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第21話 小さな亀裂(ローザリンデ視点)

 屋敷への帰り道、馬車の窓に映る自分の顔を、わたくしはぼんやりと見つめていた。


 卿の言葉が、何度も耳の奥で繰り返される。契約は契約。それ以上でも、それ以下でもない。これまでの馴れ合いは、度を越していた。


 頭では、理解できる理屈だった。もとより、契約でしかない関係だ。卿がそう言うのなら、それが本来あるべき姿なのかもしれない。それなのに、胸の奥が、ひどく軋むのはなぜだろう。


 わたくしは、これまで幾度となく、殿方の豹変を目にしてきた。求婚者たちは皆、都合が悪くなれば、あっさりと態度を翻す。今回も、そのうちの一つに過ぎないのかもしれない――そう自分に言い聞かせようとしたが、うまくいかなかった。


 思えば、殿方の心変わりというものを、わたくしはずっと、達観した目で眺めてきたはずだった。所詮、彼らが見ていたのは、わたくしの顔でしかない。だから、興味を失うのも、掌を返すのも、驚くには値しない――そう割り切ることで、自分の心を守ってきた。だが、今のこの痛みは、これまでのどの失望とも、明らかに質が違っていた。


 ふと、少し前の穏やかな午後が、脳裏をよぎった。工房で、小さな水時計の音色に耳を澄ませていたときのこと。道具を片付けようとした拍子に、指先がほんの一瞬触れ合い、どちらからともなく動きを止めた、あの静けさ。あの瞬間に確かに満ちていた温もりは、とても偽りだったとは思えない。


 卿は、そういう人ではない。少なくとも、これまでの一年で、わたくしはそう信じるに足るだけのものを、いくつも見てきたはずだった。


 見返りを求めず、実家の窮状にそっと手を差し伸べてくれたこと。夜会で侯爵の脅しから、毅然と庇ってくれたこと。根も葉もない噂に晒されたときも、周囲の前で、堂々とわたくしの潔白を証してくれたこと。あの不器用な優しさの一つ一つを、わたくしは、まやかしだったとは、どうしても思えなかった。


 だとすれば、今日のあの態度は、何だったのだろう。


 思い返せば、玄関先で向き合った卿の瞳には、言葉とは裏腹な色が浮かんでいたような気がする。突き放す言葉を紡ぎながらも、どこか苦しげに揺れていた、あの一瞬の翳り。あれほど徹底して人を遠ざけてきた卿が、本当にただ「馴れ合いに飽きた」というだけで、あんな顔をするだろうか。見間違いだったのだろうか。それとも――。


     *


 馬車が屋敷に着いても、わたくしはしばらくの間、動けずにいた。侍女に声をかけられ、ようやく我に返る。


「お嬢様、顔色が優れないようですが」


「……少し、考え事をしていただけです」


 取り繕うようにそう答えたものの、内心では、自分でも戸惑うほどに動揺していることに気づいていた。これまで、殿方に振られたところで、心が乱れることなどなかった。それなのに、今は、胸の奥が握り潰されるように痛む。


 この痛みの正体を、わたくしはもう、認めないわけにはいかなかった。契約上の利害だけでは、決して説明のつかない感情が、いつの間にか、わたくしの中に根を張っていたのだ。


 いっそ、このまま諦めてしまえば楽になれるのかもしれない、とも思った。所詮、契約上の関係に過ぎなかったのだ。深入りしすぎた自分が、愚かだっただけのこと。そう自分に言い聞かせようとするたび、これまで積み重ねてきた光景の一つ一つが、まるで拒むように、脳裏に蘇ってきた。工房で見せた不器用な笑み、庇ってくれたときの声、指先が触れ合った、あの一瞬の温もり。それら全てに、自ら蓋をして生きていく自分を想像してみたが、どうしても、その先の人生に、光を見出すことができなかった。


 ――このまま、何も知らずに終わらせてよいはずがない。


 諦めかけた心を、わたくしは辛うじて、そう奮い立たせた。だが、次にどう動けばよいのか、その答えはまだ、見えていなかった。


 夕食の席で、父が心配そうにこちらを窺っているのに気づいた。


「近頃、元気がないようだが……アイゼンハルト卿と、何かあったのか」


「……いえ。少し、卿がお忙しいだけかと存じます」


 とっさに、そう取り繕った。だが父は、娘の様子から何かを察したのか、それ以上は詮索せず、ただ静かに頷いた。


「卿は、義理堅い御方だ。何か事情があるのなら、いずれ分かるだろう。……お前が信じた相手なら、私も信じるつもりでいるよ」


 その言葉に、わたくしは胸を突かれる思いがした。かつて、家の窮状に追い詰められ、娘の意志さえ二の次にせざるを得なかった父が、今はこうして、わたくしの判断を尊重しようとしてくれている。その変化もまた、卿がもたらしてくれたものだった。


 だからこそ、なおさら、あの日の卿の言葉を、額面通りには受け取れなかった。何か、言えない事情があるのではないか。あるいは、何かから、わたくしを遠ざけようとしているのではないか。


     *


 自室の窓辺に立ち、わたくしは静かに考えを巡らせた。そういえば、少し前から、研究院にまつわる良からぬ噂を、侍女づてに小耳に挟んでいた。卿の資金の流れに疑いがかけられている、とかいう類の話だった。あのときは、根も葉もない中傷だろうと聞き流していたが、今にして思えば、卿の態度が急変した時期と、あまりに符合しすぎている。研究院での噂、侯爵の不穏な動き、そして、あの日から急に変わった卿の態度――それぞれは些細な断片に過ぎなくとも、繋ぎ合わせれば、一つの不穏な影が浮かび上がってくるような気がしてならなかった。


 卿が何を隠しているにせよ、このまま黙って引き下がるつもりは、わたくしにはなかった。氷の薔薇と呼ばれ、感情を押し殺し、ただ流されるだけの人生には、もう戻りたくない。相手の顔色を窺い、傷つく前に自分から諦める――そんな生き方を、いつしか卿の隣で、少しずつ手放せるようになっていたのだ。そう決めたのは、他でもない、卿と出会ってからのことだったのだから。


 もう一度だけ、直接卿と向き合い、本当の理由を確かめよう。取り繕った態度の裏に何があるのか、この目で見極めるまでは、簡単に諦めるつもりはなかった。


 窓の外に広がる夜空を見上げながら、わたくしは、小さく、しかし確かな決意を固めていた。

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