第一話 ポルシェと全熱交換機、そして開幕
十八億円という天文学的な損失を出した翌朝も、寛政の世の太陽は何事もなかったかのように江戸の街を照らしていた。しかし、金華の御殿の内部は、かつてない危機に瀕していた。「じ、じい……! 全熱交換機の故障じゃ! すぐさま万事屋に連絡するのじゃ!」絹の着物を乱した金華が、贅沢な畳の上からのけぞるようにして絶叫した。いつもなら室温二十四度、湿度五十パーセントに保たれているはずの極上空間が、じっとりと生ぬるい。外界の江戸の湿気と、うっすらとした火事の煙の匂いが、御殿の中に侵入し始めていた。「姫様、何度も申し上げているではございませんか。昨日の第四レースで、あの猿投山に十八億円もの聖徳太子の一万円札を突っ込んで溶かしたせいで、全熱交換機の定期保守点検の費用が完全に底をついたのでございます!」じいは、懐から豊臣秀吉の千円札を数枚取り出し、悲しそうにパタパタと仰ぎながら首を横に振った。「現在の我が家の財布には、おつり用の秀吉札と、少しの織田信長の五千円札しか残っておりません。万事屋を呼ぶにしても、あの者たちは聖徳太子を積まねば、この最新鋭のカラクリ空調など直してくれませんよ!」「嫌じゃ嫌じゃ! わらわは完璧に管理された空気の中でしか生きられぬニートなのじゃ! む、待てよ……。馬小屋の全熱交換機は無事なのか!?」金華は、手鏡大のスマホを素早く操作し、離れにある厩舎のステータスを確認した。じいは深くため息をつく。「ええ、そちらは別系統の予算で動いておりますから無事ですが、なぜ自分の部屋より馬の心配をされるのですか」「当たり前じゃ! 馬小屋の全熱交換機が壊れたら、愛馬の体調に関わるからのう!わらわの不労所得を支える可愛いコレクションたちに万が一のことがあれば、それこそ自由時間が脅かされるわ!」金華は不敵に笑うと、画面をスクロールさせ、昨日新しく購入したばかりの八匹目の愛馬のプロファイルをじいに見せつけた。「見よ! これがわらわの新兵器、その名もポルシェじゃ!」画面に映し出されたのは、白銀の美しい毛並みを持つ、気品溢れるサラブレッドであった。しかし、その血統表や過去のレースデータを見たじいは、一瞬で頭を抱えた。「姫様……この馬、血統的には完全に落ちこぼれ、オッズも最低人気の爆弾馬ではございませんか! なぜこのような馬を……」「知らん! 泥まみれの猿投山とは真逆の、この気高さ!顔が圧倒的に可愛かろう!勝ち負けなどどうでもよい、美しければそれでヨシじゃ!」「また見た目だけでお買い上げに……!伝統ある江戸競馬界の馬主たちが血眼になって優秀な血統を探しているというのに、うちの姫様は完全に競馬をキャラクター萌えの道具にしておいでだ……!」じいの嘆きを無視し、金華の指はすでに、本日開幕する第一レースの投票画面へと滑っていた。
江戸の経済の中心地にそびえ立つ、格式高い江戸中央競馬場。 その最上階にある VIP用特別観覧席では、絹の羽織をまとった競馬界の権力者。血統派の重鎮たちが、ふんぞり返りながら長管のキセルを吸っていた。「競馬とは伝統だ。親から子へ、何代にもわたって受け継がれる血のドラマこそが、このギャンブル産業の神髄よ。最近の若者は、数字のデータばかり見て風情がないな」お堅いおじさんたちが傲慢に語り合っているその横で、特別席の障子が乱暴に開け放たれた。「ふん、伝統? 血のドラマ? 片腹痛いわ!」極上のポテチの袋を抱え、コーラの缶を片手にした金華が、じいを引き連れて堂々と入場してきた。その足元は、相変わらず着物をはだけさせた自堕落なスタイルである。「な、なんだお前は! 格式高きこの席に、そんなジャンクフードを持ち込むなど不届き千万!」「黙れ、おじさんたち。働くとは他人の夢を叶えること。わらわは己の自由時間のため、そして馬の可愛さのためにここにいる。お主たちの語る説教など、ポテチのカスほどの価値もないわ!」金華はソファにドカッと腰を下ろすと、純金製の電子端末を権力者たちの目の前に突きつけた。「これより始まる第一レース、わらわは我が愛馬ポルシェの単勝に、手元に残った織田信長と豊臣秀吉の札束を、文字通り山積みにして全て賭ける!」「なっ……! ポルシェだと!? あの血統の全否定のような駄馬にか!?狂ったか、小娘!」「狂っておらぬ。この馬の瞳の輝きは、わらわの全熱交換機へのこだわりに匹敵する。じい、賭け金の処理をしてまいれ!」「ひえええ! 秀吉札が何万枚も右から左へ流れていきますぞー!」競馬場の電光掲示板に、突如として異常な数字が躍り出た。最低人気だったはずのポルシェのオッズが、金華の一点張りによって一瞬にして爆発的に変動し、ギャンブル産業のシステムそのものが大混乱に陥り始めたのである。「おい、あの異常なオッズは何だ!?」「どこかの大富豪が、狂ったように駄馬に金を注ぎ込んでいるぞ!」場内が騒然とする中、第一レースの出走を告げるファンファーレが、江戸の空に鳴り響いた。
ゲートが開き、一斉に飛び出すサラブレッドたち。競馬界の重鎮たちが推す名門血統の馬たちが先行する中、白銀の馬体を持つポルシェは、最良のスタートを切った。「見よ! わらわのポルシェの美しい走りを! 走る姿そのものが芸術じゃ!」金華は観覧席の窓に張り付き、コーラを飲み干しながら歓声をあげる。「姫様! 確かに対象の馬は美しく走っておりますが、現在五番手!このままでは昨日の十八億に続き、残りの信長も秀吉も全て紙屑に変わりますぞ!」「騒ぐなじい! 勝負はこれからじゃ。わらわの直感が、このポルシェの可愛さが負けるはずがないと告げておる!」最後の直線。名門馬たちが激しい競り合いを展開する横を、ポルシェは一切の無駄がない、まるで名工の刃のようなフォームで、風を切って加速し始めた。その姿は、お堅い権力者たちの伝統という名の常識を、札束の力でもぎ取るかのような圧倒的な輝きを放っていた。「バ、バカな……! あの駄馬が、我が一族の最高傑作を抜き去るだと!?」愕然とする重鎮たちを余所に、ポルシェは鮮やかに直線をごぼう抜きし、見事に一着でゴール板を駆け抜けた。
場内は静まり返り、次の瞬間、地鳴りのような大歓声が巻き起こった。「勝った……! 勝ってしまったぞ、じい!」「ひ、姫様ーーー! 的中、見事でございます! 信長と秀吉が化けて、山のような聖徳太子の一万円札が戻ってまいりましたぞ!」じいが涙を流しながら、画面に表示された莫大な払戻金に狂喜乱舞する。金華はフッと不敵に微笑み、手元の電子端末をポケットに収めた。「ふん、当然じゃ。これで我が御殿の全熱交換機も即座に修理できるのう。やはり不労所得こそが至高。自由時間のための勝利じゃ!」競馬界の既存のシステムを札束と直感でハッキングし、大混乱に陥れたニート姫。彼女の気まぐれな無双劇は、まだ幕を開けたばかりであった。




