第4話 二度目の掌返し
傷跡を消すための治療には、ほぼ一年かかった。
引きつれを解消する手術と、その後の地道なリハビリを経て、鏡に映る顔は、記憶の中の自分とほとんど変わらないところまで戻った。もう誰も俺の顔を見て「ムカデ」とも「ピカソ」とも呼ばない。
だが、それで何かが晴れることはなかった。
大学の入学当初、俺のことをひそひそと遠巻きに見ていた同級生たちが、顔が元に戻った途端、まるで何事もなかったかのように話しかけてくるようになった。
「陽向くん、雰囲気変わったね」
「前より全然……その、話しやすくなったし」
"前より"の後に何を言おうとしていたのか、聞かなくても分かった。誰も彼も、俺という人間そのものではなく、俺の顔の状態を見て、態度を変えているだけだった。傷があったときは遠巻きにされ、傷が消えれば愛想笑いを向けられる。人間関係のスイッチが、まるごと俺の顔面ひとつに握られているようなものだった。
――結局、こういうことか。
中学のときとは違う種類の、もっと冷え切った諦めが、俺の中にはっきりと根を張った。今度は、単純な違和感では済まなかった。誰かに優しくされるたびに、「どうせ顔のことしか見ていないんだろう」という疑いが、反射的に湧いてくるようになっていた。
*
大学二年、二十歳になった年の成人式に、俺は特に感慨もなく出席した。会場には、中学・高校の同級生たちの顔がちらほらあった。案の定、俺の周りには何人かの女子が集まってきて、当たり障りのない世間話をしてくる。よく見れば、傷を負っていた時期には目も合わせようとせず、廊下ですれ違うだけで顔を背けていたはずの顔ぶれも、その中に混じっていた。
その中に、小野早苗もいた。
髪を明るく染め、化粧も垢抜けて、昔の三つ編みと黒縁眼鏡の面影はほとんどなかった。「小野妹子」と呼ばれていた頃の彼女とは、別人と言っていいくらいだった。
「陽向くん、久しぶり。……相変わらず、かっこいいね」
早苗の方から話しかけてきたことに、正直、少し驚いた。当たり障りのない近況を交わすうち、彼女には今、交際している相手がいることが分かった。「彼氏、優しい人でさ」と、隣にいた友人らしき女性に笑いかけながら、早苗はそう言った。
それなのに、しばらく話し込んだ後、周りに人が少なくなった隙を見て、早苗は俺の耳元にそっと顔を寄せてきた。
「ねえ、二人で抜け出そうよ。……やっぱり、陽向くんかっこいいから」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
彼氏がいると、たった今、笑顔で話していたばかりだ。それなのに、周りの目が少し薄れた途端、その事実などなかったことのように、誘いの言葉を口にしている。
中学の頃、あれほど怯えたように俺を拒んでいたはずの彼女が。「罰ゲームだと思ってた」と、俺を突き放したはずの彼女が。
結局、彼女もまた、顔で男を判断する側の人間でしかなかったのだ。
「……悪い。今日はもう帰る」
それだけ言って、俺は会場を後にした。振り返ることはしなかった。
その帰り道、俺の中で何かが、静かに、しかし完全に決着した。女なんて、しょせんこんなものだ。顔が良ければ寄ってきて、悪ければ離れていく。それだけの、単純な生き物なのだ。早苗との一件は、その結論に、最後の一片を埋め込むには十分すぎた。
結局、大学を卒業するまで、俺は誰とも深い関係を持つことはなかった。恋人どころか、まともに口説かれても心が動くことはなかった。
*
卒業後は、学んだ知識を活かして実家の電器屋を継ぐことにした。父の下で修理や配線の仕事を覚えながら、俺なりに新しい技術も取り入れていった。それでも、店に来る若い女性客の何割かは、明らかに商品よりも俺の方を見て笑いかけてくる。父のように、純粋に技術と人柄で信頼される人間になりたかったのに、ここでもまだ、顔の話がついて回るのかと思うと、うんざりする気持ちは拭えなかった。
その中の一人に、店の常連客だった女性がいた。修理の相談にかこつけて、何度も店に顔を出しては、俺に個人的な連絡先を聞いてくる人だった。俺はそのたびに、事務的な口調で、はっきりと断り続けた。好意を持たれること自体に、もう何の喜びも感じられなかった。
その日も、いつものように出張修理の依頼をこなし、軽トラで店に戻る途中だった。
夕暮れの県道、見覚えのある人影が、道の反対側からこちらに向かって手を振っているのが見えた。あの女性だった。
「陽向くん、待って――!」
呼び止める声とともに、彼女が車道に飛び出してくるのが、ミラー越しに見えた。
とっさにハンドルを切った。視界が大きく傾いで、対向車のヘッドライトが目の前いっぱいに広がった。
避けきれない、と悟った直後、鈍い衝突音とともに、凄まじい衝撃が全身を貫いた。フロントガラスが砕け散る音と、金属がひしゃげる音が、やけに間延びして聞こえた。
ああ、また女に――。
最後にそう思ったのを、覚えている。
薄れていく意識の中で、俺は何かを強く願った。顔なんかで、誰にも評価されない世界。俺という人間そのものを、誰も顔で判断しない世界。そんな場所があるのなら、そこに行きたい。
――気づけば、見知らぬ天井があった。




