第3話 傷痕
考えるより先に、体が動いていた。
車道に飛び出したのは、幼稚園児くらいの小さな男の子だった。ボールを追いかけていたのだろう、その視線は道路脇を転がっていくボールにしか向いていない。左手からは、減速する様子もなく一台のワゴン車が近づいてきていた。
気づけば俺は走り出し、男の子の体を思い切り歩道側へ突き飛ばしていた。
自分の体が反対方向へ弾かれる感覚と、視界が横に流れる感覚が同時に来た。受け身を取る間もなく、俺は道路脇のガードレールの支柱に、顔の右側から突っ込む形で倒れ込んだ。
熱さよりも先に、鈍い衝撃が来た。それから少し遅れて、右のこめかみから頬にかけてが、燃えるように痛み始めた。
「――っ、」
声にならない呻きを上げながら顔に手をやると、指先がぬるりと濡れた。見なくても分かった。かなりの出血だ。
男の子は、俺が突き飛ばした反動で尻もちをついただけで、怪我らしい怪我はなかった。ワゴン車は急ブレーキをかけ、間一髪で男の子の手前で止まっていた。
周りに人が集まってくる。だが、その視線の大半は、無事だった男の子と、青ざめてしゃがみ込む運転手に向けられていた。男の子の母親らしい女性は、駆けつけるなり我が子を何度も抱きしめ、「良かった、良かった」と泣きながら、運転手や周りの通行人に何度も頭を下げていた。
血を流して倒れている俺のことは、誰かが救急車を呼んでくれるまでの間、誰も近づいてこようとしなかった。
――俺には、一言もないのか。
どこか他人事のように、そう思っている自分がいた。
手当てを終えたのは、日付が変わる頃だった。病室に駆け込んできた母は、包帯だらけの俺の顔を見るなり、声を上げて泣き崩れた。父は何も言えないまま、ただ俺の手を痛いほど強く握りしめていた。周りの誰からも顧みられなかった自分を、少なくともこの二人だけは、我が事のように案じてくれている――それだけが、あの日、行き場のなかった俺の心に残った、唯一の温かさだった。
*
病院での処置には、思いのほか時間がかかった。右のこめかみから頬にかけて、約20センチにわたる裂傷。傷そのものは縫合できたが、治癒の過程で皮膚が引きつれ、時間が経つにつれて、顔の左右のバランスが目に見えて崩れていった。
鏡を見るたび、俺は不思議と、悪い気分にはならなかった。
戦国武将たちの傷や、槍の穂先で抉れたような古い甲冑の傷跡を思い出す。顔に無数の傷を負いながら関東に覇を唱えたという、北条氏康の逸話も確か何かの本で読んだことがあった。これでようやく、自分の顔にも「何かを乗り越えた人間の証」のようなものが刻まれた気がした。憧れの武将のようだ、と、柄にもなく思った。
*
だが、周囲の反応は、俺の解釈とはまるで違う方向に転がっていった。
登校を再開してしばらくすると、教室ですれ違う生徒たちの視線が、明らかに変わっていることに気づいた。廊下の陰で、誰かが小声で言うのが聞こえてくる。
「――ムカデ、来た」
「ピカソみたいな顔になったってマジ?」
最初は聞き間違いかと思った。だが、意味はすぐに分かった。長く引きつれて虫のように這う傷跡そのものを指した「ムカデ」。そして、左右で均衡を崩してしまった顔立ちを、あのキュビスムの画家になぞらえた「ピカソ」。二つの陰口は、それぞれ別の角度から、俺の変わり果てた顔をあげつらったものだった。あれほど下駄箱に手紙を入れてきた女子たちも、廊下ですれ違いざまに視線を伏せて足早に去っていくようになった。声をかけても、以前のような愛想笑いすら返ってこない。まるで、俺という存在の価値が、傷痕ひとつでまるごと下落してしまったかのようだった。
誰かを助けたことよりも、顔に傷ができたことの方が、みんなにとってはよほど大きな出来事らしい。
――女子なんて、しょせんこんなものか。
そう吐き捨てるように思ったとき、俺の中で何かが、静かに固く凍りついた音がした。
もう、顔のことで一喜一憂するのも、女子の顔色を窺うのも馬鹿らしい。そう割り切ってからは、勉強にだけ意識を向けるようになった。
*
休みの日、店番を手伝いに実家の電器屋へ顔を出すと、常連の年配客が父に向かって「いつも本当に助かってるよ」と頭を下げているのを見た。父は照れくさそうに「いえいえ」と笑いながら、次の修理の相談に乗っていた。
顔でも、愛想でもなく、ただ確かな技術で誰かの役に立つ。俺が本当に欲しかったのは、たぶんこういう評価のされ方だったのだと、そのときはっきり自覚した。
それから俺は、電気や機械の仕組みそのものに強く惹かれるようになり、ものづくり系の工学を学べる大学を志望するようになった。放課後や休日には、父の手伝いをしながら実地でも知識を蓄えていった。
努力の甲斐あって、志望していた大学への合格を勝ち取った。合格発表の日、両親は誰よりも喜んでくれた。
その数日後、父と母は改まった様子で俺をリビングに呼んだ。
「陽向、その……顔の傷のことなんだけど」
母が言いにくそうに切り出した言葉を、父が引き取るように続けた。
「就職の面接とか、これから先のことを考えると、第一印象は大事だろう。決して余裕があるわけじゃないが、傷跡を消す手術の費用は、なんとか工面するから」
裕福とは言えない我が家にとって、それがどれほどの決断だったか、俺には痛いほど分かった。二人の顔には、申し訳なさと、それでも息子のためにという覚悟が、同時に浮かんでいた。
迷いがなかったと言えば嘘になる。この傷は、もう自分の一部だという気持ちもどこかにあった。
それでも――両親の想いを無下にはできない。
俺は静かに頷いた。
「……うん、ありがとう。頼むよ」
その一言で、俺は手術を受けることを決めた。




