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序章 不労所得のニート姫、十八億を溶かす

 「働くとは、他人の夢を叶えること。わらわは自分の夢だけ見て生きるのじゃ」それが、この広大な御殿の最深部に君臨する主。金華(ジンホァ)の、揺るぎなき至高の哲学であった。時は寛政。 天下泰平の世が続く江戸の街において、金華の暮らす高級邸宅だけは、完全に外界から隔絶されていた。瓦屋根を叩く小糠雨も、江戸名物の煤煙や埃、あるいは季節外れの生ぬるい風も、すべては邸内に備え付けられた極上の全熱交換機によって完璧にシャットアウトされている。常に室温は二十四度、湿度五十パーセント。大自然の気まぐれを一切許さない完璧な空気の揺りかごの中で、金華は今日も今日とて、贅沢な絹の着物を大胆にはだけさせ、畳の上をごろごろと転がっていた。






 「むにゃ……やはり、ポテチの塩気とコーラの炭酸による波状攻撃は、全宇宙に存在する最高峰の美味じゃな……。おい、じい。お腹が空いたぞ。次のポテチを頼む」「姫様、先ほど特大サイズの袋を三つ、綺麗に平らげられたばかりでございますが」呆れたように、しかし慣れた手つきでコーラの空き缶を片付けるのは、幼少期から金華に仕え、彼女の全財産を管理する老従者、通称「じい」である。「……む、そうであったか。しかし、キッチンまで歩いていくのは万死に値するほど面倒じゃ。よし、仕方のない、これで空腹を紛らわせる。荒療治じゃ」金華は、自分の頭の下に枕としてうず高く積まれていた、鮮やかな緑色のお札の束をガシッと鷲掴みにした。そして、それを愛おしそうに顔に近づけ、深く息を吸い込む。それは、お札の表面で威厳たっぷりに笏(しゃく)を構える、一万円札の聖徳太子の束であった。「ふぅ……。やはり、この刷りたての聖徳太子の香りはたまらんな。最高級のインクと特殊な紙の匂いを嗅いでいるだけで、胃袋の虫も大人しくなるというものじゃ」「一般社会では、それを重度の現実逃避あるいはただの変質者と呼びます、姫様。そもそも徳川家のお膝元であるこの寛政の世において、聖徳太子を枕にして昼寝をするなど、国中広しと言えども姫様くらいなものでございますよ。……おや、ポテチの油が太子の顔にべっとりと付いているではありませんか! 不敬ですよ!」「何を言うか。金とはな、じい。汗水垂らして働くためのものではない。労働という名の奴隷契約から身を守り、何者にも縛られない自由時間を買い占めるための道具じゃ。不労所得だけで生きるわらわにとって、時間は無限。ならば、この有り余る自由時間を何に使うべきか? 決まっておろう」金華は不敵に微笑み、最新のスマホ型端末を起動した。その拍子に、彼女の豊かな銀髪に挿された、特注の馬の耳を模した精巧な簪が、シャラシャラと小気味よい音を立てて揺れた。それはまるで、これから始まる競馬のファンファーレを待ち侘びるかのように、金華の頭上で可愛らしく自己主張している。画面に映し出されたのは、サラブレッドたちがゲートに並ぶ、緑鮮やかな競馬場のライブ映像である。「じい、ちょっとその辺にある五千円札の織田信長を三枚ほどよこせ。コーラが切れたゆえ、万事屋に配達させねばならん。おつりは千円札の豊臣秀吉で貰うておけ」「まったく……第六天魔王をパシリの賃金にし、天下人をおつり扱いにするなど、相変わらずバグり散らかした金銭感覚でございますな……。それにしても、その頭の馬耳の簪といい、本当に競馬のことになると形から入るお人だ……」じいが呆れ果てて信長札を懐に収めるのを横目に、金華はスマホの画面をタップした。






 「道楽。すなわち、競馬じゃ!」金華の唯一にして最大の趣味。それは、有り余る聖徳太子を湯水のように使い、競走馬を買い漁り、馬券を大豪遊することだった。競馬界に生きる人間。特に血統だの伝統だのを重んじるお堅いおじさんたちは、馬の親の代からのドラマや、生産者の涙ぐましい努力を語りたがる。だが、不労所得の怪物である金華の基準は、恐ろしいほどにシンプルだった。「勝ち負けなど、正直どうでもよい。要するに、馬が可愛ければそれでヨシ! 見てみよ、じい。この新しく買い取った馬。あまりにも顔が凛々しくて愛らしかったから、名前をポルシェに変えてやったぞ! これでわらわの馬主コレクションも八匹目じゃ!」「また競馬の伝統に真っ向から喧嘩を売るような、異国の高級車みたいな名前を……。それで姫様、先ほど今回は最新アプリのAI予想を駆使して、極めて堅牢かつ手堅く資産を運用するのじゃ。と賢者みたいなことを仰っていた件はどうなりましたか?」「ふん、さっきの第三レースのことか? 当然、完璧にこなしたぞ。ほら見よ」金華がスマホの画面をじいの顔の前に突き出す。そこには、AIが算出したガチガチの本命馬券、すなわち「壱ー四」の組み合わせに、一般人の生涯年収が霞むほどの巨額が投じられ、そして見事に的中した履歴が残っていた。「壱ー四の辰之助と助三郎じゃ。AIの言う通りにボタンを数回タップしただけで、ほれ、賞金が自動的に振り込まれて、また聖徳太子が増えてしまった。ああ、忌々しい。御殿の床が太子で埋まって歩きづらいではないか。置き場所がないぞ。じい、後で新しい太子の敷布団を作っておいてくれ」「はいはい、左様でございますか。手堅く勝つ分には何も文句はございませんよ。ええ、その調子でいてくだされば、私の胃に穴が開くこともないのですが……」じいがホッと胸を撫でおろした、まさにその直後。不穏なファンファーレが、御殿の超高音質スピーカーから鳴り響いた。第四レースの幕開けであった。「……姫様。今、画面の端に映った、あの泥まみれでトボトボと歩いている生き物は、一体何でしょうか」第四レースが終了した直後。御殿の空気は、全熱交換機の完璧な制御をもってしても防ぎきれないほどの極寒へと叩き落とされていた。最新鋭の電光掲示板を模したホログラムディスプレイ。その最下層、見るも無惨な位置に、その文字は刻まれていた。「十六着(最下位) 猿投山(サナゲヤマ)」「……うむ。猿投山じゃな」金華はスマホを握りしめたまま、完全に瞳のハイライトを失っていた。画面の向こうでは、金華が「今回は気分転換じゃ!この泥臭い根性が可愛いのう!」という理由だけで、AI予想を完全に無視し、全財産から莫大な額を一点張りした愛馬・猿投山が、息を切らせて最下位でゴールしていた。周囲の馬たちが風のように駆け抜ける中、猿投山だけは「走るのめんどくさいなぁ」と言わんばかりの、実に自堕落な、どこか飼い主に似たフォームで走っていた。






「姫様……」






 じいの顔から、文字通り血の気が引いていく。顔面蒼白どころか、もはや透明人間になるのではないかというほどの白さである。老いた背中が、ガタガタと目に見えて震え始めた。「ひ、姫様……。第四レース、大敗。いえ、大暴落でございます……」「……うむ。じいよ、騒ぐな。わらわともあろう者が、いちいち競馬の結果ごときで取り乱すと思うか。……して、数字にしてどれほど溶かした?」金華は精一杯の虚勢を張り、織田信長を扇子代わりにパタパタと胸元を仰ぎながら聞いた。じいは、血の混じったような声を絞り出す。「じ、じ……じゅう、はち、おく……。十八億円、一撃で紙屑に変わりましたぞーーー!!」「……じゅう、はち……おく……?」金華の脳内で、数字がそろばんを弾く。一万円札が十八万枚。聖徳太子が十八万人がかりで、一瞬にして天に召された計算になる。「そ、それは……わらわの今後の生活に、どのくらいの支障をきたすのじゃ……!?」「しばらく……! しばらくの間、ベッド一面に敷き詰める聖徳太子の枕および太子の敷布団のご使用は無理かと……!!」






「なんじゃとーーーーー!?」






 金華の絶叫が、防音性の高い御殿の壁に木霊した。「全熱交換機の定期メンテナンス費どころか! 来月予定していた、御殿の畳の総入れ替え予算すら、あの猿投山のノロノロ運転のせいで、一瞬にして消し飛びました! 姫様、しばらくは本物の、普通の草の匂いがする畳で寝ていただくことになりますぞ!」「嫌じゃ! わらわは太子のインクの匂いと、二十四度に管理された空気の中でしか生きられぬ体なのじゃ! 猿投山め、お主、あのパドックでの愛くるしい瞳は偽りだったのか!?」頭を抱えて畳の上を転げ回る金華。十八億の喪失。普通なら即座に首を吊るレベルの大惨事である。






 しかし、金華の網膜が、スマホの画面の隅に映り込んだ「あるモノ」を捉えた。それは、競馬場の外にある、薄暗い公式売店のワゴンセール会場だった。きらびやかな優勝馬のグッズが飛ぶように売れる横で、完全に埃をかぶって放置されている悲しいワゴン。そこに、なんとも言えない情けない、やる気のない顔をした馬のイラストが描かれた小物が並んでいた。「猿投山・やる気なしアクリルキーホルダー(定価・三百円)」金華はピタリと動きを止めると、フッと大きく溜息をついた。そして、すっくと立ち上がり、腰に手を当てて不敵に笑った。「……じい。騒々しいぞ。負けは負けじゃ。わらわの有り余る財産が、ほんの少し減って、元の位置に戻っただけのこと。それよりも見よ。あそこにお主のグッズがあるではないか。わらわの直属の馬主権限をもって命ずる。今すぐあれを買うのじゃ」「ひ、姫様……っ!? 耳を疑いますぞ! 十八億を溶かして、今さら三百円の安物キーホルダーを買いに走るなど、正気の沙汰ではありません! 今すぐこの呪われた競馬場アプリを閉じ、全速力で現実逃避の睡眠に入るべき時でございます!」「何を言っておる! 最下位を、あのきらびやかなエリート馬たちの後ろを、一切のプライドを捨ててトボトボと走る姿……。あれはあれで、究極の可愛さではないか! ほら見よ、あの哀愁漂う表情を。早くせぬと、物好きな誰かに売り切れてしまうぞ! わらわの輝かしいポルシェコレクションの横に、この負け犬の矜持を飾ってやるのじゃ!」「もうお終いだぁ! うちの姫様は、金がなさすぎて脳の回路までショートしてしまわれたーーー!!」頭を抱えて絶叫するじいを他所に、金華の瞳には、かつてない奇妙な輝きが宿っていた。十八億を失ってもなお、彼女の道楽は止まらない。むしろ、この圧倒的な大敗こそが、お堅い競馬界の権力者たちを恐怖と混沌のどん底に陥れる不労所得姫の無双劇の、ほんのプロローグに過ぎないことを、この時のじいはまだ知る由もなかった。






(その後、金華は熱狂的な猿投山グッズ収集家の第一人者として、別の意味で競馬界にその名を轟かせることになるのであった)






 御殿の隅に、ぽつんと飾られた一つのアクリルキーホルダー。窓の外には、伝統と格式を重んじ、血統こそが競馬のドラマだ。と傲慢に語る、競馬界の重鎮たちの影。しかし、そのすべての権威システムは、次の一言によって崩壊へと向かう。「ふん、伝統? 血統のドラマ? 知らん。わらわは自由時間のために勝つ。あるいは、馬が可愛いから金を積む。それだけの話じゃ。……よし、じい! 次のレースは、あの神鳴(カミナリ)という馬を買い占めるぞ! 天才騎手の御子柴烈風を乗せれば最強コンボじゃ!なに、太子が足りぬ? ならば、わらわの秘蔵のコレクションを売却してでも、札束の力を見せつけてやるのじゃ!」不労所得至上主義のニート姫による、既存のギャンブル産業を大混乱に陥れるハックコメディ。聖徳太子の海を泳ぐ彼女の暴走は、まだ始まったばかり。

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