第29話 それぞれの決着
それから半月ほどの間に、事態は驚くほどの速さで動いた。
バルドゥルは、偽造書類の作成と、グリューンヴァルト侯爵への便宜供与を全面的に認め、研究院から除名処分を受けた。かつて彼が誇っていた地位も名誉も、今や見る影もない。
処分が決まった日、研究院の廊下で、俺は最後にバルドゥルと顔を合わせた。かつての傲慢さはどこにもなく、目の下には濃い隈が浮かんでいた。
「……侯爵に、いいように使われただけだ。あんたを陥れれば、少しは日の目を見られると思っていたのだがな」
自嘲気味にそう吐き捨てると、バルドゥルは俺の返事も待たずに、逃げるようにその場を後にした。追い詰められていたのは、俺だけではなかったのだろう。あの男もまた、己の焦りと嫉妬に飲み込まれた、哀れな一人に過ぎなかったのかもしれない。風の噂によれば、その後は王都を離れ、田舎の親戚を頼って身を寄せているという。
遠ざかっていくその背中を見送りながら、俺はふと、かつての自分自身を思い出していた。「女が寄ってこない、都合のいい世界」だと割り切り、誰とも深く関わらずに生きると決めたあの日から、俺はずっと、心のどこかで他人を見下すことで、自分を守ってきたのかもしれない。バルドゥルの惨めな姿は、あの頃の自分が辿っていたかもしれない、もう一つの末路のようにも思えた。
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グリューンヴァルト侯爵は、より重い代償を払うことになった。監査の結果、資金不正への関与に加え、過去にも複数の貴族家に対して同様の脅迫まがいの取引を持ちかけていたことが明るみに出たのだ。これまで泣き寝入りしていた家々が、次々と名乗りを上げたことで、侯爵の悪評は瞬く間に社交界を駆け巡った。
のちに人づてに聞いた話では、糾弾の場となった貴族院の一室で、侯爵は最後まで悪びれる様子を見せなかったのだという。だが、かつて泣き寝入りを強いられたという伯爵家の当主が、震える声で「あなたに脅され、大切な娘を差し出す寸前だった」と告発した瞬間、それまで薄笑いを浮かべていた侯爵の顔から、初めて血の気が引いたそうだ。並み居る貴族たちの前で、次々と名乗りを上げる被害者たちの声に囲まれ、言い訳の言葉すら見つけられずに立ち尽くす侯爵の姿を、その場にいた誰もが、固唾を呑んで見守っていたという。
爵位こそ剥奪を免れたものの、社交界での信用は地に落ち、以後、表舞台に姿を見せることはほとんどなくなった。
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「因果応報とは、よく言ったものです」
執事が、報せを届けながら、しみじみとそう呟いた。
「別に、胸のすく思いはない。あの男の没落を喜んだところで、これまで失ったものが戻るわけでもない」
俺はそう答えたが、内心では、これでようやく、ローザリンデを縛るものが、何一つ残らなくなったのだという安堵を、確かに感じていた。
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一方その頃、ヴァイデンフェルト家では、グスタフ卿とローザリンデの間に、静かな和解の時が訪れていたらしい。
「これまで、お前の気持ちより、家の事情を優先させてしまったことが、幾度もあった。すまなかったと思っている」
のちにローザリンデから聞いた話では、父はそう言って、深く頭を下げたのだという。長年、家の窮状を一身に背負い、娘の意志を後回しにせざるを得なかった自分自身を、ずっと責め続けてきたのだろう。その言葉には、これまで表に出すことのなかった、父としての率直な悔恨が滲んでいたという。
「お父様が謝る必要はございません。あの頃のお父様も、精一杯、家族を守ろうとなさっていただけです」
「それでも、だ。今度という今度は、お前自身が選んだ道を、心から誇りに思う」
その言葉に、ローザリンデは、これまで胸の奥に抱えてきたわだかまりが、静かに溶けていくのを感じたそうだ。物心ついた頃から、彼女はずっと「家のために、いかに有利な縁談をまとめるか」という物差しでしか、自分の価値を測られたことがなかったのだという。父の口から、初めて「お前自身が選んだ道」という言葉を聞いたとき、ようやく自分という人間そのものを、認めてもらえたような気がした――のちに、彼女は俺にそう打ち明けてくれた。
父娘の間に、これまでとは違う穏やかな空気が流れるようになったと、俺はその後、屋敷を訪れるたびに実感するようになった。グスタフ卿は、以前のように娘の顔色を窺うのではなく、対等な一人の人間として、彼女の話に耳を傾けるようになっていた。
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婚約の実質的な成立――もはや契約ではなく、双方の意志による本物の婚約であることは、両家の連名で、正式に社交界へ発表された。かつて、あの婚約発表の夜会で浴びせられた憐れみと嘲りの視線を、俺たちはまだ覚えている。だが、今度ばかりは、その空気が明らかに違っていた。
「見ましたか、あの二人の様子を。とても、上辺だけの関係とは思えませんわね」
「侯爵閣下があのようなことになった今となっては、むしろ、あのお二人の絆こそが本物だったということでしょう」
手のひらを返したような周囲の評価に、俺は今更ながら、彼らの無責任さに苦笑せざるを得なかった。かつて「あの気味の悪い顔の男」と陰口を叩いていた者たちが、今では愛想笑いを浮かべながら近づいてくる。以前の俺なら、その豹変ぶりに苛立ちを覚えていただろう。だが今は、彼らの評価などどうでもよかった。
「不思議なものですね」
人混みが少し途切れた瞬間、ローザリンデが小さく呟いた。
「あれほど、皆様の視線が怖かったはずなのに。今は、卿さえおそばにいてくだされば、何を言われても、心が揺らぐことはございません」
彼女のその言葉には、かつて「氷の薔薇」と呼ばれ、誰にも本心を見せずに生きてきた人間だけが辿り着ける、静かな強さが滲んでいた。それは、周囲の評価が反転したことへの安堵などではなく、もっと確かな、自分自身の足で立っているという実感なのだろう。隣に立つローザリンデが、晴れやかな笑みを浮かべているのを見れば、それだけで十分だった。
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夜会の会場では、母もまた、涙ぐみながらローザリンデの手を取っていた。
「本当に、よくぞここまで、あの子と向き合ってくださいました。母親として、これ以上の喜びはございません」
「もったいないお言葉です。わたくしの方こそ、皆様に温かく迎えていただき、感謝しております」
ローザリンデが深々と頭を下げるのを見ながら、俺はふと、ここに至るまでの一年余りの日々を思い返していた。契約という名の防御壁の内側で、互いに本音を隠し合っていたあの頃からは、想像もできない光景だった。
夜会の帰り、馬車に揺られながら、ローザリンデがふと、こちらに寄りかかってきた。
「長い一年でございましたね」
「ああ。だが、悪くない一年だった」
窓の外に流れる夜景を眺めながら、俺はそう答えた。侯爵もバルドゥルも、もう俺たちの前に立ちはだかることはない。積み重ねてきた誤解も、疑心暗鬼も、今はもう、遠い記憶になりつつあった。
「正直に申し上げれば、少し怖くもございます」
ローザリンデが、ぽつりとそう漏らした。
「これまでは、契約という名目や、周囲の脅威という、分かりやすい理由がございました。ですが、それらが全て取り払われた今、これから先は、卿とわたくし自身の意志だけで、この関係を築いていかなければなりません」
「それは、俺も同じだ」
俺は、素直にそう認めた。誰かと本気で向き合い続けるということが、これほど心もとなく、それでいて満たされたものだとは、これまで知らずにいた。
「だが、一人で抱え込む必要は、もうない。あなたにも、そう教えてもらったばかりだ」
ローザリンデは、少し驚いたように目を見開いてから、やがて柔らかく微笑んだ。
残されたのは、これから先、彼女と共に歩んでいく、まだ見ぬ日々だけだった。




