第16話 氷が溶ける音
夜会での一件から数週間、俺たちの間に流れる空気は、以前より幾分か柔らかいものに変わっていた。
誰かに見られているわけでもないのに、工房でのやり取りには、どこか穏やかな間が増えていた。ローザリンデが淹れてくれる茶の温度は、いつも俺の好みにぴたりと合っていたし、俺もまた、彼女が来る日には、それとなく興味を引きそうな試作品を、机の端に置いておくようになっていた。
あの日、自分の中に芽生えた疑念――彼女の美しさに惹かれているのではないか、という疑念に、俺はまだ、明確な答えを出せずにいた。だが、答えを急ぐ必要もない、とも思っていた。理由がどうであれ、こうして穏やかな時間を積み重ねていくこと自体が、悪くないと感じ始めている自分がいたからだ。
その日、ローザリンデは、いつもより少し早い時間に工房を訪れた。
「今日は、父の用事のついでに立ち寄っただけですので、あまり長居はできませんの」
そう言いながらも、椅子に腰掛ける仕草には、まるで長居する気満々のような、隠しきれない余裕が滲んでいた。俺はそれを指摘するほど無粋ではなかったが、内心では、密かに可笑しく思っていた。
「今日は、これを見ていただけますか」
俺が差し出したのは、小さな水時計の試作品だった。歯車と魔石を組み合わせ、一定の間隔で澄んだ音を鳴らす仕組みになっている。
「まあ……綺麗な音ですこと」
澄んだ音色に、ローザリンデは目を細めた。しばらくの間、彼女はただ黙って、その音に耳を澄ませていた。実用性という意味では、何の役にも立たない代物だ。それでも、この音を彼女に聞かせたくて、わざわざ時間を割いて作ったのだと、俺は今更ながらに自覚した。
その横顔を見ながら、俺はふと、以前なら考えもしなかったことに気づいた。彼女を喜ばせたくて、こんな細工に時間を割いている自分がいる、ということに。
「卿は、こういう小さな細工を作るとき、一番楽しそうな顔をなさいますね」
「別に。……そんな顔、していません」
いつもの調子で誤魔化そうとしたが、ローザリンデはくすりと笑うだけで、それ以上は追及してこなかった。
道具を片付けようとした拍子に、俺の指先と、彼女の指先が、ほんの一瞬触れ合った。それだけのことなのに、どちらからともなく、動きが止まった。
「――失礼」
「……いえ」
互いに目を合わせないまま、そそくさと手を引っ込めたが、その一瞬の静けさの中に、これまでにない何かが確かに満ちていたことを、俺は否定できなかった。
だが、その静けさに耐えきれなくなったのは、俺の方だった。込み上げてくる落ち着かなさを誤魔化すように、俺は意味もなく素っ気ない言葉を投げつけていた。
「――そう見つめられると、調子が狂います。大した細工でもないのに、大袈裟に喜ばれても困ります」
我ながら、あまりに刺々しい物言いだった。ローザリンデの表情が、一瞬にして強張るのが分かった。
「……そこまで仰らずとも。わたくしは、ただ」
彼女はそこで言葉を止め、静かに視線を落とした。工房の空気が、急速に冷え込んでいくのが分かった。しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは、俺の方だった。
「――すみません。今のは、言い過ぎました」
自分でも意外なほど、素直な謝罪の言葉がこぼれ出た。ローザリンデは、驚いたように顔を上げた。
「卿が、謝られるのですか」
「別に、珍しいことでもないでしょう」
俺がそう返すと、ローザリンデは小さく笑い、それ以上は何も言わずに、いつもの穏やかな空気を取り戻した。だが、あの一瞬の刺々しさの裏に、俺自身、何を守ろうとして牙を剥いたのか――その理由を、俺はまだ、正しく言葉にできずにいた。
気詰まりな沈黙を誤魔化すように、俺は作業に戻る素振りを見せたが、指先に残った微かな熱は、なかなか引いていかなかった。ローザリンデもまた、いつもより長く、手元の茶器に視線を落としたままでいた。互いに、何か言葉を探しているようで、結局どちらも言葉を継げずにいる――そんな、もどかしい時間だった。
*
窓の外は、夕暮れに染まり始めていた。橙色の光が工房に差し込み、ローザリンデの銀の髪を、淡く照らし出している。それを見つめながら、俺はふと、彼女の美しさに惹かれているのか、それとも、彼女という人間そのものに惹かれているのか、もはやその境界が、自分でも曖昧になっていることに気がついた。
どちらでもいい、と思っている自分がいることに、少しだけ驚いた。
「――このまま、一年が過ぎたら、契約は終わるのですね」
ふと、ローザリンデがそう呟いた。独り言のような、それでいてどこか俺の反応を窺うような声音だった。
「――そうなりますね」
俺は素っ気なく答えたが、その言葉を口にした瞬間、胸の奥に小さな痛みが走ったことを、自分でも意外に思っていた。契約の終わりを、これまで一度も具体的に想像したことがなかったのだと、そのとき初めて気づかされた。
「……そうですか」
それだけ言って、ローザリンデは静かに視線を落とした。その声に、安堵とも落胆ともつかない、微かな揺らぎが滲んでいたことに、俺は気づかないふりをした。
それ以上、互いに踏み込む言葉は交わされなかった。踏み込んでしまえば、もう後戻りできない何かが動き出す――そんな予感が、二人の間に、無言の境界線を引いていたのかもしれない。だが、まだ名前のつかない感情が、この静かな沈黙の中に確かに漂っていることを、俺たちは二人とも、うっすらと自覚していたのだと思う。
*
――その頃、王都の一角では、グリューンヴァルト侯爵が、人目を避けるようにして、いかがわしい評判の商人と密談を交わしていたらしい。
「アイゼンハルト卿の研究資金の流れを、洗いざらい調べ上げろ。……何か一つでも、あの男の評判に泥を塗れるようなネタがあればいい」
のちに聞いた話では、侯爵の声には、これまでにない切迫した響きがあったという。これまで結婚を迫る唯一の武器としてきた、ヴァイデンフェルト家の窮状という弱みを失いつつある今、なりふり構っていられなくなっているのだろう――そんな評判が、当時から囁かれていたらしい。
工房で交わした、あの穏やかな沈黙の裏で、そんな不穏な影が静かに近づいてきていることに、そのときの俺は、まだ知る由もなかった。




