その二 忍び寄る影
かずみはふと目が覚めた。
(厠行きたい……)
両隣りに寝ている小雨と来華を見回す。
(やだなぁ、この宿ってなんか気味悪いし、こんな夜中に独りで厠なんて……。でも起こしちゃ悪いし……。ていうか、こんな歳になってまで独りで厠に行けないなんて、情けねーだろ!)
かずみはなんとか自分を奮い立たせ、布団から這い出ると薄暗い廊下に出た。
「……寒っ」
怖さを紛らわすために、わざと声に出してつぶやきながら歩き出す。
しばらく行くと、ふと前の曲がり角の方から足音が聞こえてきた。
(えっ! 誰だよぉ)
かずみは必死に心を落ち着かせながら進んだ。
足音はすぐそばだ。
ちょうど角に差し掛かったとき——
「うわぁあああ!」
暗がりから現れた大きな影に、思わず絶叫する。
しかし、その影をちゃんと見直したかずみはきょとんとした。
「あ! か、影利さん?」
影利はかずみの叫び声に驚いたように目を見開いていたが、彼女とわかると、いつもの落ち着いた表情に戻った。
「こんな時間になにしてるんだ?」
「えっ、あっ、そういえば厠に行くところだった!」
かずみはあまりに驚いたせいで、自分が厠に行きたいということさえ忘れていた。
「影利さんこそ、なんで?」
「いや、俺は——」
影利が口を開きかけたとき、再び彼の後ろから足音が聞こえてきた。
二人は口を閉ざして、暗がりに目を凝らした。
床が軋むせいで余計不気味さが増す……。
「うわぁ!」
かずみはまたもや悲鳴を上げて、影利の後ろに急いで隠れた。
「なっ! 来華?」
かずみは暗がりから姿を現した彼女を見て、ポカンとした。
「びっくりした! な~んだ。影利とかずみじゃん」
来華もほっとしたように胸を撫で下ろす。
「ははは、な、なんだ、来華かよ」
かずみは誤魔化し笑いをしながら、影利の後ろから離れた。
「二人共、なにしてんの?」
来華は寒そうに、両手を擦り合わせている。
「私は厠だけど、来華こそなんで? ていうか、さっきまで部屋で寝てただろ?」
かずみがそう言うと、来華は不思議そうに首を傾げる。
「えっ? あたし、今厠に行って来たんだけど……?」
「えっ?」
かずみはそれを聞いてサッと青ざめた。
「で、影利は?」
「いや、俺はなにか妙な足音がしたもんで気になってな……。俺たちの部屋の前を通ったのか?」
「ううん。だって厠は二人の部屋の、だいぶ手前の廊下にあるでしょ?」
影利はいつものように口元に手を当てて、眉を寄せた。
「それもそうだな。お前は誰にも会ってないか?」
かずみは青ざめたまま、首を横に振った。
「いいや、それより小雨がまずいかも……」
小雨は暗闇の中、妙な音に目を覚ました。
——ザ―、ザ―
「……?」
なにか長い髪を、櫛でとかしているような音だ。
小雨は、来華が寝ていた場所に座っている影に声をかけた。
「来華?」
影はピタリと動きを止めた。
暗くてぼんやりとしか見えないが、長い髪の女のようだ。
「!」
小雨は来華ではないことに気づき、急に悪寒が走った。
「誰?」
小雨が震える声でそう問いかけると、その影は大きく真っ赤な口でニヤリとこちらに笑いかけて、バサッと彼女の方へ飛びかかってきたのだ。
「いやぁああ!」
小雨は絶叫しながら両手を振り回した。
しかし、その影は飛びつく寸前に青白い人魂に変わり、溶け込むように小雨の中へと消えていった。
「えっ! うそ? やだ!」
小雨は独りであたふたと、人魂が溶け込んできた腹の辺りを触っていた。
すると全くそんなことは思っていなかったのに、突然とても悲しくなり、大量の涙がボロボロと溢れてきた。
「っえ?」
小雨はどうしてよいかわからずに、その場に座り込んだまま涙を流していた。
と、慌ただしい足音が響いてきて、部屋の襖が勢いよく開かれる。
「小雨ー!」
かずみはそう叫ぶや否や、部屋に飛び込んできた。
その瞬間小雨の身体はスウッと軽くなり、涙もピタリと止まった。
かずみに続いて来華と影利も入って来る。
かずみは瞳が潤んでいる小雨を見て青ざめ、慌てて彼女の傍らにしゃがみ込んだ。
「大丈夫か? なにがあった?」
小雨は首を横に振って涙を拭った。
「こ、これアタシが泣いたんじゃない」
影利も、来華と小雨のそばにしゃがみ込みながら、問いかけた。
「どういうことだ?」
小雨はなんとか落ち着いて、今あったことを説明した。
来華もかずみと同じくらい青ざめて、つっかえながら言葉を絞り出す。
「な、なにそれ……それってまるで……」
影利はその言葉を次いで結論を述べた。
「霊だな。おそらくこの宿には霊がいるんだろう」
「まじかよ! 妖怪なら実体があるけど、霊なんてよくわからないし、姿だってあやふやだし……!」
かずみは寒さと恐怖で震えながら項垂れた。
来華も縮こまりながら何度もうなずく。
ちなみにアヤカシとは、妖怪や霊などを総称したものである。
かずみはふと思い出したように影利に言った。
「そういやぁ、海刃も独りじゃないか?」




