第2話 届かない距離
**水が滴る音と、自分の呼吸だけが響く空間。
さっきまでの混乱が嘘のような、異様な静けさだった。
「……っ!」
その沈黙を破るように、遠くから人の声が聞こえた。
「誰かいないのかー!」「ここに人がいるぞー!」
彼は思わず顔を上げた。
音の方向を探る。崖のくぼみから少しだけ体を乗り出し、周囲を見渡す。
(声……?)
確かに人間の声だった。叫び声ではない。
むしろ“助けを求める声”にも聞こえた。
どうやら、崖の上ではなく、湖のどこか、岸の端の方からのようだった。
直接姿は見えないが、水音の響きと声の角度から、湖の端に複数人がいるようだった。
(俺と同じように……落ちて、助かったのか?)
声の内容は断片的にしか聞き取れないが、男の声も女の声も混じっている。
数人、いや……5人以上はいるかもしれない。
一人が叫び、一人が返事をし、また別の声が何かを叫ぶ──
そのやりとりは混乱していたが、**“生きている人間が他にもいる”**という事実に、彼の胸が強く打たれた。
「おーい! 誰かいるのかー!」
再び聞こえる声。
今度は、はっきりと人間のものとわかる。
複数の方向から、重なるように届いてくる。
彼は迷わず叫んだ。
「ここにいる! 崖の下だ! 助けてくれ!」
返事はすぐに返ってきた。
「おい、今の聞いたか!? どこだ? 声の主!」
「こっち……! スマホの光、見えるか!?」
ポケットから取り出したスマートフォンのライトを最大にし、
崖の外側に向かってかざす。
暗い岩肌がぼんやりと照らし出される。
手がかすかに震える。
「──あっちだ! なんか光ってる!」
「マジか……人か!? ……大丈夫かー!?」
「生きてる! 落ちたけど、なんとか……!」
ようやく気づいてもらえた安堵感が、胸に染みる。
ただし、互いの姿ははっきりとは見えない。
岩陰や水飛沫、そしてこの穴の内部特有の薄暗さが視界を遮っている。
声をかけた男の声が、少し遠ざかった。
「おい、ロープとか持ってないか!? 引っ張り上げられそうなもん!」
「カバンの中に……いや、こっちも濡れてる! 紐状のもの探すぞ!」
「了解、手分けして探せ! 落ちるなよ!」
複数人が慌ただしく動き出す気配。
水音、足音、時折かけ合う声が、岩壁に反響して聞こえてくる。
彼はその場から動かず、ライトを握ったまま、
彼らが戻ってくるのをただ待つしかなかった。
「……だめだ、やっぱロープなんて都合よくねぇな」
「カバンの紐じゃ短すぎるし、水でボロボロだ……」
何人かが戻ってきて、声を潜めて話している。
その言葉は、はっきりと彼の耳にも届いた。
「……そっか。わかった、ありがとう……」
スマホのライトを落とすように下げて、呟いた。
胸に広がるのは、少しの絶望と、もっと大きな孤独。
(まあ……そうだよな。そんな簡単に助けられるわけ、ないか……)
そんな中、ひときわ元気な声が響いた。
「おーい! そこのあんた、名前は!? 生きててほんと良かったな!」
薄暗く顔は見えない。けど、その声はまっすぐだった。
悠翔はハッとし、声のする方を見上げた。
「……有馬。俺は、有馬 悠翔。」
数秒の沈黙。
そしてその向こうから、声が返ってくる。
「こっちは高山 樹! で“いつき”って呼んでくれ!」
「オレもヤバかったけど、なんとか泳いで岸まで行けた!」
笑い混じりのその声に、わずかに心が緩む。
「何も持ってないよな? 食料とか。そっち」
「……ない。スマホがギリ生きてるくらい」
「ちょっと待ってろ! 今なんか投げるから!」
そう言うと、岸のあたりで何かを探し始める気配がした。
数十秒後
「とりあえずこれか。そっち投げるぞー!」
という声が聞こえる
そのすぐ後風を切る音とともに、
小さな包みがくぼみの近くに飛んできた。
「うっ!」
悠翔が手を伸ばした瞬間、包みは岩に当たり、跳ねて崖下へ消えた。
その様子を見て、岸の方から大きな笑い声が聞こえてくる。
「悪い悪い! 次はもっとちゃんと狙うわ!」
「……ありがとう」
「ちょっと探してくるわ!待っててくれ」
投げ渡すという手段すら不安定な中で、それでも“分け与えよう”とする気持ちが、何より嬉しかった。
数十分後
「おい、まだ生きてるかー!」
再び響いた高山の声に、悠翔はわずかに笑みを浮かべる。
「……まだ死んでねぇよ!」
「はは、ナイス根性! 今度こそいくぞ、受け取れっ!」
再び、風を切る音。
今度はやや右寄りに飛んできたそれを、悠翔は片腕で掴みにいく──
「っぐ……!」
だが、指先をかすめたそれは、壁に当たって跳ね返り、やはり崖下に吸い込まれた。
「くっそー、またか! 岩に跳ねるとは思わなかった!」
「お前、マジでノーコンだろ……」
「うるせー! 3度目の正直だ!」
そう言って、また何かを探しているらしい音が響いた。
数十秒の沈黙。
そして──
「次のやつは、軽いけど袋状になってる。うまく引っかかれ!」
投げられたそれは、風に少し煽られながらも、
慎重に放たれた分、速度は控えめだった。
「──よしっ……!」
悠翔の手がそれを捉える。
ぎゅっと握り締めた瞬間、手のひらの感触が異常に温かく思えた。
「……受け取った」
「ナイスキャッチ! オレ、ちょっと感動してるわ」
袋の中には、パンのようなものが潰れかけで入っていた。
包装は水に濡れているが、中身はギリギリ無事。
咄嗟に破り、一口かじる。
──乾いた、小麦の味。
決して美味くはないが、今の彼には十分すぎた。
「ありがとな……樹」
「礼はいいから、まず腹満たせよ。オレはまた探してみる。誰か別のやつの分もな」
その言葉の軽さと、行動の重さが、不思議な信頼感を生んだ。
悠翔はパンを握ったまま、岩壁に体を預ける。
さっきまでの虚脱感が、少しだけ後退していた。
パンを食べ終えたころ、再び上から声が降ってきた。
「おーい、まだ元気か、悠翔!」
「おう、生きてるぞ。……マジで、助かった。ありがとな」
「ははっ、礼はいいって。あと、もうちょいマシなのも見つけたぞ!いくぞ!」
ビニール袋のようなものが、またしてもヒュッと飛んできた。
悠翔は身構え、今度はしっかりと両手で受け止めた。
中には、チョコバーのような携帯食、そして半分濡れた500mlのペットボトル。
ラベルはほとんど剥がれかけていたが、水であることは分かった。
「おお……まじで救われる……」
「そっち、マジでなんもないのか?」
「いや、岩しかねえよ。あと、冷たさと孤独だけだ」
「こえーよ。そっち、幽霊とか出そうだな」
「お前それ、今言うかよ……」
「悪い悪い、まあでも……こっちもマジで気ぃ抜けねぇわ。地上と連絡取れねぇし、消防も自衛隊も来ねぇ」
「……やっぱ、そうか」
悠翔はふと、空を見上げた。
さっきまでぽっかり開いていたはずの“天井”──
つまり地上へと繋がる巨大な空洞は、
どこか“閉じかけている”ように見えた。
(……いや、気のせいか?)
目を凝らす。けれど雲のような、いや、霧のような影が、
ゆっくりと空を覆っているようにも見える。
「なあ、樹。……あの穴、ちょっと閉じてきてないか?」
「うん? ……ああ。言われてみれば……いやいや、あれ雲じゃねぇの?」
「……そうだといいけど」
朝、落下してきたときにも感じた“あの違和感”が、
またじわじわと胸に戻ってくる。
地震、崩落、巨大な穴、そしてこの不可解な沈黙。
──何よりも、地上から何一つ“反応”がないこと。
消防車のサイレンもなければ、ヘリの音もない。
誰かの声も、機械音も、爆発音すらも──まるでこの場所が切り取られたかのように、
静かだった。
「自衛隊も、消防も来ないって……こんなの、絶対おかしいよな」
「……ああ。てか、オレ、なんか夢見てんのかなって……時々思うわ」
会話が止まり、しばしの沈黙。
空はどんどん暗くなり、肌を撫でる風も冷たさを増していた。
それでも、二人の会話は確かにそこにあった。
“非現実”の中で、唯一“現実”を保ってくれる存在のように。
時間が経ち、夜が完全に落ちきると、くぼみに籠もる冷気が容赦なく悠翔を襲った。
湿った岩肌に背を預けていても、体の芯からじわじわと熱が奪われていく。
(……寒い)
膝を抱えるように丸まりながら、ふと上を見上げる。
あの天井──地上とのつながりは、完全に闇に飲まれていた。
昼間のように光が差すこともなく、ただ、濁った闇がそこに横たわっているだけ。
「……さみぃ……」
食料を口にしたことで空腹感はやや紛れていたが、それだけだった。
ひとりという状況が、静かに、しかし確実に精神を削っていく。
そのときだった。
「おーい! 集まるってさ! 一旦みんなで!」
樹の声が上から響いた。
どうやら他の生存者たちと情報共有でもするつもりらしい。
「お前はそのままいろよ、また戻ってくるから!」
「……わかった」
言葉を返したものの、悠翔の声はどこか弱かった。
(正直、取り残されてる気分だ……)
誰かの声が聞こえなくなるだけで、世界から切り離されたような感覚になる。
──数分、あるいは十分ほどの静寂。
時折聞こえる水の音と、自分の呼吸音だけがこの世界のすべてだった。
「……お待たせー!」
そんな閉塞した空間を破るように、明るく響く女性の声が崖上から届いた。
「おーい、悠翔ー! 生きてるー?」
「え……?」
不意に顔を上げると、樹の姿があり、その横に──
「よっ、はじめまして〜! 看護師やってまーす!って、声だけじゃなんだか怪しいか。三浦志保って言いまーす!」
手元のライトをパッと点けながら、軽快な口調で言ってくる。
「君の話、樹くんから聞いたよー。怪我してるって? 状態だけでも教えてくれない?」
「あ、ああ……その、いや、軽い擦り傷くらいで……特に問題は……」
「それなら安心。無理しないでねー、下に降りられないのがもどかしいなあ」
「なっ……なんか、勢いがすごいな……」
「でしょ? でも元気がないとやってられないの、こういう時は。……なーんて、ちょっと強がってるかもだけど」
「この調子だよ、三浦さんは。なんか……助かるよな、こういう時」
樹がにやりと笑う。
どこか、空気が柔らかくなる。
3人でくだらない話をし始めたころだった。
崖上の奥──遠くの方から、甲高い叫び声が響いた。
「きゃあああああっ!!」
三浦がピタリと口を閉じ、樹も立ち上がる。
「……っ、誰かの声だ。悠翔、ちょっと待ってて!」
「あ、ああ!」
ライトを持った樹が走り出す。
三浦も迷わずその後を追う。
取り残されたくぼみに、再び、静寂が戻った──。




