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第17話 氷の下で(ローザリンデ視点)

 自室に戻ってからも、わたくしは、あの小さな水時計が奏でた音を、何度も思い返していた。


 実用性など何もない、ただ美しい音を鳴らすためだけの細工。ヴォルフガング卿が、あれをわざわざ作ってくださった理由を考えるだけで、胸の奥がじんわりと熱を持つのが分かった。指先が触れ合った、あの一瞬のことも。


 ――わたくしらしくもない。


 自嘲めいた笑みがこぼれた。物心ついた頃から、わたくしは「氷の薔薇」と呼ばれるにふさわしい人間であるよう、自分を律してきたはずだった。


 幼い頃から、わたくしの容姿は、常に周囲の関心の的だった。だが、その関心は、わたくし自身にではなく、いつだって「美しい令嬢」という記号にばかり向けられていた。求婚者たちは、わたくしの言葉に耳を傾けるふりをしながら、実のところ、その顔立ちと、それがもたらす家格上の利得しか見ていなかった。算術の話をすれば眉をひそめられ、意見を述べれば「令嬢らしくない」と困った顔をされる。そのたびに、わたくしは少しずつ、素の自分を仕舞い込むことを覚えていった。


 今でも忘れられないのは、幼い頃、丹精込めて仕上げた刺繍を、母に見せたときのことだ。母はろくに見もせずに、「そんなことより、その愛らしいお顔を曇らせるような真似はおよしなさいな」とだけ言って、話を切り上げてしまった。悪気などなかったのだろう。ただ、実の母にとってすら、わたくしという人間の値打ちは、いつも顔かたちの内側にはなかった。あの時覚えた、行き場のない寂しさを、わたくしは今でも忘れられずにいる。


 今でも、はっきりと覚えている。十六の頃、ある伯爵家の子息から求婚を受けたときのこと。彼は開口一番、わたくしの瞳の色を、詩の一節になぞらえて褒め称えた。だが、こちらが少し込み入った話――家の経営について尋ねただけで、彼は困ったように微笑み、「そのような難しい話は、殿方にお任せなさればよいのですよ」とだけ言って、話を切り上げてしまった。中身になど、端から興味がないのだと、そのとき悟った。似たような場面を、これまで何十回と繰り返してきた。


 感情を面に出さず、常に完璧な微笑みを湛えていること。それが、あの醜い駆け引きの渦中で、わたくし自身を守る唯一の術だった。いつしか誰も彼もが、わたくしを「氷の薔薇」と呼ぶようになった。冷たい人間だと陰口を叩かれても、構わなかった。本心を見せずに済むのなら、それでよかったのだから。


     *


 だから、ヴォルフガング卿との出会いは、わたくしにとって、ある種の賭けだった。世間から気味悪がられ、女性に見向きもされないというあの方であれば、少なくとも、下心を疑う必要だけはないだろう――そんな打算から選んだ相手だった。契約さえ守ってくださるなら、それ以上を望むつもりはなかった。


 だが、彼は、わたくしの想像とは違った。


 初めて対面したとき、噂に聞いていた通り――いや、それ以上に、卿の顔立ちは繊細だった。長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳、陶器のように滑らかな肌、輪郭の一つ一つが、まるで彫刻のように整っている。この世界の物差しに照らせば、たしかに「男らしさ」とは対極にある、女性のような美貌だった。世の令嬢たちが、本能的な忌避感を露わにするという話も、理屈の上では分からなくはない。


 けれど、わたくしの目には、その顔は、ただ美しいとしか映らなかった。整いすぎているがゆえの、どこか儚げな危うさ。もしこれが女性の顔であったなら、誰もが手放しで褒め称えたであろう造形を、これほどまでに厭う理由が、わたくしには、最後までよく分からなかった。それどころか、初めて言葉を交わしたときから、その顔をもっと近くで見ていたいと思う自分がいたことを、今更ながらに白状する。


 なぜ、わたくし一人だけがそう感じるのか。自分でも、明確な答えは持ち合わせていない。ただ、思い当たる節がないわけでもなかった。物心ついてからずっと、わたくしは「美しい顔」というだけで中身を見てもらえない苦しみを、嫌というほど味わってきた。顔かたち一つで、その人間の価値も、扱われ方も、まるで違ってくる――そのことに、心のどこかでずっと反発を抱いてきたのだと思う。だからこそ、卿の顔を前にしたとき、他の令嬢たちのような忌避感が湧かなかったのは、あるいは当然のことだったのかもしれない。顔だけで誰かを厭う、という発想そのものを、わたくしはとうに、自分の中から締め出していたのだろうから。


 工房で図面の話をすれば、真剣な顔で説明してくださる。詩や宝石の話など一度もなさらない代わりに、わたくしの言葉そのものに、きちんと耳を傾けてくださる。わたくしの顔を、恐れも、媚びもせず、ただ対等な人間として見てくださる方に出会ったのは、これが初めてだった。


 実家の窮状を、見返りも求めずに、密かに助けてくださったこと。父から真相を聞き出せぬまま、それでも確信めいたものを抱いて調べを進めたとき、正直に打ち明けてくださらなかったことすら、今ではどこか微笑ましく思い出せる。詮索されることを厭う、あの不器用な優しさごと、卿らしいと感じてしまうのだから。


 夜会で侯爵の脅しから、はっきりと庇ってくださったこと。あのとき、卿の背にそっと守られるようにして立っていた自分に気づいたとき、頬が熱くなるのを堪えるのに苦労したのを覚えている。根も葉もない噂に晒されたときも、周囲の前で、堂々とわたくしの潔白を証してくださったこと。あの瞬間、いつもは素っ気ない声が、いつになく張り詰めていたことに、わたくしは誰よりも早く気づいていた。


 その一つ一つを思い返すたび、胸の奥に灯る小さな熱は、もはや、感謝や安堵などという言葉だけでは、片付けられないものになっていた。


 ――わたくしは、あの方に、惹かれている。


 その事実を、はっきりと言葉にした瞬間、体の芯が冷えるような感覚に襲われた。これまで、心を許した相手には、必ずと言っていいほど裏切られてきた。求婚者たちの甘い言葉も、社交界の華やかな賛辞も、結局のところ、わたくしという中身には何の関心も持っていなかった。この感情もまた、いずれ同じ結末を辿るのではないか――そんな臆病な考えが、頭をよぎる。


 だが、あの方だけは違う、と、心のどこかで確信している自分もいた。少なくとも、あの不器用な優しさだけは、本物だと信じられた。皮肉なことに、女性から気味悪がられ、顔だけで判断されることに、誰よりも傷ついてきたはずのあの方こそが、わたくしにとっては、初めて顔以外の部分を見てくれた相手なのだ。


 先日、わたくしは思わず、「――このまま、一年が過ぎたら、契約は終わるのですね」と、口を突いて出た呟きを、そのまま卿にぶつけてしまった。返ってきたのは、いつも通りの「――そうなりますね」という素っ気ない一言だったが、あの短い返事に、微かな痛みのようなものが滲んでいたのを、わたくしは聞き逃さなかった。もっとも、それが気のせいでないと信じたいだけなのかもしれない、とも思う。


 この契約が、いつまで続くものなのか。一年後、この関係が終わったとき、わたくしはどんな顔をして、あの方の前に立てばいいのだろう。


 答えの出ない問いを胸に抱えたまま、わたくしは窓の外に広がる夜空を、しばらくの間、ただ見つめ続けていた。


 ――このとき、わたくしはまだ知らなかった。穏やかなこの日々の裏で、グリューンヴァルト侯爵と、バルドゥルという技師が、静かに、しかし着実に、良からぬ企みを進めていたことを。

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