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第19話 噂という刃

 噂というものは、火種さえあれば、事実の裏付けなど必要としないらしい。


 王立研究院からの照会状は、まだ何一つ結論を出していないというのに、俺の評判は、日を追うごとに目に見えて損なわれていった。


「申し訳ございません、アイゼンハルト卿。此度の資材提供の件、いましばらく見送らせていただきたく」


 長年取引のあった商会の主が、そう言って深々と頭を下げた。理由を尋ねるまでもなかった。疑惑の渦中にある相手と、あからさまに取引を続ける度胸のある商人など、そう多くはない。


「お得意先の手前もございまして。卿には何の含むところもないのですが……」


 言い訳がましく続けるその声には、申し訳なさと、それ以上の保身とが、半々に滲んでいた。俺は「お気になさらず」とだけ返し、それ以上の追及はしなかった。責めたところで、何かが変わるわけでもない。


 研究院内でも、以前なら気安く声をかけてきた同僚たちが、どこかよそよそしい態度を見せるようになっていた。挨拶を交わしても、以前のような気安さはなく、どこか腫れ物に触るような空気が、俺の周りに漂い始めていた。


「アイゼンハルト卿、少々よろしいか」


 名誉顧問の一人である、老齢の研究者に呼び止められたのは、そんな折のことだった。かつて俺の発明を高く評価し、目をかけてくれていた人物だった。


「お力になれず、申し訳ない。だが、疑惑が晴れるまでは、あまり表立って卿の肩を持つわけにもいかんのだ。分かってくれ」


 老研究者は、心底気まずそうな顔でそう告げた。悪意があるわけではない。ただ、保身のために距離を置かざるを得ない――それだけの、ごくありふれた事情だった。だからこそ、余計に胸の奥が冷えていくのを感じた。


「お気になさらず。当然のことです」


 俺は淡々とそう返したが、内心では、これまで積み上げてきたものが、これほどまでに脆いものだったのかと、いっそ乾いた笑いすら込み上げてきそうだった。功績も、信頼も、地位も――結局のところ、噂一つで簡単に揺らぐ程度のものでしかなかったらしい。


 どうせ、こんなものだ。分かっていたはずのことなのに、いざ目の当たりにすると、思っていた以上に胸に応えるものがあった。


 追い打ちをかけるように、翌週には、以前から出展を打診されていた技術博覧会の招待も、丁重な文面と共に取り下げられた。「主催者側の諸事情により」とだけ書かれた通知には、これ以上ないほど分かりやすい建前が透けて見えた。積み上げてきた実績が、まるで最初から無かったことにされていくような感覚に、俺は苦い笑いを噛み殺すしかなかった。


     *


 こうした変化の一つ一つを、俺はローザリンデにはできる限り伝えないようにしていた。工房への招きも、以前より意識して間隔を空けるようになった。理由を尋ねられても、「しばらく立て込んでいるので」とだけ答え、それ以上の詮索を、やんわりと退け続けた。


 彼女の顔に、あの張り詰めた戸惑いの色が浮かぶたび、罪悪感にも似た痛みが胸を刺した。それでも、この泥沼に、これ以上彼女を引きずり込むわけにはいかない――その一心だった。


 工房に一人でいる時間が増えるほど、皮肉なことに、彼女の面影は、かえって鮮明になっていった。淹れてくれた茶の味、道具を扱う不慣れな手つき、屈託なく笑う横顔――そうした些細な記憶の一つ一つが、離れれば離れるほど、愛おしさを増して胸に迫ってくる。突き放せば楽になれると思っていたのに、現実はまるで逆だった。この胸の疼きに、いつまで蓋をし続けられるものか、俺自身、次第に自信が持てなくなっていた。


「――このところ、少し卿と距離ができたような気がしますが、気のせいでしょうか」


 ある日、屋敷を訪れたローザリンデが、それとなくそう切り出した。探るような、それでいて遠慮がちな声音だった。


「――気のせいでしょう。研究が立て込んでいるだけです」


 俺は素っ気なくそう答えたが、目を合わせられなかったことに、自分でも気づいていた。一瞬、全てを打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。だが、それを口にすれば、彼女はきっと、我がことのように動こうとするだろう。この件に、彼女を巻き込むことだけは、どうしても避けたかった。


 ローザリンデはそれ以上追及せず、ただ小さく「……そうですか」とだけ呟いて、寂しげに視線を落とした。その表情を見ないふりをするのに、俺はいつも以上の意志の力を要した。


     *


 そんな折、俺のもとに、思いがけない使者が訪れた。グリューンヴァルト侯爵からの、内密の面会の申し出だった。


 用件は、単刀直入だった。


「アイゼンハルト卿。此度の噂、私が一声かければ、すぐにでも鎮められる話でしてな」


 応接間で向き合った侯爵は、余裕綽々といった様子で、そう切り出した。


「ほう。それはどういう風の吹き回しでしょうか」


「簡単な話です。ローザリンデ嬢との婚約を、円満に解消していただきたい。そうしていただければ、この不快な噂も、潮が引くように収まりましょう」


 あまりに露骨な取引の申し出に、俺は思わず苦笑した。財政という切り札を失った今、侯爵が次に持ち出してきたのは、俺の評判そのものを人質にした、なりふり構わぬ脅迫だった。


「――お断りします、と言ったら?」


「そのときは……まあ、卿の研究者としての人生が、この先どうなるか、私には保証しかねますな。噂というものは、放っておけば、いくらでも育つものです」


 薄ら笑いを浮かべる侯爵の物言いには、これまでの上品な体裁など、もはやかなぐり捨てたような、剥き出しの脅しが滲んでいた。


「ずいぶんと、他人の人生を軽くお考えのようですね」


「軽んじているつもりはございませんよ。ただ、私にも譲れぬものがあるというだけの話でしてな」


 譲れぬもの、という言葉に込められた執着の色を、俺は聞き逃さなかった。この男にとって、ローザリンデは、あくまで自分の体面を飾るための所有物に過ぎないのだろう。


 静かに、しかし確かな怒りが、腹の底で燃え上がるのを感じながらも、俺は表向き、平静を装い続けた。


「少し、考えさせていただいても?」


 俺がそう返すと、侯爵は満足げに口の端を吊り上げ、「良い返事を期待しております」とだけ言い残して、応接間を後にした。


 その後ろ姿を見送りながら、俺は一人、静かに考えを巡らせていた。婚約を解消すれば、確かに噂は収まるのかもしれない。だが、それは同時に、ローザリンデを、あの男の望むがままの運命に突き落とすことでもある。


 ――どちらにせよ、答えは一つしかない。


 ただ、その答えを、どういう形で選び取るべきか。俺はまだ、決めかねていた。

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