第96話「黒鴉の目醒め」
渡り廊下を、漆黒の風が吹き抜ける。
「…………」
江口は動けなかった。
右足首から先を失い、全身も傷だらけ。
まともに立っていることさえ不可能なはずだ。
その気になれば、一息に殺せる。
少なくとも、江口はそう思っていた。
だが――。
「…………」
なぜか動けない。
胸中にもたげていたのは、目の前の少年に対する――恐怖。
「ハハッ!」
それを振り払うように、江口が嗤う。
「笑わせるな! お前になにが――」
瞬間、目の前から笠井の姿が消えた。
「――ッ!?」
漆黒の風に身体を押し出されるように、一気に間合いを詰めている。
「ふッ!!」
ドガッ!!
「ぴぎッ!?」
左足が江口の豚鼻を打ち抜いた。
大きく仰け反った身体。
「まだ話は終わってねえだろうがよ!!」
笠井は床へ垂れた、千切れかけの舌を掴む。
「ぎッ!?」
力任せに引き寄せ――。
バキッ!!
「ぺギャアアアアア!!」
その額を江口の顔面へ叩き込んだ。
「な、舐めんなよおおおおおお!!」
六本の腕の一本が、鋭い切っ先を笠井へ突き立てる。
だが――届かない。
周囲を渦巻く黒い風が、腕を押し返していた。
「な……!?」
「ふッ!!」
その隙に、笠井の拳が灰色の腹部へ突き刺さる。
「げへッ!?」
「もう一発!!」
ゴッ!!
「がッ!?」
続けざまの左拳が顎を跳ね上げた。
「…………」
離れた場所から見ていた正彦も、目を見開く。
(これほどの力を……)
だが、驚き以上に胸を占めたのは恐れだった。
(亮の内に潜む悪鬼が、表へ出始めている……)
鬼夢に囚われることで、人の内に潜む悪鬼の力が活性化することはある。
問題は――その凶暴性まで解き放たれてしまうことだ。
(今は江口くんという対象がいる。だが、もし彼がいなくなれば……)
嫌な予感がした。
◇◇◇
「ぐ……」
笠井の猛攻を受け続け、ついに江口の異形が床へ崩れ落ちた。
「はあ……はあ……」
それでも笠井は拳を下ろさない。
「よお?」
倒れた江口を見下ろす。
「これで終わりってわけじゃないだろ?」
「…………」
異形の身体が、大きく蠢いた。
その内側から――。
「ぐッ……」
一人の少年が這い出てくる。
「…………江口」
元の姿へ戻った江口だった。
全身傷だらけで、立ち上がるだけでも精一杯。
それでも――。
「ああ……!」
膝を震わせながら立ち上がる。
「まだ……やってやろうじゃねえか!!」
「…………」
笠井が笑った。
「上等だ」
二人は、もう一度拳を握る。
「おおおおおおッ!!」
「うらあああああッ!!」
ゴッ!!
互いの拳が同時に頬を打ち抜く。
「ぐッ!」
「がッ!」
よろめく。
それでも踏み止まる。
殴る。
殴られる。
また拳を振るう。
もう技もない。
駆け引きもない。
異形の力も、黒き風も関係ない。
ただ互いに残った力のすべてを、拳へ込め続けた。
バキッ!!
「ぐッ……!」
ゴッ!!
「が……!」
やがて、二人の足元が同時に揺らぐ。
そして最後には――どちらからともなく床へ倒れ伏した。
「……はあ……はあ……」
「…………」
荒い呼吸だけが、渡り廊下へ響く。
江口が小さく口元を吊り上げた。
「……俺の、勝ちだな。亮」
「は……」
笠井も笑う。
「馬鹿言え……俺の、勝ちだろ」
「…………」
「…………」
もう拳を振るう力はない。
それでも、互いに譲ろうとはしなかった。
だが――江口の顔からは、いつの間にかあの憎悪が薄れていた。
胸の内で固まり続けていたものが、殴り合うたび少しずつ形を失っていく。
「…………?」
正彦が顔を上げた。
「瘴気が……薄れていく?」
校舎を満たしていた瘴気が、徐々に消えていく。
だが――。
(違う……)
正彦は目を凝らす。
江口から生まれていたものとは異なる、さらに強固な瘴気が鬼夢そのものを外側から包み込んでいた。
(仲間たちが入れないのも、これが原因か……?)
なら――。
(なぜ俺だけが、この世界へ入ることができた?)
その瞬間。
ぞわり。
「――ッ!?」
猛烈な悪寒が全身を駆け巡った。
「あれは――!!」
倒れた笠井の身体から――再び、漆黒の風が溢れ始めていた。
「う……ぐ……!」
先ほどとは比較にならない。
黒き風は瞬く間に渡り廊下を埋め、校舎全体へ流れ込んでいく。
「ああ……りょ、亮……」
「――江口!?」
暴風に晒された江口が苦悶の声を漏らす。
「止まれ……」
笠井は自らの身体を抱え込んだ。
「止まれえええええ!!」
必死に抑え込もうとする。
だが――止まらない。
もはや本人の意思では、制御できなくなっていた。
「亮……!」
正彦は見た。
黒き風の中心。
倒れた息子の身体に留まる、一羽の黒鴉。
漆黒の羽毛。
ゆっくりと持ち上がる頭部。
その顔に開かれた――三つの眼。
◇◇◇
「来た!」
校舎の屋上。
笠井たちを見下ろしていた男が、初めて興奮を露わにした。
「ついに現れたか!!」
「あれが、例の悪鬼なの?」
朱天が問い掛ける。
「いいえ。あれはまだ、完全な器ではありません」
「ふ~ん」
「ですが――ここから、その器は育つでしょう」
男の視線が、今度は正彦へ向く。
「そのためには、彼の存在が重要となる」
赤い唇が吊り上がった。
「少し、お手伝いをいたしましょうか」
◇◇◇
一方――鬼夢とは別の場所。
南沙織は残された瘴気を睨んでいた。
「前より濃くなってる」
「何かを始めた可能性がありますね」
隣の徳井太一が答える。
「でしょうね」
南は瘴気の続く先へ視線を向けた。
「追うわよ」
「ええ」
◇◇◇
「りょ、亮!!」
黒風が校舎中へ広がっていく。
正彦は何とか息子のもとへ向かおうとした。
「ぐッ……!」
江口に貫かれた傷は深い。
まともに身体を動かすことすら難しい。
「く……そ……!」
それでも立ち上がろうとした――その時。
「…………?」
全身を苛んでいた痛みが引いていく。
「これは……!?」
貫かれた傷が塞がっている。
止まらなかった血も、完全に止まっていた。
「傷が……?」
何が起きたのか分からない。
だが――今はどうでもいい。
「……これなら動ける!!」
正彦が黒い嵐へ飛び込む。
「亮!!」
吹き荒れる風を掻き分け、うずくまっていた息子を抱き上げた。
「お、おやじ!?」
「行くぞ!!」
そのまま窓へ向かう。
バリンッ!!
蹴破り――校舎の外へ身を投じた。
「な、何すんだよ!?」
「この鬼夢も、もう形を保っていられない!」
落下しながら正彦が叫ぶ。
「このままじゃ、他の子たちまで巻き込むぞ!!」
「――ッ!」
笠井が振り返る。
漆黒の風が吹き荒れる校舎は、すでに崩壊を始めていた。
いや――校舎だけではない。
「なんだよ……これ」
落ちているはずなのに、いつまで経っても地面へ辿り着かない。
鬼夢そのものが形を失い、世界すべてが漆黒の虚無へ還り始めていた。
「亮!!」
正彦が息子を見る。
「お前の内に潜む悪鬼を抑え込む!!」
「だから、それができねえんだよ!!」
黒風がさらに荒れ狂う。
「いや」
正彦が風塵鴉鎚を強く握った。
「必ずやり遂げる!!」
「無理だろ!!」
「俺は――」
正彦が叫ぶ。
「諦めんぞ!!」
「――ッ」
笠井が目を見開く。
「母さんに――」
風塵鴉鎚を構えた。
「直美に、お前を守ると誓ったんだ!!」
「…………!」
その気迫に呼応したかのように――。
「カアアアアアアッ!!」
笠井の内から、三つ眼の黒鴉が顕現した。
「――来い!!」
正彦が踏み込む。
「はあああああああッ!!」
ガガガガッ――!!
「ぐッ……!」
振り下ろした風塵鴉鎚が、黒鴉を包む疾風に阻まれる。
「まだだあああああああッ!!」
正彦は諦めない。
脳裏に、息子との日々が浮かぶ。
いいところを見せようと虫取りへ連れ出したのに、一匹も捕まえられず、逆に泣かせてしまった日。
直美を失い、いつしか泣かなくなった息子へ、何を言えばいいのか分からなかった日。
(ろくな思い出がないな……)
それでも、そのどれもが正彦にとっては失いたくない時間だった。
「ぐ……!」
さらに力を込める。
「大切な息子を――」
ガガガガガッ!!
「返してもらうぞ!!」
僅かに。
本当に僅かに――黒き風が押し返される。
「…………」
三つの眼が、一斉に正彦を捉えた。
「――ッ!」
黒鴉が片翼を広げる。
斬ッ――。
「おやじいいいいいい!!」
一閃。
黒き翼が生んだ斬撃が――正彦の胴を両断した。
「……ごふッ!」
「お、おやじ……?」
正彦の身体が崩れる。
「おやじいい!!」
笠井が駆け寄り、落ちてきた父の上半身を抱き留めた。
「おい! おやじ、しっかりしろよ!!」
「…………」
正彦自身には分かっていた。
(もう……助からない)
ならば、最後にできることは――。
「亮……」
「何だよ!?」
「これを……」
握っていた風塵鴉鎚を、息子の手へ押しつける。
「――おやじ、何やってんだよ!?」
「いいから……聞け」
震える手で、笠井の指を柄へ握らせていく。
「お前が……“あれ”を倒すんだ」
「そんなの後でいいだろ!!」
三つ眼の黒鴉が上空へ舞い上がる。
「それより、おやじを――」
何をすればいい。
どうすれば助けられる。
分からない。
悲しみ。
怒り。
戸惑い。
いくつもの感情が入り乱れていた。
「亮……」
正彦が息子の肩へ、そっと手を置く。
「すまなかった……」
「…………」
「迷惑ばかり掛けてしまって」
「ふざけんなよ……」
笠井の声が震えた。
「こんなところで終わりにするなよ!!」
「…………」
父との日々が蘇る。
二人で行った遊園地。
何も捕まえられなかった虫取り。
ずっと嫌いだったはずなのに――。
(もっと……俺が素直になれてたら)
あと少しだけでも、父のことを知ろうとしていたら。
「…………」
胸の奥から、後悔が込み上げる。
その時、父と目が合った。
かつてはまともに受け止めることすらできなかった、真っ直ぐな眼。
けれど今は――逸らさない。
「亮……」
「…………」
「悪かったな」
笠井は父を見つめ返した。
「父さん――」
初めて、そう呼んだ。
「俺は――!」
正彦が僅かに笑う。
「お前を……」
最後まで息子の眼を見つめながら――。
「信じてるぞ」
「…………!」
次の瞬間、笠井の腕の中から父の身体が滑り落ちていく。
「――父さん!!」
手を伸ばす。
「父さあああああん!!」
届かない。
父・笠井正彦の身体は――そのまま漆黒の虚無へ呑み込まれていった。
「…………」
笠井は、父が消えた闇を見つめ続けた。
何も考えられない。
ただ、手の中に残された一本の錆びついた金槌。
それだけが、父がここにいたことを証明していた。
バサッ!!
「…………」
上空から羽ばたきが響く。
三つ眼の黒鴉が、再び笠井目掛けて急降下していた。
「…………!」
ブンッ!!
風塵鴉鎚が一閃する。
黒鴉が寸前で急停止した。
三つの眼が、真っ直ぐ笠井を捉える。
「……もう、充分だ」
父を失った。
江口も傷つけた。
自分の力で、この世界まで壊しかけた。
「これで終わりにする!!」
笠井は、父から託された風塵鴉鎚を握り締めた。
三つ眼の黒鴉。
自身の内に潜む悪鬼を、初めて真正面から睨み据える。
少年の決意に呼応するように――新たな風が吹き始めた。
次回予告
親友との決着。
父との別れ。
そして残された風塵鴉鎚。
すべてを失いかけた少年は、自らの内に潜む悪鬼と向き合う。
その先で待っていたのは――さらなる真実と、新たな出会い。
次回、第97話「笠井亮」




