第18話 失われた材料
――のちになって知ったことだが、あの頃、グリューンヴァルト侯爵は、追い詰められていたらしい。
ヴァイデンフェルト家の財政難という、これまで唯一にして最大の武器を失いつつあったことも、確かに大きかったのだろう。だが、それ以上に侯爵を苛立たせていたのは、もっと個人的な感情だったらしい。
侯爵にとってローザリンデは、単なる政略上の駒ではなかったようだ。あの完璧な美貌を我が物とし、社交界という舞台で見せびらかす――そのためだけに、これまで幾度となく求婚を重ねてきたのだという。手に入れ損ねた美しい戦利品への執着は、財政という切り札を失ってなお、消えるどころか、むしろ歪な形で膨れ上がっていたらしい。
しかも、その戦利品をかっさらっていったのが、よりにもよって、社交界で気味悪がられているこの俺だという。侯爵にとってそれは、財産上の計算違い以上に、己の自尊心を踏みにじられるに等しい屈辱だったのだろう。
強引に婚約を破棄させるか、さもなくば、婚約者であるこの俺を、社会的に葬り去るか。侯爵が選んだのは、後者だった。
「なるほど、それでバルドゥル殿を担ぎ出したというわけか」
その話を、俺は王都の商業組合の知人から、それとなく聞かされることになった。
「ええ。侯爵閣下自ら、バルドゥル殿に接触されたとか。……お互い、卿を快く思っていないという一点で、利害が一致したのでしょうな」
知人は、いかにも同情するような顔でそう告げた。侯爵にとってバルドゥルは、都合のいい駒だったのだろう。研究者としての立場を持ちながら、俺への嫉妬を隠さない男。俺の研究や資金の流れに、いくらでも難癖をつけられる立場にある男。
*
果たしてその予感は、数日のうちに現実のものとなった。
王立研究院に、俺の研究資金の出所を問う正式な照会状が届いたのだ。差出人は、研究院の監査を司る一派――バルドゥルが近年、急速に懇意にしていると噂の一派だった。
「灌漑機構や医療器具の開発費用について、不透明な資金提供が疑われる、か」
照会状に目を通しながら、俺は思わず苦笑した。むろん、後ろ暗いところなど何一つない。だが、事実がどうであれ、「疑惑」という言葉そのものが、一人歩きを始めれば厄介なことになるのは目に見えていた。
案の定、翌日には早速、研究院の廊下で、これ見よがしにバルドゥルとすれ違うことになった。
「監査とは、また大変なことになりましたな、アイゼンハルト卿。潔白であれば、何も恐れることはないでしょうが」
わざとらしい憐憫の笑みを浮かべながら、バルドゥルはそう声をかけてきた。
「ええ。潔白ですので、何の心配もしていません。もっとも、疑いをかけた側の動機については、少々気になりますが」
俺が皮肉を込めて返すと、バルドゥルは一瞬、頬を強張らせたものの、すぐに余裕の笑みを取り繕った。
「さあ、何のことでしょうな。私はただ、研究者としての矜持から、不正の噂を看過できなかっただけのこと」
白々しい物言いだったが、これ以上追及したところで、確たる証拠が出てくるわけでもない。俺は小さく息を吐き、それ以上は取り合わずにその場を後にした。
「若様、これは看過できる話ではございません」
執事が、珍しく強い口調でそう進言してきた。
「別に。潔白は、調べればすぐに分かることです」
俺はいつもの調子で受け流したが、内心では、この程度で済むとは思っていなかった。相手は、事実の有無よりも、噂を広めることそのものを目的としている。
案の定、その週のうちに、王都の社交界には、俺に関するあらぬ憶測が、瞬く間に広まっていった。
「アイゼンハルト卿の資金源には、後ろ暗いところがあるらしい」
「せっかくの功績も、まがい物だったということか」
これまで積み上げてきたものが、根も葉もない疑惑一つで、音を立てて崩れかけていく。その様を、俺は奇妙なほど冷静に眺めている自分に気づいていた。地位や評判が損なわれること自体には、正直なところ、さほどの恐れはなかった。もとより、他人の評価を頼りに生きてきたわけではない。
だが、ふとした瞬間に、ローザリンデの顔が思い浮かぶと、その冷静さは、途端に揺らいだ。この疑惑が広まれば、彼女もまた、否応なく渦中に引きずり込まれることになる。「あの疑わしい男の婚約者」として、心無い視線に晒される彼女の姿を想像するだけで、腹の底が重く沈むような感覚に襲われた。
――彼女を、これ以上巻き込みたくない。
そう思う一方で、では自分はどうすればいいのか、という問いには、まだ答えを出せずにいた。その答えの出ない焦りだけが、俺の中で、静かに、しかし確実に、根を張り始めていることに、俺自身はまだ、はっきりとは気づいていなかった。
その日の夕方、噂を聞きつけたのだろう、ローザリンデが珍しく前触れもなく工房を訪れた。
「卿、例の噂について伺いました。わたくしにできることがあれば、何なりと仰ってください」
その表情には、隠しきれない心配の色が浮かんでいた。だが、その申し出をありがたく思う一方で、俺の口からは、思ってもいない言葉が滑り出た。
「――別に、大した話ではありません。あなたが気に病むようなことでは」
我ながら、素っ気なさすぎる返事だった。ローザリンデは、その返答に微かな戸惑いの色を浮かべたが、それ以上は追及せず、静かに頷いた。
「そうですか。……何かあれば、いつでも仰ってくださいね」
その気遣いに応えられなかった自分に、俺は密かに苛立ちを覚えていた。だが、彼女を守るためには、これでいい――そう自分に言い聞かせるほかなかった。
*
のちに侍女から聞いた話では、あの夜、屋敷に帰ったローザリンデは、なかなか寝つけぬまま、窓辺に座り込んでいたのだという。「卿の力になれないなら、いっそ、婚約者でいる意味などないのかもしれない」――そう弱音を漏らしたきり、しばらく黙り込んでいたそうだ。それでも翌朝には、いつもの毅然とした顔で身支度を整えていたらしい。彼女がどれほどのものを、一人で抱え込んでいたのか、俺はまだ、正しく想像することさえできずにいた。




