第28話 顔で判断していたのは、俺の方だった
彼女の手の温もりを感じながら、俺はしばらくの間、言葉を発することができずにいた。
「……なぜ、そこまで俺を信じられる」
ようやく絞り出した問いに、ローザリンデは静かに首を振った。
「信じるのに、理由などいりません」
彼女は、涙の跡が残る目元を拭いながら、まっすぐにこちらを見据えた。
「それとも卿は、いまだにわたくしのことを、打算だけで動く女だとお思いなのですか」
その問いに、俺は思わず息を呑んだ。図星だった。初めて対面したあの日、俺は彼女の美貌を目にした瞬間、「どうせこの女も同じだ」と決めつけた。契約を持ちかけられたときも、その言葉の裏に必ず打算があるはずだと疑ってかかった。この一年、彼女がどれほど誠実な行動を重ねても、心のどこかで「所詮は契約だから」と、自分に言い聞かせ続けてきた。
俺は、ずっと女性たちに、顔だけで判断されることを憎んできた。前世でも、この世界でも、中身を見てもらえないまま、都合よく寄ってこられ、あるいは化け物を見るような目を向けられ続けてきたことを、何より理不尽だと感じてきたはずだった。
だが、今にして思えば――俺もまた、同じことをしてきたのではないか。誰よりも美しいという、ただそれだけの理由で、ローザリンデを「所詮は上辺だけの人間だろう」と決めつけていた。契約を持ちかけられたあの日、彼女の外見に見合うだけの計算高さがあるはずだと、勝手に決めつけた。財政難の実家のために手を貸したときも、感謝の言葉さえ、どこかで額面通りに受け取れずにいた。夜会で侯爵の脅しから毅然と言い返した、あの凛とした姿を見たときでさえ、俺は「所詮、これも打算のうちだろう」と、心のどこかで線を引いていた。
彼女の言葉も、行動も、その奥にある本当の想いも見ようとせず、ただ美しいという理由だけで、勝手に彼女を「信用ならない相手」という枠に押し込めてきた。それは、俺が誰よりも憎んできたはずの仕打ちと、何も変わらなかった。
「……顔で判断していたのは、俺の方だったのかもしれない」
俺は、掠れた声でそう呟いた。
「あなたの美しさに怯えて、その奥にある本当のあなたを、見ようとしてこなかった。誰よりもそれを憎んできたはずの俺が、結局、同じことをしていた」
ローザリンデは、驚いたように目を見開いたが、やがて、どこか安堵したように、小さく微笑んだ。
「ようやく、気づいてくださいましたか」
「……気づくのが、遅すぎた」
「いいえ。今、気づいてくださったのなら、それで十分でございます」
彼女は、俺の手を握る力を、そっと強めた。ふと、その視線が、書類の山の奥――あの手記をしまい込んだ場所へと、一瞬だけ向けられた。
「卿。一つだけ、お詫びしなければならないことがございます」
「……手記のことなら、もう気にしていない」
「いいえ、それでも。勝手にお読みしてしまったことは、今でも心苦しく思っております。ですが」
ローザリンデは、一拍置いてから、言葉を続けた。
「あそこに綴られていたことの意味を、わたくしは今も、完全には理解できておりません。電気も、車も、写真機もない世界から来た、というくだりも、水車や魔石の仕組みについての記述も。それでも、卿が、誰も知らない遠い場所からの記憶を、たった一人で抱えながら、この世界を生きてこられたのだということだけは、痛いほど伝わってまいりました」
俺は、思わず言葉を失った。彼女がそこまで踏み込んで、あの手記の意味を汲み取っていたとは、想像もしていなかった。
「理解できないから遠ざける、ということだけは、したくございませんでした。分からないなりに、卿のお心にあるものを、まるごとお慕いしたいと、そう思ったのです」
「わたくしは、卿の繊細なお顔も、不器用な優しさも、誰にも見せない孤独も――その全てを、まるごとお慕いしております。契約という建前など、もうどうでもよろしいのです。わたくし自身の意志で、卿のおそばにいたいのです」
彼女の言葉を聞きながら、俺は前世での日々を思い返していた。顔の良さだけを見て群がってきた人々に、幾度となく絶望させられてきた。だからこそ、誰かに本当の自分を見てもらえるということが、これほどまでに得難く、そして怖いものだとは、思ってもみなかった。
その言葉に、これまで堪えてきたものが、堰を切ったように溢れ出した。
「俺も――」
声が、情けないほど震えた。
「俺も、あなたのそばにいたい。契約でも、義務でもなく、俺自身の意志で」
気づけば、俺は彼女の体を、そっと抱き寄せていた。彼女もまた、抗うことなく、俺の胸に身を預けてくれた。互いの鼓動が重なり合うのを感じながら、俺はようやく、長年張り巡らせてきた予防線の全てを、取り払うことができた気がした。
机の引き出しから、俺は婚約解消の申立書を取り出した。そして、彼女の目の前で、それを二つに引き裂いた。
「これは、もう必要ない」
ローザリンデは、破られた紙片を見つめながら、涙と共に、今度は確かな笑みを浮かべた。
「ええ。これからは、正式な――本物の婚約として、お願いいたします」
「ああ」
俺は、初めて素直に、そう頷いた。
工房の入り口で、執事が目を潤ませながら、こちらを見つめているのに気づいた。いつからそこにいたのか、俺は問い質す気にもなれなかった。
「若様。ようやく、素直になれましたな」
「……見ていたなら、言ってくれ」
「無粋な真似はいたしません。それに、この光景を見られただけで、長年仕えてきた甲斐があったというものです」
執事は、そう言うと、静かに一礼して工房を後にした。その足取りが、いつになく軽やかだったのを、俺は見逃さなかった。
その夜、両親に事の次第を報告すると、父は珍しく声を上げて笑い、母は静かに涙をこぼしながら、ローザリンデの手を両手で包み込んだ。
「ようやく、この子も素直になったようです。至らぬ息子ですが、どうかこれからも」
母のその言葉に、ローザリンデは頬を染めながら、深く頭を下げた。
*
その夜遅く、屋敷に一通の報せが届いた。バルドゥルが、偽造書類の作成と、グリューンヴァルト侯爵との共謀を、王都の監査官に対して認めたという。侯爵もまた、事の次第を問い質され、しどろもどろの弁明に終始しているらしい。
二人を追い詰めていたはずの悪意は、今や、二人自身の足元を崩し始めていた。だが、そのことを知っても、俺の心はもう、以前ほど揺れることはなかった。隣に、彼女がいてくれるのなら。




