第27話 揺らぐ覚悟
あの対峙から五日が過ぎた。バルドゥルが研究院に提出していた証拠書類は、複数の箇所で明確な偽造が確認され、資金不正の疑惑そのものが白紙に戻された。研究院からは正式な謝罪とともに、凍結されていた資金の全面的な再開が言い渡された。
潔白は、証明された。だが、その報せを受け取っても、俺の心は少しも晴れなかった。むしろ、これでもう、彼女を遠ざける理由すら残されていないという事実が、かえって重くのしかかってきた。
婚約解消の申立書は、あの日以来、机の引き出しにしまわれたままだった。取り下げる勇気も、突き進む勇気も持てないまま、俺はただ、日々の仕事に逃げ込んでいた。
折しも、契約書に記された婚約期間――当面一年、更新は双方の合意による、というあの一文が、否応なく脳裏をよぎる時期だった。あと半月もすれば、契約は当初の期限を迎える。何もしなければ、この関係は自然消滅という形で、静かに終わりを告げるだろう。侯爵の脅威も、資金不正の疑惑も去った今、そこには何の障害もない。ただ、俺たち自身の意志だけが、この先を決める。
彼女を巻き込みたくない、という当初の理由は、既に失われていた。それでも尚、彼女への態度を改める踏ん切りがつかないのは、結局のところ、自分自身の臆病さゆえなのだと、俺はとうに気づいていた。
更新を申し出れば、それは契約という建前を借りた、俺自身の本心の表明に他ならない。だが、そんな資格が、今の自分にあるのだろうか。あれほど酷い言葉で突き放しておきながら、都合よく元の関係に戻ろうとする自分を、彼女が許してくれる保証など、どこにもない。かといって、このまま契約を失効させ、何も言わずに彼女の前から消えるのは――想像するだけで、胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。
結局、自分が何を望んでいるのかさえ、俺にはまだ、はっきりと言葉にできずにいた。彼女を守りたいのか、それとも、ただ彼女のそばにいたいだけなのか。契約という言い訳を失った今、その二つを切り分けることが、これほど難しいとは思わなかった。
*
工房の扉が、ノックもなく開いたのは、そんな夕暮れのことだった。
「卿。今日という今日は、逃げるおつもりでも、お許しいたしません」
立っていたのは、ローザリンデだった。使いの者を通すことも、執事に取り次ぎを頼むこともせず、彼女は真っ直ぐに、俺の前まで歩み寄ってきた。
「……疑惑が晴れたことは、お聞き及びでしょう。もう、契約を続ける理由はございません」
俺は、それだけを口にするのが精一杯だった。
「理由なら、いくつもございます」
彼女は一歩も引かず、こちらを見据えたまま続けた。
「卿は、いつも仰いますね。どうせ、契約上の関係に過ぎない、と。ですが、わたくしは、この一年で、卿の本当のお姿を、いくつも見てまいりました」
彼女の声は、次第に熱を帯びていった。
「見返りを求めず、我が家の窮状に手を差し伸べてくださったこと。夜会で、侯爵の脅しから庇ってくださったこと。今も、ご自分の危険を顧みず、わたくしを遠ざけることで守ろうとなさっていること――それら全てが、卿というお方の本当の姿です。打算でも、契約の建前でもございません」
工房の片隅、埃をかぶった水時計の試作品に、彼女の視線がふと向けられた。
「あの日、道具を片付けながら、指先が触れ合った一瞬を、わたくしは今でもよく覚えております。あのとき卿が浮かべた、あの戸惑ったような、けれど確かに優しい表情を、偽りだったと思えるはずがございません」
「買いかぶりすぎです。あなたは、俺の本当の姿など、何も知らない」
振り絞るようにそう返した俺に、彼女は静かに、しかしはっきりと首を振った。
「存じております。卿が、誰にも打ち明けたことのない何かを、ずっと一人で抱えていらっしゃることも。前世と呼ぶべきものなのか、それとも別の何かなのか、わたくしには判じようもありません。ですが、それを知らずとも、卿がどういうお方かは、この目で、この一年で、確かに見てまいりました」
彼女の瞳から、堪えきれなくなった涙が、一筋こぼれ落ちた。
「卿は、この世界に来てから、ずっと女性たちに、化け物を見るような目を向けられ続けてきたのでしょう。ですが、わたくしは、一度たりとも、あなたを化け物などと思ったことはございません。あなたのその繊細なお顔も、不器用な優しさを隠そうとする癖も、わたくしにとっては、誰よりも大切な、あなたご自身の一部です」
その言葉が、胸の奥深くに、ゆっくりと染み込んでいった。これまで幾重にも張り巡らせてきたはずの予防線が、音を立てて崩れていくのが分かった。誰にも、両親にすら見せたことのない領域に、彼女の言葉が、まっすぐに届いていた。
前世で命を落とす直前、俺が願ったのは「顔が評価されない世界」だった。だが、今、目の前にいる人は、俺の顔を評価しないどころか、その奥にある何かを、まるごと受け止めようとしてくれている。それは、あの願いよりも、はるかに得難いものなのかもしれない――そんな考えが、不意に脳裏をよぎった。
「――どうして、そこまで」
俺の声は、自分でも情けないほど掠れていた。
「どうして、と問われましても。好きになった理由に、いちいち説明などいらないでしょう」
あまりにまっすぐな答えに、俺は言葉を失った。喉の奥から、これまで堪えてきた何かがせり上がってくるのを感じながら、俺はただ、彼女の涙に濡れた瞳を、呆然と見つめ返すことしかできなかった。
これまで、優しさを向けられるたびに、裏があるのではと勘繰ってきた。傷つく前に、自分から突き放しておく方が楽だと、そう信じて生きてきた。だが、目の前で涙を流しながら、それでも一歩も引こうとしないこの人の想いを、これ以上、疑うことなど、俺にはもうできそうになかった。
伸ばしかけた手を、俺は途中で止めた。触れてしまえば、もう後戻りはできない。分かっていながらも、指先は、彼女の頬に触れる寸前で、小さく震え続けていた。
「ヴォルフガング様……」
初めて名を呼ばれたことに、俺は小さく息を呑んだ。彼女が、そっと俺の手を包み込むように、自らの手を重ねてきた。その温もりに、これまで固く閉ざしてきたはずの何かが、音を立てて崩れ落ちていくのを、俺ははっきりと感じていた。




