第22話 代償
ローザリンデとの間に、意図的な距離を置き始めてから、半月ほどが過ぎていた。
彼女からの手紙は、次第に間隔が空くようになった。それでいい、と自分に言い聞かせながらも、机の引き出しに仕舞い込んだままの、書きかけの返事の束は、日に日に厚みを増していった。
その間にも、俺を取り巻く状況は、着実に悪化の一途をたどっていた。研究院からは、正式に資金提供の一時凍結が言い渡された。表向きは「疑惑が晴れるまでの措置」とのことだったが、実質的には、研究活動そのものを止められたに等しかった。
凍結の知らせを届けにきたのは、以前、俺の発明を高く評価し、目をかけてくれていたあの老研究者だった。
「すまない、アイゼンハルト卿。私の一存でどうにかなる話ではなくてな」
深々と頭を下げるその姿に、俺はかつての厚意を思い、かえって居た堪れなくなった。
「お気になさらず。潔白であれば、いずれ晴れる疑いです」
そう返しながらも、いつ晴れるとも知れない疑惑を前に、悠長に構えていられるほどの余裕は、正直なところ、もはや残っていなかった。
「アイゼンハルト卿、こちらの案件も、白紙に戻させていただきたく」
商談のために訪れた商会でも、判で押したような文句で、次々と取引を断られた。以前なら、こちらから願い下げるような相手にまで、頭を下げられる始末だった。長年築いてきたはずの信用が、噂一つで、これほど呆気なく消え去っていくものかと、俺は半ば他人事のように、その様を眺めていた。それでも、俺は表情一つ変えずに応じ続けた。
「別に。構いません」
そう繰り返すたび、腹の底には、これまでとは違う質の苛立ちが、静かに澱のように溜まっていくのを感じた。理不尽さへの怒りというより、何一つ抗う術を持たない自分自身への、苦い自嘲に近かった。
研究院の廊下で、バルドゥルと再びすれ違った。
「聞きましたぞ、アイゼンハルト卿。資金凍結とは、とんだ災難ですな」
わざとらしい憐憫の笑みを浮かべる男に、俺はもはや、皮肉を返す気力すら湧かなかった。
「そちらこそ、随分と余裕がおありのようで」
それだけ返すと、バルドゥルは満足げに鼻を鳴らし、その場を後にした。あの男にとって、これは、これ以上ない見世物なのだろう。
前世でも、似たような孤立を味わったことがあった。だが、あのときの孤立は、自分から望んで選び取ったものだった。今回は違う。積み上げてきたものを、望まぬ形で、一方的に奪われていく。その理不尽さに、俺はどう向き合えばいいのか、正直なところ、まだ答えを持ち合わせていなかった。
唯一の救いは、資金の道筋そのものは、これまで組合を通じて密かに築いてきた別口の伝手が、まだ細々と残っていることだった。表立った活動こそできずとも、完全に手詰まりというわけではない――そう自分に言い聞かせることで、辛うじて踏みとどまっていた。
*
屋敷でも、噂は既に届いているらしかった。ある朝、書斎に呼ばれた俺を、父は難しい顔で迎えた。
「ヴォルフ。研究院の一件は、私の耳にも入っている。……男爵家としても、いつまでも無関係ではいられまい」
「ご心配なく。潔白は、いずれ証明されます。それまでの間、家名に累が及ばぬよう、私の方で立ち回っておりますので」
父は、それ以上は深く追及せず、ただ小さく頷いた。長年、俺の判断に口を出さずにいてくれた父なりの、精一杯の信頼の示し方なのだろう。
だが、母は違った。夕餉の席で、母は珍しく、探るような視線をこちらに向けてきた。
「ヴォルフ、近頃、ローザリンデさんがちっともいらっしゃいませんね。……お二人の間に、何かあったのですか」
「別に、何も。互いに立て込んでいるだけです」
「本当に、それだけですの? あなたが、あの方のことを大切に思っていらっしゃるのは、傍で見ていれば分かりますよ」
母の指摘に、俺は一瞬、返す言葉に詰まった。図星を突かれたことを悟られまいと、俺はことさら平静を装った。
「買いかぶりすぎです。もとより、契約上の関係に過ぎませんので」
母は、それ以上は何も言わなかったが、その表情には、隠しきれない案じる色が浮かんでいた。両親にまで気を遣わせている自分に、俺は密かに嫌気が差した。
*
その夜、屋敷を出て工房へ向かう道すがら、俺はふと、足を止めた。このまま馬を飛ばせば、半刻もかからずヴァイデンフェルト家に着く。ただ顔を見るだけでいい、無事でいるかを確かめるだけでいい――そんな衝動が、抑えようもなく込み上げてきたのだ。だが、すんでのところで、俺はその足を引き返させた。会ってしまえば、きっと何もかも話してしまう。そうなれば、彼女を巻き込まないという、この半月の我慢が、全て水泡に帰す。
――こんなにも、会いたいと思うようになっていたのか。
自分でも意外なほど強いその想いに戸惑いながら、俺は工房の扉を、ただ一人で押し開けた。
執事は、日に日にやつれていく俺の様子を見かねてか、ある晩、夕食の席でとうとう口を開いた。
「若様。このまま、ずっとお一人で抱え込むおつもりですか」
「別に、一人で抱え込んでいるわけでは。ただ、事実が明らかになるのを待っているだけだ」
「ですが、事態が好転する兆しは、今のところございません。……令嬢に、せめて事情だけでもお話しになっては」
「それこそ、俺が最も避けたいことだ」
俺は、いつもより幾分か強い口調でそう返した。執事は、それ以上は何も言わず、静かに一礼して下がっていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺はふと、執事の言葉の裏にある懸念を思った。長年仕えてきた者の目に、今の俺は、意地を張っているだけの愚か者に映っているのかもしれない。だが、意地でも何でもいい。この道を選んだ以上、最後まで貫き通す以外に、俺にできることはなかった。
一人残された食卓で、俺は、冷めかけた食事に手をつける気にもなれずにいた。地位も、評判も、積み上げてきたもの全てが、音を立てて崩れていく――その代償を、俺は一人で背負い続けるつもりでいた。それが、彼女を守るための、唯一の方法だと信じていたから。
だが、その孤独の中で、ふと、彼女の顔が思い浮かぶたび、この選択が本当に正しいのか、自問せずにはいられなかった。彼女を遠ざけることで守れるのは、果たして彼女自身の安全なのか、それとも、傷つくことを恐れた俺自身の、身勝手な逃げ場に過ぎないのか。
その問いに、俺はまだ、明確な答えを出せずにいた。
窓の外は、いつの間にか完全な闇に沈んでいた。誰もいない工房の片隅で、俺は一人、埃を被った水時計の試作品――ローザリンデに贈ったものと対になるはずだった、あの未完成の部品を、そっと手に取った。
あの日々に戻りたい、と思う自分がいる。だが、戻れば、彼女をこの泥沼に引きずり込むことになる。ならば、この孤独こそが、俺が支払うべき正当な代償なのだ――そう、幾度となく自分に言い聞かせながらも、その理屈は、夜が更けるほどに、次第に虚しく響くようになっていった。




