあ。俺には、根も葉もない中傷にしか聞こえませんが」
「強がるのも結構だが、こういう話は、事実かどうかより、どれだけ広まるかの方が重要なのでね。……せいぜい、言い訳を用意しておくことだ」
バルドゥルは、勝ち誇ったような笑みを残して去っていった。この程度の悪意で、これまで積み上げてきた信用が揺らぐことはない――そう高を括っていた自分の甘さを、俺はすぐに思い知らされることになった。
*
数日後、開かれた夜会で、俺たちは初めて、噂の余波を直接肌で感じることになった。
「アイゼンハルト卿も、大変な決断をなさったものですね。あの気味の悪いお顔で、家の弱みを握ってまで、令嬢を手に入れたいと思われるとは」
聞こえよがしに囁いた初老の貴族に、俺が言葉を返すより早く、ローザリンデが静かに、しかしはっきりと割って入った。
「誤解をなさっているようですが、彼は弱みにつけこむような真似は、何一つしておりません。むしろ、見返りを求めず、我が家を助けてくださった、誠実な方です」
凛としたその物言いに、貴族は決まりが悪そうに口を噤み、そそくさとその場を離れていった。彼女に庇われる、という経験は、俺にとってこれが初めてではなかったが、それでもそのたびに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じずにはいられなかった。
「まあ、ヴァイデンフェルト嬢。借金のために、あんな顔の御方に嫁ぐことになって、さぞお辛いでしょうね」
今度は、別の貴婦人が、追い打ちをかけるようにそう囁いた。ローザリンデは眉一つ動かさずに応じた。
「ご心配には及びません。わたくしは、ただ、誠実な方をお選びしただけですので」
その毅然とした返しに、貴婦人は鼻白んだ様子で去っていったが、俺の中では、静かな怒りが込み上げていた。彼女がこの噂のせいで、心無い言葉を浴びせられている――その事実が、どうしようもなく気に食わなかった。
どうせ、この程度の悪意になら慣れているはずだった。俺自身、これまで浴びせられてきた侮蔑など、数え切れないほどある。だが、それが自分にではなく、彼女に向けられているというだけで、握った拳に、これまでとは違う質の熱がこもるのを感じた。
――放っておけばいい。契約上、余計な口出しをする義理はない。
いつものように、そう自分へ言い聞かせようとした。だが、傷ついていないふりをして、曖昧な微笑みだけで受け流し続けるローザリンデの横顔を見ているうちに、その理屈は、みるみる形を失っていった。腹の底で燻っていた熱は、抑えようとするほど、かえって喉元までせり上がってくるようだった。
「――少し、いいですか」
俺は、周囲に聞こえるよう、あえてはっきりとした声で切り出した。
「今回の融資は、俺個人の意思で組合に依頼したものです。ヴァイデンフェルト嬢の弱みにつけこんだ事実など、一切ありません。むしろ、この婚約を持ちかけてくださったのは、彼女の方だ」
周囲がざわめく中、俺は淡々と続けた。
「彼女は、家のために自分を犠牲にするような真似は、何一つしていない。それを、事情も知らぬ者たちが、面白おかしく捻じ曲げているだけです」
思いがけない反撃だったのだろう、周囲の好奇の視線が、戸惑いに変わっていくのが分かった。ローザリンデが、驚いたようにこちらを見つめているのにも、俺は気づいていた。
「卿が、そこまで庇ってくださるとは、思いませんでした」
夜会が終わった後、ローザリンデが小さな声でそう言った。
「別に。事実と違う話が広まるのは、俺にとっても不都合なだけです」
いつもの理屈でそう返しながらも、俺は内心、自分の反応の激しさに、少なからず戸惑っていた。契約上の利害のためだけにしては、あのときの怒りは、あまりに個人的な感情に近かった。
――なぜ、あれほど腹が立った。
馬車に揺られながら、俺はふと、その理由を探ろうとした。彼女の毅然とした受け答え、噂に動じない気高さ、そして、心無い言葉に晒されながらも表情を崩さなかった、あの横顔――それらを思い返すたび、胸の奥がざわつくのを感じた。
そこでふと、俺は一つの可能性に思い至り、我ながら息を呑んだ。
――俺は、彼女の毅然とした美しさに、無意識のうちに惹かれていたのではないか。
だとすれば、それは結局のところ、俺自身もまた、顔という表面だけで、彼女の価値を測っていたことになりはしないか。あれほど嫌悪してきたはずの物差しを、俺自身が、無自覚のうちに使っていたのだとしたら――。
窓の外を流れる夜景に視線を逃がしながら、俺はその考えを、すぐには吞み込めずにいた。彼女の中身に触れてきたはずだった。工房での何気ないやり取り、真摯な感謝の言葉、噂に晒されても揺るがない気高さ――それらに惹かれたのだと、そう信じていたはずだった。だが、その根っこの部分に、彼女の美しさへの好意が、まるで澱のように沈んでいなかったと、果たして言い切れるだろうか。
その考えに行き着いた瞬間、俺は柄にもなく、ひどく落ち着かない気分になった。




