第5話 まぼろしの願い
最初に感じたのは、視界の異様な低さだった。
自分の意思で動かせるはずの手足が、ろくに言うことを聞かない。声を出そうとしても、喉から漏れるのは意味を成さない泣き声だけだ。天井の木目も、覗き込んでくる誰かの顔も、何もかもがぼやけて滲んでいる。
――赤ん坊だ。俺は今、赤ん坊の体の中にいる。
その理解に至るまでに、随分と時間がかかった。断片的に蘇る前世の記憶――事故、病院、女性の悲鳴、そして「顔で評価されない世界に行きたい」という、消え入る寸前の願い。あれは夢だったのか、それとも本当に、俺は死んで、どこか別の場所に生まれ落ちたのか。
やがて、赤ん坊なりの時間の中で、否応なく理解せざるを得なくなった。俺は、あの事故で死んだのだ。二度と、前世の体には戻れない。
不思議なほど、恐怖は湧いてこなかった。その代わりに込み上げてきたのは、もっと静かで、重たい感情だった。両親のことだ。電器屋を継いだばかりで、まだ何一つ、まともな恩返しができていなかった。手術費用を工面してくれたときの、申し訳なさそうな、それでいて息子のためにという覚悟を浮かべた二人の顔が、今でもはっきりと目に浮かぶ。あの恩に報いる前に、俺は勝手に死んでしまったのだ。もう一度だけでいい、顔を見て「ありがとう」と言いたかった。
――それでも、もう戻れない場所を、いつまでも惜しんでいても仕方がない。頭では、そう分かっていた。
だが、頭で分かることと、心が諦めきれることとは、また別の話だった。夜、屋敷が寝静まった頃、ふと前世の記憶が脈絡もなく蘇ってくることがあった。実家の店先の匂い、母の作る味噌汁の湯気、父が工具を片付ける金属音。そんな断片が胸をよぎるたび、赤ん坊の目から、わけも分からず涙がこぼれた。乳母はそれを、ただの夜泣きだと思って、あやしてくれていたのだろう。
この命は、いわば拾いものだ。頭ではそう割り切ったつもりでいながら、消えない未練は、俺の中に澱のように残り続けていた。それでも――前だけを向いて生きるしかない。そう繰り返し言い聞かせながら、俺は消えきらない未練を抱えたまま、少しずつ前へ進もうともがいていた。
答えが出るまでもなく、日々は否応なく過ぎていった。
*
最初の一年は、ただ自分の体に慣れることだけで精一杯だった。声帯も、手足の筋肉も、赤ん坊のものだ。前世の意識があるからといって、いきなり流暢に話せるわけでも、自在に動けるわけでもない。もどかしさに苛立つ日々を経て、ようやくまともに言葉を発せるようになった頃には、周りの大人たちから「聞き分けの良すぎる赤子だ」と、微妙な顔で評されるようになっていた。乳母などは、俺があまり泣かず、じっと大人たちの会話に耳を傾けている様子を見て、「まるで小さな老人のようだ」と苦笑いしていたほどだ。
俺を覗き込む大人たちが話す言葉は、耳慣れない響きを持ちながらも、不思議なくらい意味が頭に流れ込んできた。彼らは俺を、アイゼンハルトという家名を持つ、中堅どころの貴族の子だと呼んでいた。父はこの地方の領地を治める男爵で、代々、武勲によって家名を保ってきた家系らしい。
名付けの儀の日、父は俺を抱き上げながら、朗々とした声で告げた。
「この子の名は、ヴォルフガング。狼の道を征く者――我が家に相応しい、勇ましい名だ」
狼、か。前世の記憶が、ふとその一言に反応した。狼を旗印に大陸の四分の一を切り取ったという、歴史上最大の征服者――チンギス・ハーンの名が脳裏をよぎる。あれほどの男の異名にあやかるような名を、生まれたばかりの自分がもらったのかと思うと、赤ん坊の胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
周りに集まった親族たちが、拍手と共に祝福の言葉を口にする。だが、その拍手の合間に、微かな戸惑いの視線が俺の顔に注がれているのを、赤ん坊の目ですら感じ取ることができた。
「……それにしても、随分と繊細なお顔立ちで」
「ほう、これはまた……いや、これから男らしくなられるでしょう」
誰かが小声で交わすそんなやり取りが、はっきりと耳に届いた。
――この、いかにも繊細な顔立ちの赤子が、狼の道を征く者、ヴォルフガングか。
誰も口には出さなかったが、その場の空気全体が、はっきりとそう語っていた。
前世の記憶を保ったまま、俺はこの世界で二度目の子供時代を過ごすことになった。とはいえ、中身はとうに大人だ。同年代の子供たちが積み木遊びに興じている間、俺は屋敷の書庫に入り浸り、この世界の文字や仕組みを人一倍早く吸収していった。
家族の間では、いつからか「ヴォルフ」という愛称で呼ばれるようになっていた。母は、そんな俺を見て、嬉しさ半分、戸惑い半分といった様子だった。
「ヴォルフは、本当に大人びていますね。……たまには、外で駆け回ってもいいのですよ」
そう声をかけられるたび、俺は曖昧に頷きながらも、結局は書庫に戻ってしまう。前世で積み上げた知識を、この世界でどこまで活かせるのか――それを確かめることの方が、無邪気に遊び回ることよりも、よほど性に合っていた。
*
五歳になる頃には、簡単な計算や、水車の構造についての理解が、屋敷の大人たちの誰よりも進んでいた。前世で齧った工学の知識は、この文明の水準からすればあまりに先を行き過ぎていたが、その一部を、この世界の技術と摺り合わせる形でなら、十分に活かすことができた。
最初にそれが形になったのは、領内を流れる小川に架けられた、旧式の水車だった。効率の悪い羽根の角度と、無駄の多い水路の作りを見た瞬間、俺の中で前世の記憶が疼いた。
「父上。あの水車、羽根の角度と、取水口の位置を変えれば、今の倍近く粉が挽けるはずです」
まだ舌足らずな幼子の口から出た提案に、父は最初、微笑ましそうに聞き流そうとした。それでも俺が紙に簡単な図を描いて見せると、その表情が徐々に真剣なものに変わっていった。
「……お前は、どこでこんなことを覚えた」
父の問いに、俺は「なんとなく、頭に浮かんだだけです」とだけ答えた。前世の記憶がある、などと説明したところで、誰も信じてはくれないだろう。
試しに、と手を加えられた水車は、稼働させてみると、俺の見立て通りに粉の生産量を大きく引き上げた。水車小屋の前に集まった領民たちが、驚いたように挽きたての粉を手に取り、口々に「これは凄い」「坊ちゃまのお力だとか」と噂し合っているのを、俺は少し離れた場所から眺めていた。
領地の代官が、興奮した面持ちで父に耳打ちしているのが見えた。
「旦那様、これは……収穫期の収益が、去年とは比べ物にならないほど上がりますぞ」
その日の晩、両親が寝室で嬉しそうに話している声が、廊下越しに聞こえてきた。
「まさか、あの子がこんな才を持っているとはな」
「これなら、いずれ王都でも名の知れる存在になるやもしれません」
「王都、か……」
父の声には、期待と、それにわずかに混じる誇らしさがあった。
顔ではなく、成果で評価される。それは、前世でどれだけ願っても手に入らなかったものだった。
――今度こそ、俺は俺自身の力で、何かを勝ち取れるのかもしれない。
まだ幼い胸の中で、そんな期待が静かに膨らんでいくのを、俺は確かに感じていた。水車の一件を皮切りに、屋敷の中で俺を見る大人たちの目には、戸惑いだけでなく、はっきりとした期待の色が加わり始めていた。




