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第30話 新たな誓い

 結婚式当日の朝は、雲一つない晴天だった。


 支度を整えながら、俺はふと、あの婚約解消の申立書を破り捨てた夜のことを思い出していた。あの時はまだ、自分がこうして正式な誓いの場に立つ日が来るとは、想像もしていなかった。


「若様、いささか緊張なさっておいでですか」


 支度を手伝う執事が、珍しく軽口を叩いてきた。


「別に、緊張などしていない」


「手が、先ほどから震えておいでですが」


 指摘されて初めて、自分の手元がわずかに強張っていることに気づいた。誤魔化す言葉も見つからず、俺は黙って襟元を正した。


「長年お仕えしてまいりましたが、これほど嬉しい日を迎えられるとは、正直、思ってもみませんでした」


 執事のその声には、隠しきれない感慨が滲んでいた。思えば、この男には、これまでの一年余り、随分と心配をかけてきた。契約という建前に固執し、意固地に彼女を遠ざけようとしていたあの頃も、この執事だけは、辛抱強く俺のそばで見守り続けてくれていた。


「これまで、世話をかけた」


 柄にもなく、俺はそう口にした。執事は一瞬、驚いたように目を見開いたが、やがて深々と一礼した。


「もったいないお言葉です。若様の晴れ姿を、こうして見届けられただけで、これ以上の果報はございません」


 その言葉に、俺はふと、これまで一度も尋ねたことのなかったことを、思い切って口にしてみた。


「――お前は、なぜそこまで、俺に尽くしてくれる」


 執事は、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、やがて懐かしむような笑みを浮かべた。


「若様がまだ幼い頃のことを、覚えていらっしゃいませんか。私はもともと、火傷の跡が顔に残っておりまして、この屋敷に奉公に上がった当初は、他の使用人たちから随分と遠巻きにされておりました」


 初めて聞く話だった。


「そんな折、まだ小さかった若様だけが、物怖じもせずに『それ、どうしたの』と聞いてこられましてな。哀れむでも、怖がるでもなく、ただの好奇心からの問いでした。あのとき、この顔を恐れずに接してくださったのは、後にも先にも、若様お一人だけでございます」


 まさか、そんな記憶が執事の中に残っていたとは、思いもしなかった。


「ですから、若様が同じように顔のことで苦しんでおられるのを見るたび、他人事とは思えませんでした。何か力になりたいと、ずっとそう思ってまいりました」


 俺は、しばらくの間、言葉を失っていた。長年当たり前のように傍にいてくれたこの男の献身に、そんな理由があったとは、今日まで知る由もなかった。


「――そうか。俺の方こそ、礼を言うのが遅くなった」


「とんでもないことでございます。若様に恩返しができたのなら、これ以上の幸せはございません」


     *


 支度を終え、控えの間で一人になった俺のもとを、思いがけず父が訪ねてきた。普段、こうして二人きりで顔を合わせることも少ない相手だった。


「ヴォルフ。式の前に、少しだけ話しておきたいことがある」


 珍しく改まった声音に、俺は黙って先を促した。父は、しばらく言葉を選ぶように黙り込んでから、ようやく口を開いた。


「お前が生まれたとき……その顔を見て、私は正直、恐ろしかった。この子はこの先、どれほど辛い思いをするのだろうかと。だが、案じることしかできず、何をしてやればいいのか、最後までよく分からなかった」


 初めて聞く父の本音だった。俺が黙っていると、父は続けた。


「お前が誰とも深く関わろうとせず、一人で殻に閉じこもっていくのを、ただ黙って見ていることしかできなかった。あの頃、もっと踏み込んでやるべきだったと、今でも悔いている」


「――別に。父上のせいでは」


「いや、聞いてくれ。今日という日を迎えられたのは、お前自身の力だ。だが、こうしてお前の隣に立ってくれる人が現れたことを、この父は、誰よりも嬉しく思っている」


 父は、それだけ言うと、俺の肩に、ぎこちなく手を置いた。長年、互いにこれほど素直な言葉を交わしたことなどなかった。柄にもなく、俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。


「……ありがとうございます、父上」


 短くそう返すのが、精一杯だった。父は、小さく頷くと、それ以上は何も言わずに、静かに控えの間を後にした。


     *


 礼拝堂に足を踏み入れた瞬間、荘厳な空気に、思わず息を呑んだ。天井まで届く石柱が幾重にも連なり、ステンドグラスを透かした光が、幾筋もの色彩となって石畳に降り注いでいる。祭壇の奥に掲げられた、この世界の神を象る紋章が、静かに、しかし確かな重みをもって、この場を見下ろしていた。


 この荘厳さを目の当たりにして、俺はふと、場違いな考えに囚われた。前世で命を落とし、なぜか記憶を保ったまま、この世界に、この姿で生まれ落ちたのか――これまで、その理由を突き詰めて考えたことはなかった。だが、今この瞬間だけは、単なる偶然ではなく、何か大きな意志によって、ここまで導かれてきたのではないかという気がしてならなかった。神とやらが本当にいるのなら、俺に与えたあの理不尽な呪いにも、こうして報いる瞬間を用意していたということなのだろうか。


 柄にもなく、そんな埒もない考えに浸っていると、招待客たちの姿が目に留まった。両家の招待客に加え、あの資金凍結の折に頭を下げにきた老研究者や、無理を承知で相談に乗ってくれた商業組合の男の姿もあった。かつて俺を「気味の悪い顔の男」と嘲っていたはずの人々の中に、今では素直に祝福を向けてくる者も少なくない。人の心とは、つくづく移ろいやすいものだと思う。


 母は、開式を待つ間、隣の父にそっと囁いていた。


「あの子が、あんなに穏やかな顔をするようになるなんて。ねえ、あなた」


「ああ。研究以外に、ようやく生きがいを見つけたようだ」


 両親の会話が、扉越しに漏れ聞こえてきた。柄にもなく、俺は少しばかり気恥ずかしさを覚えながら、その場に立ち続けた。


     *


 祭壇の前で待っていると、扉が開き、純白のドレスに身を包んだローザリンデが、グスタフ卿に付き添われて歩いてくるのが見えた。


 その姿を目にした瞬間、俺は言葉を失った。初めて対面したあの日、この世界の美の基準に照らして最上級だと評したその美貌に、今はもう、警戒心など欠片も湧かない。ただ、これから生涯を共にする相手への、静かな愛おしさだけがあった。


 グスタフ卿は、祭壇の前で娘の手を俺に託すと、万感の思いを込めるように、深く頷いた。かつて、家の窮状ゆえに娘を政略の道具にせざるを得なかったあの人が、今は誰よりも誇らしげな顔で、娘を送り出そうとしている。その変化を目の当たりにして、俺自身も、この一年で多くのものを得てきたのだと、改めて実感した。


「――どうか、末永く」


 短いその一言に、これまでの一年余りの全てが凝縮されているようだった。


 司祭が、粛々と式次第を進めていく。かつて、俺たちの間にあったのは、書面の上でのみ交わされた、無機質な取り決めだった。同居の義務もなく、互いの私生活には干渉しない、更新は双方の合意による――そんな条項の数々が、今では遠い昔のことのように思えた。


 誓いの言葉を交わす段になり、司祭が形式通りの文言を読み上げた後、ローザリンデが、静かに自分の言葉を付け加えた。


「わたくしは、卿の繊細なお顔も、誰にも見せない孤独も、その全てを含めた卿ご自身を、生涯お慕いすると誓います」


 その言葉に、俺は込み上げるものを堪えながら、応じた。


「俺も、誓う。あなたの美しさに怯えることなく、その奥にある本当のあなたを、これから先も見つめ続けると」


 あの日、俺が自らの手で凍りつかせた誓いは、もう遠い記憶だった。今、代わりに交わされたこの誓いは、誰に強いられたものでもない、俺たち自身の意志によるものだった。


 誓いの口づけを交わした瞬間、礼拝堂に集った人々から、割れんばかりの祝福の声が上がった。母は涙を拭いながら、父は珍しく声を上げて笑いながら、その光景を見守っていた。降り注ぐ祝福の言葉の一つ一つが、これまで俺が浴びてきた侮蔑や嘲笑とは、まるで違う響きを持っていた。同じ「顔」を見られているはずなのに、こうも受け取り方が変わるものかと、俺は場違いにも、そんなことを考えていた。


 式の後、二人きりになった控えの間で、ローザリンデがそっと寄り添ってきた。


「これで、正真正銘、卿はわたくしのものでございますね」


「ああ。あなたも、俺のものだ」


 ふと、俺は思い立って、彼女の名を呼んだ。


「――ローゼ」


 愛称で呼ばれたことに驚いたのか、彼女は一瞬、目を丸くした。だが、すぐに嬉しそうに頬を緩めた。


「まあ。急に、どうなさったのです」


「これから夫婦になるんだ。いつまでも他人行儀な呼び方をしている方が、おかしいだろう」


「……では、わたくしも」


 ローザリンデは、少し照れたように視線を落としてから、そっと口を開いた。


「ヴォルフ様」


 家族以外の誰かに、その愛称で呼ばれたのは初めてのことだった。面映ゆさに、俺は思わず視線を逸らした。


「では、これから先の契約更新は、もう必要ございませんわね」


 悪戯っぽくそう言うローザリンデに、俺は思わず苦笑した。


「ああ。この誓いだけは、更新の必要もなく、生涯続くものだ」


 窓から差し込む光の中で、俺たちはしばらくの間、言葉もなく、ただ互いの温もりを確かめ合っていた。これから先、どんな日々が待っているのかは、まだ分からない。それでも、隣にこの人がいてくれるのなら、どんな未来も恐れることはないと、俺は確信していた。

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