表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

226/229

博之四十五歳一月。託児所に瓦版を何枚か置くと読む人が現れる。せっかくならと寺子屋の人にお駄賃と飯振る舞いで不定期で来てくれないかと声かけてみる

年が明けても、博之の一日はそう大きくは変わらなかった。朝の冷えがまだ残るうちに

細路地へ出て、豚汁屋の鍋をのぞき、親子丼屋の出汁の具合を見て、角煮丼屋の仕込み場を

ひとまわりする。店長の顔色、客足、米の減り、炭の残り。気になるところがあれば

二言三言だけ口を出し、あとは任せる。全部を抱え込めば回らぬ規模になって久しい。

見て、覚えて、必要なところだけ手を入れる。それが今の博之の仕事だった。

 昼を過ぎる頃になると、託児所へ戻る。

飯を食うための卓が並び、昼時には汁をすすりながら世間話をする者がいる。

奥には畳を入れた一角があり、赤子や幼い子らがごろごろし、時に泣き、時に笑い、

時に誰かの草履を隠して騒ぎになる。そのさらに奥では、算盤を弾き、子供が親に言われて

触ったり、弁当売りの娘が売り上げの計算をしたり、文字の練習をしている。

静かなようで騒がしく、騒がしいようで妙に落ち着く、雑多な場所になっていた。

 その日も、高博が畳の上で木切れを並べ、お高がそれを横目で見ながら赤子をあやしていた。

博之は帳面を閉じ、ふと、脇に寄せていた紙の束へ目をやった。火事の話だの、

見世物の評判だの、どこぞの騒ぎだの、手に入れた瓦版が何枚かある。

「……これ、置いといたら、誰か読むかもしれんな」

 誰に言うでもなく呟きながら、博之はそれを卓の端に重ねて置いた。どうせ昼のあと、

手持ち無沙汰な奴はおる。字が読める者なら眺めるだろうし、読めぬ者がいれば、

その辺の誰かが声に出すだろう。深く考えた思いつきではなかった。

 ところが、それが意外と悪くなかった。

 取り合いになるほどではない。だが、汁を飲み終えた職人が一枚ひろげ、

隣からのぞきこむ。弁当を売りに来た娘が、字の読める女に「そこ何て書いてあるん」と聞く。

暇つぶしに寄った老人が、聞こえよがしに内容を読み上げ、いつのまにか周りに三人四人と人が立つ。

タダで瓦版が読める、というだけで、ちょこちょこと人が寄るのだ。

「へえ……こんなもんにも、ちゃんと需要あるんやな」

 博之は帳場の脇からその様子を見て、小さく感心した。飯を食わせるだけでも人は来る。

だが、そこに少しでも“眺めるもの”“聞くもの”があると、人は思ったより長く留まる。

そして留まれば、話が落ちる。どこそこで店を畳む者がいる、誰それの倅が働き口を探している、

あそこの米問屋は少し苦しいらしい――そんな話が、汁の湯気と一緒に流れてくる。

 もっとも、字が読める者ばかりではない。読める者が読めぬ者へ聞かせる、

それでも十分ではあったが、博之はある日、お高に言った。

「どうせなら、週に一回くらい、誰か呼んでみるか」

「誰を?」

「字を教えられるような者や。瓦版が読める、本が読める、その程度でええ。

学問をみっちり仕込むんやのうて、暮らしの助けになるくらいのやつや」

 おたかは赤子の背を撫でながら、ふむと考えた。

「子どもの手伝いにもなるしな」

「せや。高博にも悪ないし、店の者の子でも、近所の子でも、来たければ来たらええ。

金をきっちり取るほどのもんでもない。小遣いを少し渡して、うちで飯でも食うて帰ってください、

くらいで始めたらええ」

 縛るつもりはない。立派な寺子屋を開く気もない。ただ、読み書きの入口みたいなものが、

この雑多な託児所の隅に一つ増えれば、それはそれで面白い。そんな軽さだった。

 試しに声をかけてみると、案外、若い先生がちょこちょこ顔を出すようになった。

寺子屋を始めたばかりで名を売りたい者、学はあるが場数を踏みたい者、町の空気を知りたい者。

そういう者たちにとっても、託児所は悪くない場所らしかった。

「ここで良かったら、たまに来てください」

 お高がそう言うと、若い先生は案外うれしそうに頭を下げた。飯が出る。人の出入りがある。

子どももいる。親もいる。話もある。教える場としては、たしかに生きた場所なのだろう。

 そうして託児所は、また少し形を変えていった。飯を食う場所であり、子どもが騒ぐ場所であり、

商いの相談をする場所であり、瓦版を読む場所であり、字を覚える入口にもなる。

何屋なのかと聞かれれば、博之もよくわからん。

けれど、それでよかった。

 人が寄り、腹を満たし、少し賢くなり、少し話を持ち帰る。そういう雑多さごと抱え込める

場所の方が、この先は強いのかもしれないと、博之は算盤を指で弾きながら思った。

博之の商いと暮らしが、そのまま形を変えながら居つく場所になりつつあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ