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(第1部完結)信長公斬魔録~転生帰蝶ちゃんは急にダークファンタジー死にゲーみたいになった戦国日本をナーロッパにしたい~  作者: simopo
幕間「織田文化出版社刊 「信長公斬魔録の解説」より抜粋」

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幕間 コラム『南山献上』──征魔体制の対外的開幕

土曜日なので幕間をもう一話。


別に読まなくても大丈夫ではあります。

フレーバーテキストですね。

一、天文十八年という年

 天文十八年(1549年)は、我が国の歴史において最も暗い年の一つに数えられる。

 関東は既に魔境に呑まれ、武蔵以東は人の住まう地ではなくなっていた。出羽、下総、信濃、飛騨にも魔境が広がり、各地の大名は領国の防衛に追われて手一杯。前年の天文十七年には京が魔物に蹂躙されて魔境化し、朝廷は大和の平城京跡に仮御所を築いてかろうじて命脈を保っていた。

 帝・後奈良天皇は、京を追われた身であった。即位以来三十年近く、朝廷財政の困窮ゆえに即位の礼すらまともに挙げられず、自筆の般若心経を諸国に下賜して疫病平癒を祈ることしかできなかった帝が、今度は鬼の害に苛まれる民を案じて夜も眠れぬ日々を過ごしておられた。

 この絶望的な状況下において、しかし一筋の光明が東海の地から差し込んだ。それが、本論で扱う「三河魔境討伐」と、それに続く「南山献上」の出来事である。


二、三河魔境討伐

 天文十八年八月から十一月にかけて、織田弾正忠家(尾張)と今川治部大輔家(駿河・遠江)は両家共同で三河魔境の討伐に当たった。

 三河魔境は、熱田迷宮噴出の余波として三河国岡崎以東に広がっていた魔物の支配領域である。今川家が単独で抑えてきたが、近年になって魔物側に変化が生じ、従来は確認されていなかった「将鬼(しょうき)」と呼ぶべき巨大な指揮個体が発見された。これは織田家の戦力と、後に明らかとなる織田家固有の対 魔技術なくしては討伐困難と判断され、両家共同作戦が成立する。

 作戦は概ね順調に進み、十一月十九日、刈谷郊の桶狭間において嵐の最中に発生した将鬼襲撃事件の中で、織田三郎信長が将鬼の首を討ち取り、討伐戦は完了した。

 作戦の成功は、当時の日本における初めての「魔境討伐の成就」として記録されるべき出来事であった。関東以来五年、各地の大名はひたすら魔物に押されるばかりであり、魔境を一つでも消滅させた事例は皆無であったからである。


三、桶狭間の太刀交換

 十一月二十二日、討伐の祝勝と同盟の確認を兼ねて、織田三郎信長と今川治部大輔義元は大高城にて対面した。この場で行われたのが、後に「桶狭間の太刀交換」と呼ばれる儀礼である。

 当主同士の太刀交換は同盟強化の儀礼として戦国期に例を見るが、この時の交換は極めて異例であった。義元から信長に贈られたのは、駿河の名工が鍛えた一振りの太刀であった。これは儀礼として通例である。

 一方、信長から義元に献じられたのは、十一月十九日に将鬼の首を落とした際に折損した、信長の大太刀その物だったのである。


 通常、戦闘で折れた刀をそのまま儀礼の場に持ち出すことはあり得ない。これは儀礼上の重大な無礼であり、本来であれば修復を施すか、新たな刀を用意するのが筋であった。にもかかわらず、信長はそれをそのまま義元に献じ、義元はそれを押し戴いて受けた。

 この「異例の交換」がなぜ成立したのかについて、長らく後世の論者は解釈に苦しんできた。武家儀礼の常識では説明がつかないからである。

 近年公開された今川家伝来の書簡群により、この交換が事前に綿密に打ち合わされた政治的演出であったことが明らかとなっている(後述)。


四、南山献上

 太刀交換から十日後の十二月初頭、太原雪斎が今川家の名代として大和の仮御所に参上した。

 雪斎の上洛(より正確には「上山」)は、寿桂尼の仲介によって実現したものである。寿桂尼は今川氏親の正室にして義元の生母、当時すでに六十を超える高齢ながら、京の公家衆と長年にわたる人脈を保ち続けていた稀代の女性当主であった。彼女は山科言継を介して仮御所への奏上の道を整え、雪斎を送り出した。


 雪斎が大和の仮御所に献じたのは、以下の二品である。


  一、三河国に出でし将鬼の首級。塩に漬けて駿河より運びしもの。

  一、これを討ち取りし織田三郎信長の大太刀。柄より三尺ほどの所にて折損したるもの。


 仮御所は、平城京跡に急造された粗末な殿舎であった。後奈良天皇は、京を追われて以来、感情を表に出されることがなかったと伝わる。雪斎の奏上を聞かれた帝は、しばし黙してこれを聴き、やがて将鬼の首級と折れた大太刀を御目近く召し寄せ、しずかに涙を流された。


 『仮御所日記』(山科言継筆)には、この時の様子が次のように記されている。


   十二月二日、今川家名代太原雪斎、三河魔境討伐の戦勝を奏上す。

   将鬼の首級ならびに折損の大太刀を御覧に入る。

   主上、これを御覧じて落涙、しばし御言葉なし。

   やがて御自ら仰せらる。「これなる鬼神、まことに三河の童子なり。これを討ちたる者の名を、

  刀に残せ。今日より、この刀を童子切信長と号せ」

   諸臣畏れ入り、主上の宸断を承る。当世稀なる御直言なり。


 帝が刀の名を直々に宣下されることは、当時の朝廷儀礼の慣例から外れる。命名はしかるべき儀式を経て、関白あるいは陰陽寮を通じて行われるのが通例であった。

 にもかかわらず後奈良天皇は、謁見の場でただちに直言された。これは儀礼の逸脱というよりも、むしろ「儀礼を逸脱せしめるほどの感激」を意味する。京を追われ、民を救えぬ無力さに苦しんでこられた帝が、初めて手にした明確な戦勝報告──それも、「鬼神を討ち果たした」という、神話の英雄譚に等しい報告──を前にしてのことであった。


 将鬼は「三河童子」と認定され、これが我が国における朝廷公認の魔物名称の第一号となった。後の征魔体制下において、討伐すべき魔物には朝廷が名を与えるという慣行が確立するが、その制度的起源はこの天文十八年十二月の宣下に遡る。

 折れた大太刀は「童子切信長」と命名された。源頼光の佩刀「童子切安綱」が酒呑童子を斬ったとの伝承を踏まえ、これに次ぐ鬼神討伐の刀として位置づけられたのである。

 これらの宣下を受けて、織田三郎信長の名は一夜にして全国に知れ渡ることとなった。それまで尾張の一国人領主の嫡男に過ぎなかった信長が、「鬼神を討ち果たした朝廷公認の英雄」へと一気に格上げされたのである。

 これこそが、後の織田政権による征魔体制確立の出発点として、史家の一致して認めるところとなっている。


───────────────

五、今川家書簡群が示す「献上」の真相

 以上が長らく定説とされてきた経緯である。しかし、禮和18年に博物館にて公開された今川家伝来の書簡群により、この一連の出来事が今川家側の極めて入念な政治演出であったことが明らかとなった。

 今川家は、織田幕府成立以後も大政奉還に至るまで政権中枢を担い続け、明治維新後は東海財閥の中核として君臨した家である。その家蔵文書は長らく一族のみが閲覧を許されていたが、『信長公斬魔録』の一般公開に呼応する形で、関連史料として段階的に公開が進められた。今般の書簡群はその最終段階に当たる。


 書簡群のうち最も重要なのは、太原雪斎から義元に宛てた天文十八年十一月二十日付の書簡である。これは三河本陣にて将鬼討伐の翌日、太刀交換の二日前に書かれた。要旨は次のとおりである。


   織田三郎の若さは、今や一個の資産たり。

   その武勇に朝廷の権威を冠せしむるは、織田家のためにあらず、我ら今川のためなり。

   折刀を所望されよ。修復させてはならぬ。折れたるままにて朝廷に献ずべし。

   折れたる刀は、戦の生々しさを御所に伝う。仮御所にて窮乏したまう主上の御感を引き出すには、

  これに勝るものなし。

   名は主上の御口より直々に下りるべし。関白を経ては効が薄し。

   織田三郎の名を主上の御口より発せしむれば、織田家は今川の補佐なくしては立ち行かぬ。

   これすなわち我らの永代の益なり。


 驚くべき計算高さである。雪斎は、信長の若さと武勇を「資産」と冷徹に評価し、それに朝廷の権威を被せることで、織田家を今川家の想定する枠組みの中に取り込もうとしていた。

 折れた大太刀をそのまま受け取り、修復させずに献上するという「異例の儀礼」は、後奈良天皇の感激を最大化するための、極めて計算された演出であった。雪斎は帝の御性格と仮御所の窮状を熟知しており、その上で「窮乏なさる帝に、戦の生々しさを直接お見せすれば、必ず御感激あらん」と読んでいたのである。

 そして帝の直言を引き出すこと──通常の儀礼ルートを経ない、生の御口から発せられる名──こそが、織田家を朝廷の権威で「装飾」し、しかしその装飾の手綱を今川家が握り続けるという、長期的な政治構図の起点であった。


 義元から雪斎への返書(同月二十一日付)には、簡潔に次の一文がある。


   良き謀なり。三郎には、儂より所望すべし。彼の者、儂が乞えば断り得ぬ性なり。


 信長の性格すら計算に入れた、冷徹な見立てである。

 これらの書簡は、義元と雪斎が単に「魔境に翻弄され織田に泣きついた大名」ではなく、戦国屈指の戦略家であったことを示すと同時に、その後の今川家四百年の繁栄の礎が、この天文十八年の(はかりごと)に既に置かれていたことを示すものでもある。

 織田家は朝廷の権威を得て天下に名を轟かせた。今川家はその織田家の補佐者という地位を確立し、織田政権下で最高位の譜代として君臨し続けた。両家の関係性の原型は、まさにこの「南山献上」において鋳造されたのである。


 余談だが、通常、刀の銘は作刀者の名が入るのが通例である。

 しかしこの大太刀は熱田迷宮より産出したものであったため、使用者の名が入ったとされている。

 ――いくら帝が感激したとはいえそこまで慣例を外した命名をするだろうか?

 このことから、事前の根回しがあった事を疑う声はある種の陰謀論として囁かれ続けてきた。

 これらの文書により、これらが単なる陰謀論ではない事が裏付けられた形となる。


───────────────

六、童子切信長 その後

 命名の儀の後、童子切信長は一度織田家に下げ渡された。折れた状態のまま神器化することも検討されたが、信長自身が「使えてこその刀」と強く望み、修復が決定された。

 修復を担ったのは、飛騨山鍛冶衆である。当時の鍛冶技術では折れた大太刀の完全な修復はほぼ不可能とされていたが、彼らの手によって元の姿を取り戻し、しかも将鬼の血を吸った刀身は以前にも増して鋭利であったと伝わる。

 修復された童子切信長は、再建された熱田神宮の宝物殿に奉納され、現在も同社に御神宝として伝わる。年に一度、鎮魔祭の前夜に行われる蝶屋敷での非公開神事において、当代の織田家当主が刀を捧げ持ち、家守(イナリ家守)に拝礼する慣わしが続いている。


七、総括 「南山献上」の歴史的意義

 征魔体制の起源を語るとき、史家は二つの出来事を並べて挙げる。

 一つは、本論で扱った天文十八年の「南山献上」。これは征魔体制の対外的・公的な開幕である。朝廷の権威が魔物討伐の上に冠せられ、討伐者に名と栄誉が与えられる枠組みがここに成立した。

 もう一つは、別論で扱う「神告巻」が記す内政面での革新──熱田迷宮の体系的活用、女性兵力化、魔導研究──である。これは征魔体制の内政的・私的な基盤であり、後の織田政権の社会構造そのものを規定した。

 公と私、外と内、表と裏。この二つが噛み合うことで、織田弾正忠家は魔境に呑まれゆく日本を救う唯一の勢力として歴史の表舞台に躍り出ることになる。そしてその両輪を回した者たちの中には、後世に名を残した者と、ほとんど名を残さなかった者がいた。

 天文十八年は、その分岐の年でもあったのである。



――織田文化出版社刊『信長公斬魔録を読む』 より


こういう歴史書風の記載が好きでして。


最後まで長々と失礼しました。

次回から第2部を開始します。いつものノリです。

ご意見ご感想などお待ちしてます。

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