第25話 動き出す令嬢(ローザリンデ視点)
あの日、工房で目にした手記の文字を、わたくしはもう、何度読み返したか分からない。もちろん、あの一冊は卿の手元に戻っている。わたくしの中に残っているのは、ただ記憶だけだ。それでも、目を閉じるたびに、あの筆跡がまざまざと蘇る。
「なぜ、顔だけで全てが決まるのか」「今度こそ、顔で判断されない人生を送りたいと願ったはずなのに」
幼い日の卿が、誰にも見せるつもりもなく綴っていたであろう、あの切実な叫び。そして、その先に続いていた、あまりに奇妙な一節。「電気も、車も、写真機もない――ここは、俺が知っていたどの国とも違う世界だ」。あれが、いったい何を意味するのか、わたくしにはいまだに分からない。分からないなりに、あれが単なる子供の空想でないことだけは、確信していた。
思えば、卿にはずっと、どこか浮世離れした部分があった。この世界の誰も思いつかなかったはずの発明の数々。貴族の子息らしからぬ、飾らない実務への向き合い方。褒められることを、まるで刃を向けられたかのように身構えて拒む癖――「買いかぶりすぎです」「もとより、契約上の関係に過ぎません」。あの手記の中で見た「優しくされるたび、裏があるのではと疑ってしまう。だから、先に自分から突き放しておく方が、まだ楽だ」という一文が、これまで幾度となく目にしてきた卿の言動と、恐ろしいほどぴたりと重なった。
卿は、ずっと一人で、何かと戦い続けてきたのだ。それが前世と呼ぶべきものなのか、それとも別の何かなのか、わたくしには判じようもない。だが、あの手記の後半で、絶望の筆致が一転し、「この世界には、魔石と魔法という、前世にはなかった力がある。あれと機械工学の知識を組み合わせれば」と、静かな昂揚とともに前を向いていく様を目にしたとき、わたくしは不思議と、涙がこみ上げるのを堪えられなかった。あれほどの孤独を抱えながら、それでも腐らず、この世界に居場所を見出そうとしていた幼い日の卿の姿が、そこにはあったのだから。
卿の生い立ちの全てを、わたくしが知る術はない。それでも構わない、と思った。理解できるかどうかは、もはや問題ではなかった。あの人が、これまでどれほどの孤独を一人で抱え、それでもなお、誰かを助けずにはいられない優しさを失わずにきたか――それだけは、この一年をともに過ごしてきたわたくし自身が、誰よりもよく知っている。
そう心を決めた矢先だった。研究院にまつわる不穏な噂は、日を追うごとに深刻さを増していった。資金の凍結。取引先からの手のひら返し。卿の顔から、日に日に生気が失われていくのを、わたくしは遠目に見ているしかなかった。それでいて、卿はわたくしにだけは、一切の事情を明かそうとしない。
もう、これ以上は待てない。
ふと、工房で耳にした水時計の音色が、脳裏をよぎった。道具を片付ける拍子に、指先がほんの一瞬触れ合い、どちらからともなく動きを止めた、あの静けさ。あのとき確かに満ちていた温もりも、グスタフ家の窮状にそっと手を差し伸べてくれたあの誠実さも、夜会で侯爵の脅しから毅然と庇ってくれたあの声も――その全てが、偽りだったなどとは、どうしても思えなかった。この一年、わたくしが自分の目で見て、自分の心で確かめてきたものだけを、信じればいい。それで十分だった。
*
夜、自室の窓辺に立ち、わたくしは静かに、しかし固く心を決めた。卿がどれほど頑なにわたくしを遠ざけようとも、わたくしはもう、氷の薔薇と呼ばれ、傷つく前に諦めるだけの娘には戻らない。誰かに選んでもらうのを待つのではなく、自らの意志で、選び取りに行く。
部屋を出て、わたくしは父の書斎の扉を叩いた。
「お父様。折り入って、お話ししたいことがございます」
父は、机の書類から顔を上げ、わたくしの様子に何かを察したのか、静かに椅子を勧めた。わたくしは、これまでのこと――契約の始まりから、卿がひそかに示してくれた誠実さの数々、そして、あの手記で見た、彼が長年抱えてきたであろう孤独まで、包み隠さず全て打ち明けた。
話し終えると、父はしばらくの間、目を閉じたまま黙っていた。長い沈黙の末、ようやく口を開いた父の声は、これまで聞いたことのないほど、静かで、そして優しかった。
「お前は、それでもあの御方を信じるのだな」
「はい。たとえ、卿ご本人がどれほど頑なに拒もうとも」
迷いのない即答だった。父は、しばらく目を閉じていたが、やがて静かに頷いた。
「……かつて、家の窮状ゆえに、お前の意志さえ二の次にしてしまったことがある。あのときのことを、私はずっと悔いてきた。だが今、お前は自分の意志で、自分の進む道を選ぼうとしている。それを止める権利は、この父にはもうない」
「お父様……」
「正直に言えば、初めてあの契約の話を聞いたときは、所詮は打算からの取り決めだろうと、私は高をくくっていた。あの御方が、我が家の窮状にまで手を差し伸べてくださったと知ったときも、まだ半信半疑だった。だが、今のお前の顔を見れば、それがどれほど本物だったか、嫌でも分かる」
父の言葉に、わたくしは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「分かった。……お前がそこまで言うのなら、私も一枚噛ませてもらおう。ヴァイデンフェルト家として、できることをやろうじゃないか」
その一言に、わたくしはこらえきれず、涙をこぼした。かつて、政略の道具として差し出されそうになった娘を、今、こうして一人の意志ある人間として、父が受け止めてくれている。この変化もまた、卿が――ヴォルフガング卿が、この家にもたらしてくれたものだった。
「ありがとうございます、お父様」
わたくしは、深く頭を下げた。父は、まだ何か言いたげな顔をしていたが、ただ静かに頷き返しただけだった。
*
書斎を辞し、自室へと戻る廊下で、わたくしは窓の外に広がる夜空を見上げた。卿が今、何を思い、どんな決断を下そうとしているのか、この時のわたくしはまだ知らない。だが、たとえ卿がどれほど頑なにわたくしを突き放そうとも、もう引き下がるつもりはなかった。
次に卿と対峙するときは、もう、遠慮も躊躇いもいらない。彼が守ろうとしているものの正体を、この目で確かめ、そして伝えるのだ。わたくしもまた、あなたを一人にはしない、と。
氷の薔薇と呼ばれてきたこの心が、こんなにも熱く波打つ日が来るとは、少し前までのわたくしは、想像すらしていなかった。それでも今は、この熱こそが、紛れもない自分自身の意志なのだと、はっきりと言い切れる。




