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第23話 彼が隠していたもの

 その日、俺は朝から王都に出向き、細々と残っていた組合の伝手を頼って、資金繰りの算段に走り回っていた。かつては向こうから頭を下げてきた相手にまで、こちらから頭を下げて回る日々だった。屋敷に戻ったのは、日もとっぷりと暮れた頃だった。


 工房の扉を開けた瞬間、俺はかすかな違和感を覚えた。机の上に置いていたはずの古い手記――幼い頃から書き溜めてきた、誰にも見せたことのない覚書の束が、わずかに位置をずらしていたのだ。几帳面に整えていたはずの積み重ねの角が、ほんの少し、揃っていない。


「……気のせいか」


 そう自分に言い聞かせようとしたが、拭いきれない胸騒ぎがあった。あの手記だけは、鍵のかかる引き出しではなく、あえて誰の目にも留まりにくい書類の山に紛れさせて隠していた。厳重に施錠すれば、かえって何かを隠していると勘繰られる――そんな、ささやかな用心のつもりだった。


 執事を呼び、今日、誰か工房に立ち入らなかったかと尋ねると、執事は、珍しく言葉を濁した。


「実は……昼過ぎに、ローザリンデ様がいらっしゃいまして。若様は不在だとお伝えしたのですが、少しだけ、工房で待たせてほしいと仰るので、私の一存で、お通ししてしまいました」


 俺は、思わず声を荒らげそうになるのを、辛うじて堪えた。ここ最近、俺への使いは全て断るよう、あれほど言い含めておいたはずだった。


「なぜ、通した」


「……申し訳ございません。ですが、あまりに思い詰めたご様子で、無下にお帰し申し上げるのが、忍びなかったのです」


 執事のその言葉に、俺は何も言い返せなかった。長年仕えてきた者の判断を、頭ごなしに責める気にはなれなかった。


「……それで」


「一刻ほどで、お帰りになりました。特に何も、仰ってはいませんでしたが」


 執事はそう言って頭を下げたが、その表情には、隠しきれない気まずさが浮かんでいた。


     *


 のちになって知ったことだが、あの日、待たされる間に手持ち無沙汰になったローザリンデは、机の上に積まれていた古い手記に、何気なく目を留めたのだという。表紙には何の題も記されていない、ただの覚書だ。好奇心から、彼女はその一冊を、そっと開いてしまったらしい。


 そこに綴られていたのは、幼い日の俺が、誰にも見せるつもりもなく書き殴った、支離滅裂な感情の断片だった。「なぜ、顔だけで全てが決まるのか」「愛されるのも、疎まれるのも、いつも同じ理由からだ」「今度こそ、顔で判断されない人生を送りたいと願ったはずなのに」――脈絡もなく綴られたそれらの言葉は、幼い子供が書いたにしては、あまりに老成した響きを持っていた。


 だが、彼女が何より不可解に思ったのは、その先の一節だったという。「あの日、俺は確かに死んだはずだ。それなのに、なぜ、また同じ顔の呪いを背負って生まれ直したのだろう」「電気も、車も、写真機もない――ここは、俺が知っていたどの国とも違う世界だ」。見慣れぬ言葉の羅列は、幼い子供の空想と切り捨てるには、あまりに具体的で、かつ真剣な筆致で綴られていた。


 絶望の言葉が続くかと思えば、数ページ先では、筆致が一転していたという。「水車の羽根の角度と取水口の位置を変えれば、この世界でも粉の生産量を倍近くに上げられるはずだ。実用化を急ぎたい」「この世界には、魔石と魔法という、前世にはなかった力がある。あれと機械工学の知識を組み合わせれば、前世でも成し得なかった仕組みが作れるかもしれない」――そこには、絶望に沈んでいたはずの筆者が、いつしか前を向き、この世界ならではの可能性に、静かな昂揚を見出していく様子が、生々しく綴られていた。ページの端には、こうも記されていた。「優しくされるたび、裏があるのではと疑ってしまう。だから、先に自分から突き放しておく方が、まだ楽だ」。それは、まさに今の俺自身のやり口そのものだった。


 だが、彼女の涙腺を本当に緩めたのは、また別のページに記された、何気ない一文だったという。「電気も車もない不便さより、何よりも恋しいのは、父の作った不格好な卵焼きと、母のうるさい小言だ。あの当たり前の朝が、もう二度と戻らないという事実にだけは、いまだに慣れない」。飾り気のない、あまりに素朴なその一文を読んだ瞬間、ローザリンデは、思わず涙がこぼれ落ちるのを堪えられなかったのだという。


 手記を閉じたローザリンデは、しばらくの間、その場から動けずにいたらしい。あとで執事づてに聞いた話では、部屋を出るときの彼女の顔は、これまで見たことのないほど、複雑な色をしていたという。廊下ですれ違った侍女には、ただ一言、「あの方は、ずっとお一人で、誰も知らない何かと戦ってこられたのですね」とだけ、独り言のように呟いていったそうだ。


     *


 のちにローザリンデが漏らした言葉によれば、彼女はそのとき、幼い子供の突飛な作り話だとは、どうしても思えなかったのだという。むしろ、卿が抱えているものは、この世界の誰も知らない、もっと途方もない何かなのではないか――そんな、漠然とした、しかし拭い難い予感を覚えたそうだ。


     *


 俺は、手記を仕舞い直しながら、指先が微かに震えているのに気づいた。感情の傷を知られるだけならまだしも、あの記述の意味するところにまで彼女が気づいていたとすれば、話は別だ。誰にも――両親にすら――打ち明けたことのない、俺という存在の根幹そのものに、無防備なまま踏み込まれてしまったことになる。


 だが同時に、奇妙な違和感もあった。もし彼女があの覚書の意味するところに気づいたのなら、なぜ、何も言わずに帰ったのだろう。問い詰めることも、詮索することもせず、ただ静かに立ち去った。その沈黙の理由を、俺はまだ、正しく読み解けずにいた。


 これまで、誰にも触れさせたことのない領域に踏み込まれた恐れと、それを彼女以外の誰にも知られたくないという、矛盾した安堵とが、胸の中で奇妙に絡み合っていた。彼女になら知られてもいい、とまでは思えない。だが、他の誰かに知られるくらいなら、まだ彼女の方がいい――そんな身勝手な感情に、我ながら戸惑わずにはいられなかった。


 その夜、俺は久しぶりに、あの手記を最初のページから読み返した。舌足らずな幼子の筆跡から、次第に大人びていく文字の変化を目で追いながら、これまでどれだけ長く、この重荷を一人で抱え続けてきたのかを、今更ながらに思い知らされた。誰かに委ねることなど、考えたこともなかった重荷だった。


 あの手記は、前世で命を落とす直前まで、俺が誰にも見せずに書き続けていた、唯一の吐露の場だった。この世界に転生してからも、なぜか手放せずにいた古い習慣だ。書いたところで、誰かに届くわけでもない。それでも、書かずにはいられなかった、あの頃の自分がいた。


 まさか、その最も脆い部分に、他ならぬ彼女が触れることになるとは、想像もしていなかった。


 俺はまだ知らなかった。あの日を境に、ローザリンデの中で、何かが確かに変わり始めていたことを。彼女は、俺の突き放す言葉を、もはや額面通りには受け取っていなかった。そして、このまま何も知らぬままで終わらせるつもりは、微塵もなかったのだということを。

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