第24話 凍りついた誓い
グリューンヴァルト侯爵からの二度目の使者が訪れたのは、あの手記の一件から、十日ほどが過ぎた頃だった。
朝早く、屋敷の門前に、侯爵家の紋章を刻んだ馬車が横付けされた。降り立った使者は、余計な言葉を一つも発さず、ただ恭しく一通の書状を差し出すと、返事を待つこともなく、すぐさま踵を返して去っていった。まるで、こちらの反応など、端から興味もないと言わんばかりの態度だった。
今度は、口頭での申し出ではなかった。封蝋の押された正式な書状には、事務的な文面で、こう記されていた。
『半月以内に婚約解消の手続きを完了されたし。応じられぬ場合、資金不正の疑惑は、正式な告発として研究院評議会へ提出される』
もはや猶予はない、ということだった。半月という期限は、こちらに考える時間を与えるための温情ではなく、確実に追い詰めるための計算に過ぎないのだろう。
「若様、これは……」
書状に目を通した執事の顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。
「別に、驚くことでもない。想定していた展開の一つだ」
俺は、努めて平静を装ってそう答えたが、内心では、ついに逃げ場がなくなったことを、静かに悟っていた。潔白を証明する手立ては、いまだ見つかっていない。このまま時間切れを迎えれば、告発は現実のものとなり、ローザリンデもまた、その渦中に否応なく引きずり込まれる。
念のため、王都の商業組合の知人にも、最後の望みをかけて相談してみた。だが、返ってきたのは、期待していたものとは程遠い返事だった。
「半月では、あまりに短すぎます。監査の裏付けを崩すには、少なくとも一月は……いえ、正直に申し上げれば、それでも足りるかどうか」
知人は、申し訳なさそうにそう告げた。手を尽くしてくれたのだろうということは、その疲れきった顔からも窺えた。それでも、期限までに潔白を証明する道筋は、もはやどこにも残されていなかった。
父にも、この書状のことは伝えておくべきだろう。書斎に呼び出すと、父はしばらく沈黙した後、ようやく重い口を開いた。
「……男爵家の名にかけて、私が動く必要があるなら、遠慮なく言いなさい」
「その必要はありません。これは、俺個人の問題です」
俺は、そう言って父の申し出を退けた。これ以上、家族にまで累を及ぼすわけにはいかない。父は何か言いたげな顔をしていたが、結局は、それ以上何も言わずに引き下がった。
書斎を出たところで、廊下に立っていた母と鉢合わせた。おそらく、扉越しに話を聞いていたのだろう。母は何も言わず、ただ痛ましそうな目でこちらを見つめていた。その視線から逃げるように、俺は足早にその場を立ち去った。
のちに侍女から漏れ聞いた話では、俺が立ち去った後、母はその場に崩れ落ちるようにして、しばらくの間、声を殺して泣いていたのだという。気丈に振る舞っていたのは、俺の前でだけだったのだろう。案じる気持ちを悟らせまいとする、その不器用な優しさに、俺はこの時、気づいてすらいなかった。
ならば、答えは一つしかなかった。
*
その夜、俺は書斎の机に向かい、婚約解消の申立書を、自らの手で認め始めた。契約を結んだあの日と同じ書式に、自分の名を記していく。ペン先が紙を滑るたびに、指先から体温が失われていくような感覚があった。
――これで、いい。
彼女を、この泥沼から完全に切り離すには、これしかない。契約という繋がりさえ断ち切ってしまえば、侯爵にとって、もはやローザリンデを脅す材料は残らない。俺一人が、全てを引き受けて沈めばいいだけの話だ。
書き終えた申立書を前に、俺はしばらくの間、ペンを置くことができずにいた。あの水時計の音色も、指先が触れ合った一瞬の静けさも、彼女に贈るはずだった、まだ形にならない想いも――その全てに、自らの手で終止符を打とうとしている。
脳裏に、これまでの一年で積み重ねてきた光景が、次々と蘇った。契約の交渉に来た日の、まっすぐな眼差し。夜会で侯爵に毅然と言い返した、あの凛とした声。工房で見せた、あの屈託のない笑み。それら全てを、これから自分の手で断ち切ろうとしている――そう思うと、ペンを握る手に、いつまでも力が入らなかった。
「若様、本当に、このまま何も告げずに終わらせるおつもりですか」
執事が、これまでで一番、切実な声で問いかけてきた。
「それでいい。俺のことは、もう忘れてもらった方が、彼女のためだ」
「……若様は、それで本当によろしいのですか。ご自分の気持ちに、噓をついてはおられませんか」
執事の問いに、俺はすぐには答えられなかった。よくはない。分かりきったことだった。だが、この状況で彼女を守る術は、これ以外に思いつかなかった。
「別に、俺の気持ちなど、この際どうでもいい」
俺は、そう突き放すように答えた。執事は、深く長い溜息を一つ吐くと、それ以上は何も言わず、静かに一礼して部屋を後にした。
一人残された書斎で、俺は認めたばかりの申立書に、改めて視線を落とした。この選択が正しいのかどうか、自分でもまだ確信は持てない。それでも、これ以上先延ばしにすることは、もはや許されなかった。
こうして、亀裂は決定的なものとなった。契約という名の誓いは、俺自身の手によって、静かに凍りつこうとしていた。
*
だが、俺はまだ知らなかった。ちょうどそのころ、ローザリンデもまた、一人静かに動き始めていたことを。父グスタフのもとを密かに訪ね、これまでの経緯と、自らの覚悟を、初めて包み隠さず打ち明けていたことを。
のちに聞いた話では、グスタフは、娘の話を最後まで黙って聞き終えると、こう尋ねたのだという。
「お前は、それでもあの御方を信じるのだな」
「はい。たとえ、卿ご本人がどれほど頑なに拒もうとも」
迷いのない即答に、グスタフはしばらく目を閉じていたが、やがて静かに頷いたという。
「分かった。……お前がそこまで言うのなら、私も一枚噛ませてもらおう。ヴァイデンフェルト家として、できることをやろうじゃないか」
かつて、家の窮状ゆえに、娘の意志さえ二の次にせざるを得なかった父が、今度は自らの意志で、娘の選んだ道に手を貸そうとしている。あの手記で見た言葉の断片、彼の急な豹変、そして侯爵の不穏な動き――それらを繋ぎ合わせた末に、彼女は「もう黙って見ていることはできない」と、静かに、しかしはっきりと告げたのだという。
凍りついていくのは、契約だけではなかった。二人がそれぞれに固めた覚悟もまた、互いに知らぬまま、冷たく張り詰めていこうとしていた。一方は全てを終わらせることで、もう一方は全てを明らかにすることで、この膠着した現状を打ち破ろうとしている――そんな皮肉な対比にすら、俺はまだ、気づく由もなかった。




