第26話 対峙
婚約解消の申立書を提出してから三日後、グリューンヴァルト侯爵家から一通の招待状が届いた。「双方の合意を正式に確認するため」という名目で、侯爵邸に両家の代表を招くという内容だった。
もはや形式を整えるだけの、単なる儀式のはずだった。俺は、そのつもりで馬車に乗り込んだ。窓の外を流れる景色を眺めながら、これでようやく肩の荷が下りるのだと、自分に言い聞かせようとした。だが、いくら言い聞かせても、胸の奥にわだかまる重さは、少しも軽くならなかった。
通された広間には、既にグスタフ卿とローザリンデの姿があった。ローザリンデと顔を合わせるのは、あの玄関先で突き放して以来だった。彼女は、こちらを一瞥すると、何かを堪えるように、すぐに視線を侯爵へと戻した。
「これで、面倒な茶番も終わりだ」
上座に腰掛けた侯爵は、機嫌よくそう切り出した。
「アイゼンハルト卿。申立書には既に目を通した。あとは、こちらの用意した正式な書面に署名するだけのことだ」
差し出された書面を、俺は黙って受け取った。文面に目を通す間、ローザリンデの視線がこちらに注がれているのを感じたが、あえて顔を上げなかった。今更、彼女の目を見る資格などない――そう思っていた。ペンを取ろうとした、その瞬間だった。
「お待ちください」
凛としたローザリンデの声が、広間に響いた。振り返ると、彼女は椅子から立ち上がり、こちらへとまっすぐに歩み寄ってくるところだった。その頬は上気し、瞳には、これまで見たことのない強い光が宿っていた。
「わたくしは、この婚約解消に同意しておりません」
彼女の声は、わずかに震えていた。だが、それは怯えからくる震えではない。堪えきれない想いが、言葉の端々から溢れ出しているのだと、俺にはすぐに分かった。
侯爵の顔から、みるみる笑みが消えていった。
「ローザリンデ。お前の意向など、端から関係のない話だ」
「いいえ、大いに関係がございます。契約婚約とはいえ、婚約である以上、当事者双方の意志が伴わねば成立いたしません。卿が一方的に申立書を書かれたとしても、わたくしが応じぬ限り、この解消は成立しないはずです」
そこまで一息に言い切ると、ローザリンデは、わずかに声を高ぶらせながら、こちらへと視線を移した。
「卿。あなたは、わたくしを守るおつもりで、こうして全てを一人で背負おうとなさっているのでしょう。ですが、わたくしは、誰かに守られるためだけに生きてきたわけではございません。あなたのそばで、あなたと共に立ちたいと願っているのです。それを、あなた一人の判断で奪う権利は、卿にもございません」
俺は、思わず彼女を見た。玄関先で突き放したあの日以来、初めて交わす視線だった。その瞳には、困惑ではなく、揺るぎない意志の光が宿っていた。
なぜだ。あれほど冷たく、理不尽な言葉で突き放したはずだ。それなのに、なぜ、こんなにもまっすぐな目で、俺を見ることができるのか。彼女を守るために、全てを一人で背負う覚悟を決めたはずだった。だが、その覚悟は、今この瞬間、音を立てて崩れていくような気がした。彼女の言葉を止めなければならない。そう思う一方で、もっと聞いていたいと願う、矛盾した感情が胸の中でせめぎ合っていた。
「くだらん屁理屈を。お前の父親の承諾は、既に得ている」
侯爵がそう言い放つと、これまで沈黙を守っていたグスタフ卿が、静かに、しかしはっきりと口を開いた。
「侯爵閣下。娘の意向を差し置いて、私が代わりに答える謂れはございません。ヴァイデンフェルト家の当主として、娘の意志を尊重すると、既に決めております」
「グスタフ、貴様……かつて、あれほど頭を下げてきた男が、今更、私に逆らうつもりか」
「あの頃、私は確かに、閣下の顔色を窺うことしかできませんでした。ですが、今は違う。娘の覚悟を、この目で見せていただいた以上、父親として恥じぬ振る舞いをすべきかと」
侯爵の顔に、初めて動揺の色がよぎった。長年、財政難を盾に意のままに操れると高を括っていた相手が、もはや従順ではないことに、ようやく気づいたようだった。
「たかが子爵風情が、私にそのような口を利けると思っているのか」
「口を利いているのではございません。ただ、当然のことを申し上げているだけです」
グスタフ卿は、一切怯む様子を見せなかった。
「ならば聞くが、この男の資金不正の疑惑はどうなる。証拠は既に揃っている。婚約を続ければ、お前の娘まで、その醜聞に巻き込まれるのだぞ」
「その証拠とやらを、閣下自らお調べになったわけではございませんでしょう。バルドゥル殿から差し出された話を、そのまま鵜呑みにされただけではございませんか」
グスタフ卿の指摘に、侯爵の頬が、かすかに強張った。図星を突かれたことを、隠しきれていない反応だった。
「……根拠のない中傷だ」
「根拠がないと仰るのなら、閣下ご自身の手で、今一度お調べいただけませんか。真実であれば、それに従いましょう。ですが、もし作り話であったなら」
「その時は、閣下ご自身の名誉にも関わることになりましょう」
ローザリンデが、静かに言葉を継いだ。侯爵は、しばらく何かを言いかけては飲み込むことを繰り返していたが、やがて忌々しげに舌打ちすると、それ以上は何も言わずに広間を後にした。
*
残されたのは、俺とグスタフ卿、そしてローザリンデの三人だけだった。
「卿」
ローザリンデが、まっすぐにこちらを見据えて言った。
「わたくしは、まだ何も諦めておりません。卿がどれほど頑なに拒もうとも」
その言葉に、俺は何も返せなかった。突き放したはずの相手が、こうして自らの意志で、俺のために戦おうとしている。その事実に、これまで固めてきたはずの決意が、静かに揺らぐのを感じていた。
「卿は、いつも一人で背負おうとなさいます。ですが、今回ばかりは、わたくしにも背負わせていただきます」
彼女の目に、うっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。それでも、その声も、その眼差しも、最後まで揺らぐことはなかった。
俺は、喉の奥が締めつけられるのを感じながら、それでも言葉を返せずにいた。ありがとう、と言うべきなのか、それとも、こんな危険な道に引きずり込んですまない、と詫びるべきなのか。次から次へと浮かんでは消えていく言葉の中で、俺はただ、彼女の名を胸の内で呼ぶことしかできなかった。
ローザリンデは、それだけ言うと、グスタフ卿と共に静かに一礼し、先に広間を後にした。その背をただ見送ることしかできなかった自分に、俺は苦い不甲斐なさを覚えた。あれほど固く誓ったはずの覚悟が、今はもう、彼女の熱に呑まれて跡形もなく溶けかけている。それを情けないとも、救われたとも、俺はまだ判じることができずにいた。
*
馬車で屋敷への帰路につく間も、俺はずっと、あの侯爵の狼狽した表情を思い返していた。バルドゥルから渡された証拠とやらを、閣下自身が調べたわけではない――あの一言に浮かんだ動揺は、尋常なものではなかった。もしや、あの疑惑そのものが、最初から仕組まれた作り話だったとしたら。
そう思い至った時、屋敷で待っていた執事が、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「若様、たった今、耳寄りな報せが。バルドゥル殿の名で研究院に提出されていた証拠書類に、複数の偽造の疑いが見つかったと、商業組合から一報が」
俺は、しばらくの間、その報せの意味を飲み込めずにいた。凍りついていたはずの均衡が、音を立てて崩れ始めていることだけは、確かだった。




