第20話 一人で背負う
侯爵が去った後の応接間で、俺は一人、長い間、椅子から動けずにいた。
譲れぬもの、という侯爵の言葉が、耳の奥にこびりついて離れなかった。あの男にとって、ローザリンデは体面を飾るための所有物に過ぎない。だが、その所有欲は、こちらが甘く見ていい類のものではなさそうだった。噂一つで、これまで積み上げてきた地位も評判も、これほどあっさりと揺らぐのだ。ならば、あの男が本気で牙を剥いたとき、次に踏み潰されるのは、俺個人の評判にとどまらないだろう。
答えは、最初から一つしかなかった。婚約を解消すれば、ローザリンデは侯爵の望むがままの運命に突き落とされる。だが、このまま契約を続ければ、彼女は俺の評判の悪化に、際限なく巻き込まれ続けることになる。「あの疑わしい男の婚約者」という色眼鏡は、この先もっと濃くなっていくはずだ。
どちらを選んでも、彼女を守り切れない。
――いや、違う。
俺はふと、自分の思考の前提そのものが歪んでいることに気づいた。侯爵に屈して婚約を解消すれば、彼女は守れない。だが、婚約を続けたまま、俺という存在そのものを彼女から遠ざければ、話は別だ。契約は形として残しつつ、彼女が矢面に立たされる場面からだけ、俺が身を引けばいい。
我ながら、随分と身勝手な理屈だと思った。彼女の意志も、事情も、何一つ確かめないまま、俺一人の判断で全てを決めようとしている。だが、それを承知の上でも、これ以外に、彼女を守る術を思いつけなかった。相談すれば、きっと彼女は「一緒に立ち向かいましょう」とでも言うだろう。その気高さこそが、これ以上、危険に晒すわけにはいかないものだった。
夜が更けても、俺は工房の明かりを消せずにいた。机の端には、以前ローザリンデに贈った水時計の試作と対になるはずだった、もう一つの部品が、未完成のまま転がっていた。作りかけのそれを一瞥し、俺は静かに引き出しの奥へとしまい込んだ。
*
翌日から、俺はローザリンデへの態度を、意図的に変え始めた。
「今日は忙しいので、工房への訪問はご遠慮願えますか」
使いの者にそう言付けさせるのは、これで三度目だった。理由も告げず、ただ機械的に拒絶を重ねる。それが、どれほど不誠実なやり方かは、自分でも分かっていた。
「若様、このところ、令嬢からの文をずいぶんとお断りになっていらっしゃいますが」
執事が、珍しく踏み込んだ様子でそう尋ねてきた。長年仕えてきた者の目に、俺の変化がどう映っているのか、聞かなくても大方の見当はついた。
「別に。少し、頭を冷やす必要があっただけだ」
「……差し出がましいことを申し上げますが、頭を冷やすのと、心を凍らせるのとは、似て非なるものかと存じます」
執事の言葉に、俺は何も返せなかった。図星を突かれたことを認めるのも癪で、俺はただ黙って書類に視線を戻した。
数日後、屋敷を訪れたローザリンデと、玄関先で鉢合わせることになった。
「――卿。近頃、あまりにも素っ気なさすぎませんか。何か、わたくしに至らぬ点でも」
「別に。契約は契約です。それ以上でも、それ以下でもない――そう、割り切っただけのことです」
我ながら、白々しい言葉だった。ローザリンデの表情が、はっきりと強張るのが分かった。
「割り切った、というのは、どういう意味でしょう」
「言葉通りです。これまでの馴れ合いは、少々度を越していたように思います。あなたも、俺のような男に、これ以上関わり続ける必要はない」
突き放すように言い切ると、ローザリンデは、しばらくの間、何も言わずにこちらを見つめていた。その瞳の奥に、困惑と、それを上回る強い疑念の色が浮かんでいるのを、俺は見て見ぬふりをした。
「……卿らしくない仰りようですね。何か、隠していらっしゃいませんか」
「隠すも何も。もとより、俺たちの間にあるのは、書面上の取り決めだけです。それを、今更思い出しただけのことです」
言葉の刃が、自分自身の胸にも突き刺さるのを感じながら、俺はそれでも、表情を崩さなかった。
「信じられません。卿がそのような、投げやりな仰り方をなさる方だとは、思っておりませんでした」
ローザリンデの声が、わずかに震えていた。普段の彼女なら、決して見せないはずの動揺だった。
「――何か、わたくしに言えない事情がおありなのでしょう。それならそうと、正直に仰ってくださればいいのです。わたくしは、卿が思っていらっしゃるほど、脆くはございません」
その言葉に、一瞬、心が揺らいだ。全てを打ち明けてしまえば、この重苦しい芝居を、続ける必要もなくなる。だが、それこそが、彼女を渦中に引きずり込む第一歩になる――そう思い直し、俺は再び、心の扉を閉ざした。
「事情など、何もありません。ただ、こうした馴れ合いは、契約の本旨から外れている――それだけの話です」
彼女を巻き込まないためには、これしかない。そう自分に言い聞かせるほかなかった。
ローザリンデは、それ以上は何も言わず、静かに一礼すると、馬車へと戻っていった。その背に投げかけるべき言葉を、俺はいくつも思い浮かべては、結局どれも口にすることなく、飲み込んだ。
――これでいい。どうせ、こうするしかなかったのだから。
誰もいなくなった玄関先で、俺は一人、そう繰り返した。だが、遠ざかっていく馬車を見送る間、胸の奥に広がっていくこの重さに、いつまで耐えられるものか、正直なところ、自分でも確信が持てずにいた。




