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夢幻開現師―悪夢を断つ者―  作者: ks21
第零章:「胡馬北風《上》」
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第96話「黒鴉の目醒め」

 渡り廊下を、漆黒の風が吹き抜ける。


「…………」


 江口は動けなかった。


 右足首から先を失い、全身も傷だらけ。


 まともに立っていることさえ不可能なはずだ。


 その気になれば、一息に殺せる。


 少なくとも、江口はそう思っていた。


 だが――。


「…………」


 なぜか動けない。


 胸中にもたげていたのは、目の前の少年に対する――恐怖。


「ハハッ!」


 それを振り払うように、江口が嗤う。


「笑わせるな! お前になにが――」


 瞬間、目の前から笠井の姿が消えた。


「――ッ!?」


 漆黒の風に身体を押し出されるように、一気に間合いを詰めている。


「ふッ!!」


ドガッ!!


「ぴぎッ!?」


 左足が江口の豚鼻を打ち抜いた。


 大きく仰け反った身体。


「まだ話は終わってねえだろうがよ!!」


 笠井は床へ垂れた、千切れかけの舌を掴む。


「ぎッ!?」


 力任せに引き寄せ――。


バキッ!!


「ぺギャアアアアア!!」


 その額を江口の顔面へ叩き込んだ。


「な、舐めんなよおおおおおお!!」


 六本の腕の一本が、鋭い切っ先を笠井へ突き立てる。


 だが――届かない。


 周囲を渦巻く黒い風が、腕を押し返していた。


「な……!?」


「ふッ!!」


 その隙に、笠井の拳が灰色の腹部へ突き刺さる。


「げへッ!?」


「もう一発!!」


ゴッ!!


「がッ!?」


 続けざまの左拳が顎を跳ね上げた。


「…………」


 離れた場所から見ていた正彦も、目を見開く。


(これほどの力を……)


 だが、驚き以上に胸を占めたのは恐れだった。


(亮の内に潜む悪鬼が、表へ出始めている……)


 鬼夢《おにむ》に囚われることで、人の内に潜む悪鬼の力が活性化することはある。


 問題は――その凶暴性まで解き放たれてしまうことだ。


(今は江口くんという対象がいる。だが、もし彼がいなくなれば……)


 嫌な予感がした。


◇◇◇


「ぐ……」


 笠井の猛攻を受け続け、ついに江口の異形が床へ崩れ落ちた。


「はあ……はあ……」


 それでも笠井は拳を下ろさない。


「よお?」


 倒れた江口を見下ろす。


「これで終わりってわけじゃないだろ?」


「…………」


 異形の身体が、大きく蠢いた。


 その内側から――。


「ぐッ……」


 一人の少年が這い出てくる。


「…………江口」


 元の姿へ戻った江口だった。


 全身傷だらけで、立ち上がるだけでも精一杯。


 それでも――。


「ああ……!」


 膝を震わせながら立ち上がる。


「まだ……やってやろうじゃねえか!!」


「…………」


 笠井が笑った。


「上等だ」


 二人は、もう一度拳を握る。


「おおおおおおッ!!」


「うらあああああッ!!」


ゴッ!!


 互いの拳が同時に頬を打ち抜く。


「ぐッ!」


「がッ!」


 よろめく。


 それでも踏み止まる。


 殴る。


 殴られる。


 また拳を振るう。


 もう技もない。


 駆け引きもない。


 異形の力も、黒き風も関係ない。


 ただ互いに残った力のすべてを、拳へ込め続けた。


バキッ!!


「ぐッ……!」


ゴッ!!


「が……!」


 やがて、二人の足元が同時に揺らぐ。


 そして最後には――どちらからともなく床へ倒れ伏した。


「……はあ……はあ……」


「…………」


 荒い呼吸だけが、渡り廊下へ響く。


 江口が小さく口元を吊り上げた。


「……俺の、勝ちだな。亮」


「は……」


 笠井も笑う。


「馬鹿言え……俺の、勝ちだろ」


「…………」


「…………」


 もう拳を振るう力はない。


 それでも、互いに譲ろうとはしなかった。


 だが――江口の顔からは、いつの間にかあの憎悪が薄れていた。


 胸の内で固まり続けていたものが、殴り合うたび少しずつ形を失っていく。


「…………?」


 正彦が顔を上げた。


「瘴気が……薄れていく?」


 校舎を満たしていた瘴気が、徐々に消えていく。


 だが――。


(違う……)


 正彦は目を凝らす。


 江口から生まれていたものとは異なる、さらに強固な瘴気が鬼夢そのものを外側から包み込んでいた。


(仲間たちが入れないのも、これが原因か……?)


 なら――。


(なぜ俺だけが、この世界へ入ることができた?)


 その瞬間。


 ぞわり。


「――ッ!?」


 猛烈な悪寒が全身を駆け巡った。


「あれは――!!」


 倒れた笠井の身体から――再び、漆黒の風が溢れ始めていた。


「う……ぐ……!」


 先ほどとは比較にならない。


 黒き風は瞬く間に渡り廊下を埋め、校舎全体へ流れ込んでいく。


「ああ……りょ、亮……」


「――江口!?」


 暴風に晒された江口が苦悶の声を漏らす。


「止まれ……」


 笠井は自らの身体を抱え込んだ。


「止まれえええええ!!」


 必死に抑え込もうとする。


 だが――止まらない。


 もはや本人の意思では、制御できなくなっていた。


「亮……!」


 正彦は見た。


 黒き風の中心。


 倒れた息子の身体に留まる、一羽の黒鴉《こくあ》。


 漆黒の羽毛。


 ゆっくりと持ち上がる頭部。


 その顔に開かれた――三つの眼。


◇◇◇


「来た!」


 校舎の屋上。


 笠井たちを見下ろしていた男が、初めて興奮を露わにした。


「ついに現れたか!!」


「あれが、例の悪鬼なの?」


 朱天が問い掛ける。


「いいえ。あれはまだ、完全な器ではありません」


「ふ~ん」


「ですが――ここから、その器は育つでしょう」


 男の視線が、今度は正彦へ向く。


「そのためには、彼の存在が重要となる」


 赤い唇が吊り上がった。


「少し、お手伝いをいたしましょうか」


◇◇◇


 一方――鬼夢とは別の場所。


 南沙織《みなみさおり》は残された瘴気を睨んでいた。


「前より濃くなってる」


「何かを始めた可能性がありますね」


 隣の徳井太一《とくいたいち》が答える。


「でしょうね」


 南は瘴気の続く先へ視線を向けた。


「追うわよ」


「ええ」


◇◇◇


「りょ、亮!!」


 黒風が校舎中へ広がっていく。


 正彦は何とか息子のもとへ向かおうとした。


「ぐッ……!」


 江口に貫かれた傷は深い。


 まともに身体を動かすことすら難しい。


「く……そ……!」


 それでも立ち上がろうとした――その時。


「…………?」


 全身を苛んでいた痛みが引いていく。


「これは……!?」


 貫かれた傷が塞がっている。


 止まらなかった血も、完全に止まっていた。


「傷が……?」


 何が起きたのか分からない。


 だが――今はどうでもいい。


「……これなら動ける!!」


 正彦が黒い嵐へ飛び込む。


「亮!!」


 吹き荒れる風を掻き分け、うずくまっていた息子を抱き上げた。


「お、おやじ!?」


「行くぞ!!」


 そのまま窓へ向かう。


バリンッ!!


 蹴破り――校舎の外へ身を投じた。


「な、何すんだよ!?」


「この鬼夢も、もう形を保っていられない!」


 落下しながら正彦が叫ぶ。


「このままじゃ、他の子たちまで巻き込むぞ!!」


「――ッ!」


 笠井が振り返る。


 漆黒の風が吹き荒れる校舎は、すでに崩壊を始めていた。


 いや――校舎だけではない。


「なんだよ……これ」


 落ちているはずなのに、いつまで経っても地面へ辿り着かない。


 鬼夢そのものが形を失い、世界すべてが漆黒の虚無へ還り始めていた。


「亮!!」


 正彦が息子を見る。


「お前の内に潜む悪鬼を抑え込む!!」


「だから、それができねえんだよ!!」


 黒風がさらに荒れ狂う。


「いや」


 正彦が風塵鴉鎚《ふうじんがつい》を強く握った。


「必ずやり遂げる!!」


「無理だろ!!」


「俺は――」


 正彦が叫ぶ。


「諦めんぞ!!」


「――ッ」


 笠井が目を見開く。


「母さんに――」


 風塵鴉鎚を構えた。


「直美に、お前を守ると誓ったんだ!!」


「…………!」


 その気迫に呼応したかのように――。


「カアアアアアアッ!!」


 笠井の内から、三つ眼の黒鴉が顕現した。


「――来い!!」


 正彦が踏み込む。


「はあああああああッ!!」


ガガガガッ――!!


「ぐッ……!」


 振り下ろした風塵鴉鎚が、黒鴉を包む疾風に阻まれる。


「まだだあああああああッ!!」


 正彦は諦めない。


 脳裏に、息子との日々が浮かぶ。


 いいところを見せようと虫取りへ連れ出したのに、一匹も捕まえられず、逆に泣かせてしまった日。


 直美を失い、いつしか泣かなくなった息子へ、何を言えばいいのか分からなかった日。


(ろくな思い出がないな……)


 それでも、そのどれもが正彦にとっては失いたくない時間だった。


「ぐ……!」


 さらに力を込める。


「大切な息子を――」


ガガガガガッ!!


「返してもらうぞ!!」


 僅かに。


 本当に僅かに――黒き風が押し返される。


「…………」


 三つの眼が、一斉に正彦を捉えた。


「――ッ!」


 黒鴉が片翼を広げる。


斬ッ――。


「おやじいいいいいい!!」


 一閃。


 黒き翼が生んだ斬撃が――正彦の胴を両断した。


「……ごふッ!」


「お、おやじ……?」


 正彦の身体が崩れる。


「おやじいい!!」


 笠井が駆け寄り、落ちてきた父の上半身を抱き留めた。


「おい! おやじ、しっかりしろよ!!」


「…………」


 正彦自身には分かっていた。


(もう……助からない)


 ならば、最後にできることは――。


「亮……」


「何だよ!?」


「これを……」


 握っていた風塵鴉鎚を、息子の手へ押しつける。


「――おやじ、何やってんだよ!?」


「いいから……聞け」


 震える手で、笠井の指を柄へ握らせていく。


「お前が……“あれ”を倒すんだ」


「そんなの後でいいだろ!!」


 三つ眼の黒鴉が上空へ舞い上がる。


「それより、おやじを――」


 何をすればいい。


 どうすれば助けられる。


 分からない。


 悲しみ。


 怒り。


 戸惑い。


 いくつもの感情が入り乱れていた。


「亮……」


 正彦が息子の肩へ、そっと手を置く。


「すまなかった……」


「…………」


「迷惑ばかり掛けてしまって」


「ふざけんなよ……」


 笠井の声が震えた。


「こんなところで終わりにするなよ!!」


「…………」


 父との日々が蘇る。


 二人で行った遊園地。


 何も捕まえられなかった虫取り。


 ずっと嫌いだったはずなのに――。


(もっと……俺が素直になれてたら)


 あと少しだけでも、父のことを知ろうとしていたら。


「…………」


 胸の奥から、後悔が込み上げる。


 その時、父と目が合った。


 かつてはまともに受け止めることすらできなかった、真っ直ぐな眼。


 けれど今は――逸らさない。


「亮……」


「…………」


「悪かったな」


 笠井は父を見つめ返した。


「父さん――」


 初めて、そう呼んだ。


「俺は――!」


 正彦が僅かに笑う。


「お前を……」


 最後まで息子の眼を見つめながら――。


「信じてるぞ」


「…………!」


 次の瞬間、笠井の腕の中から父の身体が滑り落ちていく。


「――父さん!!」


 手を伸ばす。


「父さあああああん!!」


 届かない。


 父・笠井正彦の身体は――そのまま漆黒の虚無へ呑み込まれていった。


「…………」


 笠井は、父が消えた闇を見つめ続けた。


 何も考えられない。


 ただ、手の中に残された一本の錆びついた金槌。


 それだけが、父がここにいたことを証明していた。


バサッ!!


「…………」


 上空から羽ばたきが響く。


 三つ眼の黒鴉が、再び笠井目掛けて急降下していた。


「…………!」


ブンッ!!


 風塵鴉鎚が一閃する。


 黒鴉が寸前で急停止した。


 三つの眼が、真っ直ぐ笠井を捉える。


「……もう、充分だ」


 父を失った。


 江口も傷つけた。


 自分の力で、この世界まで壊しかけた。


「これで終わりにする!!」


 笠井は、父から託された風塵鴉鎚を握り締めた。


 三つ眼の黒鴉。


 自身の内に潜む悪鬼を、初めて真正面から睨み据える。


 少年の決意に呼応するように――新たな風が吹き始めた。

次回予告


 親友との決着。


 父との別れ。


 そして残された風塵鴉鎚。


 すべてを失いかけた少年は、自らの内に潜む悪鬼と向き合う。


 その先で待っていたのは――さらなる真実と、新たな出会い。


 次回、第97話「笠井亮」

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