第97話「笠井亮」
『お前を……信じてるぞ』
父が最後に残した、その言葉。
笠井は風塵鴉鎚を握り締め、三つ眼の黒鴉を睨み据えた。
「くッ!!」
風塵鴉鎚を振るう。
ブンッ!!
だが、黒鴉は翼を僅かに傾けただけでかわした。
そのまま頭上を通過する。
斬ッ!!
「ぐッ……!」
漆黒の翼が肩を斬り裂いた。
「はあ……はあ……」
風塵鴉鎚を支えに、どうにか身体を起こす。
黒鴉は再び上空を旋回した。
いくら風塵鴉鎚を振るおうとも、当たらなければ意味がない。
「…………」
それでも、笠井は立ち上がる。
黒鴉が狙っているのは、宿主の命ではない。
最後まで残った意志をへし折り、笠井亮という人間そのものを内側から呑み込むことだった。
◇◇◇
「あれ、本当に大丈夫なの?」
校舎の屋上から、朱天が笠井の戦いを見下ろしていた。
「下手したら、彼、死んじゃうよ」
「ここから先は、成り行きに任せるほかありません」
隣の男は、ふと空を見上げる。
ピシッ。
漆黒の空に、細い亀裂が走った。
「それに――“お客”が、そろそろ来そうだ」
「じゃあ、後は任せるね」
朱天はそのまま屋上から身を投げ、漆黒の闇へ消えていった。
一人残った男は、空に走る亀裂を見上げながら薄く笑った。
◇◇◇
斬ッ!!
「ぐッ……!!」
漆黒の翼が、再び笠井の身体を刻む。
何度傷つけられても、何度地へ伏せても――笠井は再び立ち上がった。
「はあ……はあ……」
だが、もう時間は残されていない。
少しでも気を抜けば、そのまま二度と目を覚ませなくなる。
(次で……)
風塵鴉鎚を握り締める。
(決める)
「うおおおおおおおッ!!」
力の限り、風塵鴉鎚を振るった。
大振り。
胴体が完全に無防備となる。
「――ッ!」
黒鴉が翼を畳み、一気に急降下した。
「くッ!?」
慌てて風塵鴉鎚を引き戻す。
だが、遅い。
ガシッ!!
「ぐあッ!!」
鋭い両爪が、笠井の腹部へ深く食い込んだ。
「ぐ……う……!」
身体が大きく仰け反る。
完全に決着がついた。
そう思われた――その瞬間。
ガシッ!!
「――!!」
三つの眼が、大きく見開かれた。
笠井の両手が、黒鴉の脚を掴んでいる。
「やっぱ……」
血に濡れた口元が吊り上がった。
「オメエはそうするよなああああ!!」
隙を作ったのではない。
作らせた。
自分の身体へ爪が食い込むことすら覚悟の上で、黒鴉を絶対に逃げられない距離まで誘い込んだのだ。
恐怖しないわけではない。
迷わないわけでもない。
それでも、僅かでも活路が残されているなら――そこへ飛び込む。
親友から向けられた殺意。
父の死。
自らの命さえ脅かされる極限。
そのすべてを経験してなお、笠井の頭にはまだ冷静さが残っていた。
それが、笠井亮という少年が生まれながらに持っていたものだった。
「うおおおおおおおッ!!」
黒鴉の脚を離さない。
片手で風塵鴉鎚を振り上げる。
「とっとと――」
ガンッ!!
風塵鴉鎚が、黒鴉の頭部へ叩き込まれた。
「大人しくしやがれ……!!」
「――――!!」
黒鴉の身体が大きく揺らぐ。
漆黒の羽毛が、一枚、また一枚と風へ溶けていった。
「…………」
三つの眼が、最後まで笠井を見つめている。
やがて、その姿は完全に黒き風へと変わり――笠井の身体へ吸い込まれるように戻っていった。
「はあ……はあ……」
終わった。
本当にようやく、戦いが終わった。
だが、もうこの崩壊する世界から抜け出す力など残されていない。
風塵鴉鎚を握ったまま、身体がゆっくりと沈んでいく。
周囲を満たすのは、底の見えない漆黒。
(きっと……)
江口を傷つけた。
父も死んだ。
自分の中にいた悪鬼は、この世界すら壊しかけた。
(これが……俺への罰なんだろうな)
身体から力が抜けていく。
(なら……もう)
何も考えたくなかった。
笠井は、そっと目を閉じる。
(このまま……闇に呑まれるのも……悪くねえか……)
「いや」
「――ッ!?」
「こんなところで諦めちゃ駄目だよ」
突然、誰かの腕が笠井の身体を抱き上げた。
「な……!?」
身体が宙を舞う。
次に気付いた時には、崩れゆく校舎の屋上へ降ろされていた。
「…………」
霞む視界の中、自分を助けた人物を見上げる。
「……さ、西条先生?」
そこにいたのは――顧問の西条だった。
「でも……なんで先生が……」
確か、西条はハエ人間へ変貌していた。
それなのに、目の前にいる西条は人間の姿をしている。
「いや~、助かったよ」
西条は、いつものように笑った。
「笠井が江口を抑えてくれたおかげで、僕も元へ戻ることができた」
「…………」
「まったく、江口には困ったものだよ。まさか、あんなことを――」
「…………」
笠井はじっと、西条の顔を見ていた。
「ん?」
声。
顔。
体格。
何かがおかしい。
今まで何の疑問も抱かなかった。
それなのに――。
「あんた……」
「……?」
「誰だ?」
西条の言葉が止まった。
「……え?」
「だ、誰って……君たちの顧問じゃないか」
「違う」
即座に否定する。
「俺たちの顧問の西条先生は――」
その瞬間。
頭の中で何かが弾けた。
「女性だったはずだろうが!!」
「…………」
目の前にいるのは、どう見ても男。
声も、身体も、顔立ちも、自分が知っている顧問とはまるで違う。
「なんで……」
今さら、その違いを認識する。
「なんで今まで、気付かなかった……?」
ずっと、当たり前のようにこの男を「西条先生」だと思っていた。
「てめえ……いったい何者だ!?」
「そうカリカリしないでよ」
男は悪びれる様子もなく笑った。
「それより――」
空を指差す。
「“お客さん”の到着だ」
ピシッ――。
黒く染まった空に走っていた亀裂が、一気に広がった。
バキバキバキッ!!
巨大なガラスが砕けるように、空そのものが割れていく。
その裂け目から――二つの影が舞い降りた。
◇◇◇
「徳井くんは、他の子たちを!」
「分かりました!」
金色の髪を靡かせながら、一人の女性が屋上を睨む。
眼鏡を掛けた男――徳井太一は、周囲へ視線を走らせた。
「救助班も入ってきています!」
「なら任せるわ!」
「南さんは!?」
「あの子を!!」
南沙織が両拳を握り締める。
銀と金――二つのメリケンサックが顕現した。
次の瞬間、その姿が消えた。
◇◇◇
閃光が屋上へ降り注いだ。
ドゴオオオオオッ!!
「なッ!?」
眩い光の柱が校舎の一角を豪快に吹き飛ばす。
「おおっと……随分と乱暴ですね?」
男がひらりと身をかわした。
だが、その傍らにいたはずの笠井は――すでに消えている。
「大丈夫?」
「……え?」
気付けば、笠井は見知らぬ女性に抱えられていた。
女性は男から距離を取ると、笠井をゆっくりと床へ降ろした。
「あら」
両拳を構える。
「あなたのような相手に出し惜しみをするなんて、失礼でしょう?」
眼差しが鋭くなる。
「ねえ――獣魔侵将さん」
「…………」
男の口元が――にっと吊り上がった。
「ほう……気付いていましたか」
「これだけ邪気を撒き散らしておいて、随分と白々しいわね」
軽口を叩きながらも、南は一切構えを崩さない。
「できれば、そのまま帰ってもらえると助かるのだけれど」
「…………」
男は微笑んだまま、南の背後にいる笠井へ視線を向ける。
すでに少年は限界を越えている。
ここで戦闘になれば、巻き込まれただけでも命を落としかねない。
「……まあ」
やがて男が両手を上げた。
「今回は、こちらが引きましょう」
「随分と素直なのね」
「こうして挟み撃ちにされては、たまったものじゃない」
「おや」
背後から声が聞こえた。
「バレていましたか」
いつの間にか、徳井が立っている。
「…………」
前後を二人の開現師に挟まれてなお、男から焦りは感じられない。
「では――今回は、ここまでということで」
一瞬だけ、男の視線が笠井へ向く。
「後のことは――よろしくお願いしますよ」
「……?」
「待ちなさい!」
南が踏み出す。
だが、男の身体を濃密な黒い瘴気が包み込んだ。
「くッ……!」
視界が遮られる。
瘴気が晴れた時には――その姿はすでに消えていた。
「……行ったみたいですね」
「ええ」
南は短く答えた。
「それより、徳井くん。彼を」
「分かりました」
徳井が崩れ落ちた笠井を抱き起こす。
「……これは」
全身を覆う無数の傷。
そして、右足首から先を失った深い傷。
「顕現――奉奠香呂」
その手に香炉が現れ、透明な雫が生まれる。
徳井は慎重に、笠井の口へ流し込んだ。
「……う、うう……」
身体を覆っていた傷が、少しずつ塞がり始める。
「これで、ひとまずは大丈夫でしょう」
「……そう」
だが、南の視線は笠井ではなく――崩れ落ちていく鬼夢の底へ向けられていた。
「……南さん」
「分かってはいるのよ」
南は目を伏せる。
「本当にもう少しだけ早く来られていたらって」
小さく息を吐いた。
「そう思うのは、甘いかしら」
「…………」
徳井には答えられなかった。
敵の狙いも、この鬼夢を外から遮断していた理由も、最後に残した言葉の意味も分からない。
ただ――。
正彦を救うことはできなかった。
その最期を、息子である少年に背負わせてしまった。
「……行きましょう」
「はい」
徳井は眠る笠井を抱え直す。
二人も崩壊する鬼夢から離脱した。
やがて、誰もいなくなった校舎は完全に崩れ落ちる。
床も。
壁も。
天井も。
すべてが漆黒の闇へ沈み――最後には何一つ残らなかった。
まるで最初から、そんな世界など存在していなかったかのように。
◇◇◇
それから――。
笠井亮が再び意識を取り戻した時には、合宿からすでに数週間が経過していた。
搬送されていたのは、菩提府と呼ばれる国際機関が運営する病院。
夢の中で失ったはずの右足も、現実では何事もなかったように残っていた。
全身に刻まれていた傷も消えている。
だが――あの夜に刻まれた痛みまで、消えたわけではなかった。
治療。
リハビリ。
そして、組織から派遣された職員による事情聴取。
やがて、一人で日常生活を送れるまでには回復した。
その間に、いくつもの事実を知らされた。
本来、鬼夢から醒めた者には、その中で起きた出来事の記憶がほとんど残らない。
にもかかわらず、笠井はあの夜のすべてを鮮明に覚えていた。
それは、開現師としての“素質”がある証なのだという。
江口をはじめとする水泳部員たちも無事だった。
それぞれ日常へ戻っていったが――誰一人として、あの夜のことを覚えてはいなかった。
「…………」
江口も。
あの殴り合いも。
最後に交わした言葉も。
覚えているのは、笠井だけだった。
事件は表向き、猛暑下での練習による集団熱中症として処理された。
そして――もう一つ。
本物の顧問だった西条先生は、合宿以前に自宅で死亡していた。
公に発表された死因は、心筋梗塞。
(あの男は……)
なぜ西条の名を名乗っていたのか。
なぜ、自分たちは何の疑問も抱かなかったのか。
いったいいつから、すべてが仕組まれていたのか。
答えは、まだ分からない。
そして父・正彦の葬儀もまた、笠井が眠っている間にすでに執り行われていた。
自分の目の前で父は死んだ。
頭では分かっている。
それなのに、その実感だけはなかなか湧いてこなかった。
◇◇◇
退院後。
笠井は父の墓を訪れた。
『立派な人だった』
そう言いながら、叔母夫婦は泣いていた。
「…………」
墓石を見つめる。
(でも……)
叔母たちは知らない。
父がどうして死んだのか。
その本当の理由を。
墓参りを終えた後、笠井は墓地のそばにあるベンチへ腰掛けた。
涙は出なかった。
悲しくないわけではない。
ただ――胸の中に空いた穴が、あまりにも大きすぎた。
「…………」
無意識に、拳へ力がこもる。
「お隣、よろしい?」
「……?」
顔を上げる。
いつの間にか、一人の金髪の女性が立っていた。
「あ……あんたは……」
あの鬼夢で、自分を救い出した女性。
「どうぞ」
「ありがとう」
女性は笠井から少し離れた場所へ腰掛ける。
「改めまして。私は南沙織。もう聞いているかもしれないけど、私も菩提府の職員よ」
「……笠井亮、です」
「ええ。知ってるわ」
「…………」
それきり、南は何も言わない。
しばらく沈黙が続いた。
「あの……」
「何?」
「何か言いに来たんじゃないんですか?」
「まあ、それなりにはあるのだけれど……」
南が笠井を見る。
「その前に、あなたから何か聞きたいことはないの?」
「俺から……?」
「ええ」
「…………」
聞きたいことなら、いくらでもあった。
鬼夢とは何なのか。
悪鬼とは何なのか。
父は、どんな仕事をしていたのか。
あの男は、いったい何者なのか。
けれど――今、一番聞きたいことは別にあった。
「……いろいろ聞きたいことはあるけど」
自分の掌を見る。
「それよりも――」
顔を上げた。
「俺にも……あんたみたいな力を持てるのか?」
「…………」
南はしばらく笠井を見つめる。
「さあ。それは、あなた次第だと思うわ」
「…………」
「笠井亮くん」
笠井が拳を握る。
「おやじ……」
一度、言葉が止まった。
「……父さんが死んだ時」
「…………」
「俺……悲しいって気持ちより先に、もっと強く思ったことがあるんだ」
「何かしら?」
笠井は南の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「自分の弱さに対する――」
迷いはない。
「“怒り”だ」
「…………」
「俺がもっと強かったら……父さんは死ななかったかもしれない」
拳が震える。
「あいつを……止められたかもしれない」
笠井は立ち上がり、南と正面から向き合った。
「頼む!!」
深く頭を下げる。
「俺に――あいつを倒す方法を! 力を教えてくれ!!」
「…………」
「あの野郎を倒さない限り――」
顔を上げた。
「前へ進めない!!」
「…………」
南は至って冷静だった。
「私は――」
「……?」
「あなたの復讐に付き合うつもりはないわ」
「――ッ」
それだけ告げると、南はベンチから立ち上がり、そのまま笠井へ背を向けた。
「ま、待ってくれ!!」
歩みは止まらない。
「頼む!! あんたの力を貸してくれ!!」
「…………」
返事はない。
「くッ……!」
笠井は歯を食いしばった。
そして――地面へ両膝をつく。
両手をつき、頭を下げた。
「俺を……」
声が震える。
「俺を――見捨てないでくれ!!」
「…………」
南の足が止まった。
しばらく、その背中は動かなかった。
「はあ……」
やがて、小さな溜息が聞こえる。
「私も……まだまだね」
「……?」
南が振り返った。
笠井のもとへ戻り、その肩へ手を置く。
「ごめんなさい」
「……え?」
「私は最初から――あなたを、私のもとへ誘いに来たのよ」
「…………!」
「笠井くん。あなたが望むなら――」
肩に置かれた手へ、僅かに力がこもる。
「私があなたを、開現師として導くわ」
「…………!」
「でも、一つだけ約束してちょうだい」
「……?」
南の表情が引き締まる。
「あなたがこれから手にする力を――ただの復讐の道具にはしないこと」
「…………」
笠井はすぐには答えられなかった。
復讐したい。
あの男を倒したい。
その気持ちは、今も消えていない。
だが――その時。
『お前を……信じてるぞ』
父が最後に残した言葉が、胸の奥に蘇った。
「…………」
あの言葉に、どんな意味が込められていたのか。
今の笠井には、まだ分からない。
それでも――父から託されたものを、ただ憎しみだけに変えてはいけない。
その意味を、これから先、自分で探していけばいい。
「…………」
笠井はゆっくりと立ち上がった。
南を真っ直ぐに見つめる。
「はい!」
もう一度、深く頭を下げた。
「お願いします!!」
その瞬間――。
「…………?」
頬を、一筋の涙が伝った。
「……あれ?」
自分でも気付いていなかった。
もう一筋。
そして、また一筋。
父を失った時にも。
墓の前でも。
流れなかった涙が――今になって、止めどなく溢れてくる。
「…………」
笠井はそれを拭おうとはしなかった。
ただ、俯いた。
南も何も言わない。
ただ――その傍らに立っていた。
夕焼けに染まった空の下。
遠くから、ひぐらしの声が――静かに響いていた。




