第95話「父」
床へ叩き落とされた江口は、そのまま動かなかった。
異形と化した脚だけが、ひくひくと痙攣している。
「…………」
正彦は江口が起き上がってこないことを確認すると、すぐさま息子のもとへ駆け寄った。
「亮、大丈夫か!?」
「お、おやじ……」
「お前は必ず父さんが助けるからな!!」
「…………」
普段の父からは想像もできないほど切迫した声だった。
「立てるか?」
「あ、ああ……」
床へ手をつき、身体を起こそうとする。
「ぐッ……!」
だが、右足首から先を失った身体では、まともに立つことすらできない。
「無理をするな。肩を貸そう」
正彦は息子の身体を支え、自分の肩へ腕を回させた。
「なるべく早く、ここから離れよう」
風塵鴉鎚を片手に、笠井を支えながら歩き始める。
二人は渡り廊下を抜け、学習棟へ向かった。
「……なあ」
「どうした?」
「他のみんなは?」
笠井は背後を振り返る。
「それに……江口は?」
異形と化した部員たち。
そして、自分を殺そうとした江口。
それでも、あいつをこのまま置いていくことなどできなかった。
「他の子たちも必ず助ける」
正彦の表情が僅かに曇る。
「だが、今すぐは難しい」
「…………」
「お前も、もう気付いていると思うが――」
正彦が前を向いたまま告げる。
「ここは現実じゃない。夢の中だ」
「ああ……江口が言ってた」
江口も同じことを言っていた。
壁も、床も、父に支えられている感触も、切断された右足首から伝わる痛みも、どれも現実と変わらない。
それでも、目を覚ました時からずっと感じていた。
何かがおかしい。
「夢といっても、お前が普段見るような夢じゃない」
正彦は続ける。
「正確には、“鬼夢”と呼ばれる特殊な精神世界だ」
「鬼夢……」
「俺は、そういう鬼夢に囚われた人間を助け出す仕事をしている」
「…………」
笠井は眉を寄せた。
「……知らなかった」
「…………」
「おやじは、ずっとレスキューの仕事をしてるって聞かされてたから」
「すまんな」
正彦は短く答える。
「仕事が仕事だから、なかなか家族にも正直に話せなくてな」
「…………」
言いたいことは分かる。
幼い自分に、父がこんな怪物を相手にする危険な仕事をしていると知らされていたら、きっと気が気ではなかっただろう。
頭では理解できる。
だが――。
「それでも、ちゃんと話せよ」
「……亮」
「何にも知らされない方のことも考えろよ」
正彦の足が僅かに止まる。
「……すまないと思っている」
その一言を聞いた瞬間だった。
「…………」
笠井の胸の奥で、ずっと押し込めてきた何かが弾けた。
「なんだよ、それ……」
「亮?」
「また自分だけ謝って、それで納得しようってのか!!」
父の肩から腕を振り払う。
「亮! 無理に立つな!」
「うるせえ!!」
片手を壁につき、どうにか身体を支える。
「あんたは!!」
込み上げる感情のまま、正彦を睨みつけた。
「母さんが死んだ時、どこにいた!!」
「…………」
「俺は――」
拳が震える。
「俺は、ずっとあんたのことを待ってたんだぞ!!」
怒りも、憎しみも、それでも消えずに残っていた思いも、止めどなく溢れ出してくる。
「周りの連中も! 母さんも!」
声が震える。
「あんたが悪い人じゃないって! 立派な人だって言うばっかりで……!」
「…………」
「あんたが家でどんなだったか!」
拳を握り締める。
「俺にどう見えてたのか! 誰も知りやしないくせに!!」
正彦は何も言わない。
ただ、息子の言葉を受け止めていた。
「それなのに……」
笠井は俯く。
「こんな時だけ父親面しやがって……」
唇を噛む。
「ふざけんなよ……」
「…………」
全身が痛む。
それでも今は、身体の傷よりも胸の内を掻き回す感情の方がよほど痛かった。
こんな時に、なぜこんな話をしているのか。
自分でも分かっている。
それでも――こんな時にしか、言えなかった。
「……亮」
正彦が静かに口を開く。
「俺は――」
その瞬間だった。
廊下の奥で、銀光が迸る。
「――ッ!?」
「俺がのびたかと思ったのかよ!!」
「江口!?」
怒りに駆られた江口が、鋭く尖った腕を笠井へ突き出していた。
「――ッ」
右足首から先を失った今の身体では、避けられない。
(まずい――!)
ドンッ!!
「ぐッ!」
身体が横へ突き飛ばされた。
ガンッ!!
「お、おやじ!?」
笠井の前へ割って入った正彦が、風塵鴉鎚で江口の一撃を受け止めていた。
「ハハッ!」
江口の口元が歪む。
「やっぱり、そうするしかねえよな!!」
「――ッ!」
それすら、江口の狙いだった。
ドスッ――。
「が、はッ!?」
正彦の口から、大量の血が溢れ出す。
「おやじ!!」
江口の口から伸びた長い舌が――正彦の背中から腹部を貫いていた。
「ハハハハッ!!」
さらに江口が腕を振り上げる。
「はあああああああッ!!」
轟ッ!!
正彦を中心に、凄まじい突風が巻き起こった。
「な、何ッ!?」
江口の身体が後方へ弾き飛ばされる。
「ぐッ!!」
だが江口は床へ腕を突き立て、強引に勢いを殺した。
「ふッ! やっぱり一筋縄じゃいかねえな!」
「く……」
正彦は片膝をつき、腹部を押さえる。
指の隙間から血が流れ落ちていた。
(まずいな……)
仲間はいまだ、この鬼夢へ入って来られない。
そして自分自身も、本来の力を満足に使えない。
(やはり……この瘴気が原因なのか)
「く、くそ!」
笠井が父のもとへ這い寄る。
「おい!!」
江口を睨みつけた。
「もう止めろ、江口!!」
「ああ?」
江口が笑う。
「心配しなくてもよォ……」
その身体が、ぐにゃりと歪んだ。
「てめえも、おやじと一緒にぶっ殺してやるよ!!」
「…………!」
赤い両眼が巨大な複眼へ膨れ上がる。
鼻先が大きく反り出し、人間だった顔は豚を思わせる異様な形へ崩れていった。
ぶちッ。
ぶちぶちッ。
さらに皮膚を突き破り、新たな腕が生える。
六本の腕。
ぶくぶくと膨れ上がった灰色の腹部。
「ま、まずい……」
正彦が目を見開いた。
「侵食が進んでいるのか!?」
「ごれで……」
もはや声からも人間らしさが失われつつある。
「おわりに……じでやるよォ~」
「カアアアアアアッ!!」
長い舌が、再び笠井目掛けて放たれた。
「させるか!!」
「おやじ!?」
正彦が再び、その前へ割って入る。
「おいおい!!」
江口が嗤った。
「俺のごどを、舐めすぎだろおおお!!」
一本だった舌が――途中から四つに裂けた。
「な――」
ザシュッ――。
「がッ……!」
四本の舌が、正彦の身体を同時に貫いた。
「…………!」
「おやじ!!」
舌が引き抜かれる。
鮮血が飛び散り、正彦の身体が床へ崩れ落ちた。
「お、おやじ……?」
「…………」
返事がない。
「おやじ!!」
「しゃッ!!」
江口が大きく羽根を広げる。
「これでしまいだ!!」
笠井たち目掛け、一気に飛翔した。
その時――。
「……いい加減にしろ」
「――あ?」
低い声が響いた。
倒れた正彦の前へ、笠井が身体を滑り込ませる。
「りょ……亮……」
「…………」
「やめ……ろ……」
父の制止にも、振り返らない。
真正面から江口を睨み据える。
「はッ!」
江口が嗤う。
「なら予定通り、亮!!」
六本の腕を大きく広げた。
「お前からぶっ殺してやんよ!!」
「…………」
笠井は構えを取る。
全身が痛む。
右足首から先は失われ、その断面から骨さえ覗いている。
それでも――。
「…………」
身体の内側から、“風”が吹き始めていた。
最初はほんの僅か。
だが、瞬く間に強まり――身体の奥で荒れ狂い始める。
「終わりだああああああ!!」
江口が飛び込んだ。
「舐めるなあああああああ!!」
笠井は叫ぶ。
右足首から先を失った脚を、床へ強引に突き立てた。
「ぐッ!!」
剥き出しの骨が床へ触れ、凄まじい激痛が全身を突き抜ける。
それでも、倒れない。
残った左脚を一気に跳ね上げた。
同時に、江口の舌が顔面へ迫る。
ドッ!!
「ガアアアアアアッ!?」
蹴りが江口の顎下を振り抜いた。
頭部が大きく跳ね上がる。
ブツンッ!!
「――ッ!?」
その勢いで、江口自身の歯が自らの舌を噛み切った。
軌道が逸れた舌が、笠井の頬を掠める。
「ぐッ……!」
熱い血が頬を伝った。
「りょう……」
江口の口から、大量の血が溢れる。
「ぎざまああああああ……!!」
憎悪に満ちた巨大な複眼が笠井を捉えた。
「…………」
笠井は頬の血を手の甲で拭う。
「俺と、お前の問題だろ?」
「…………!」
「だったら――」
拳を固く握った。
父は、もう十分傷ついた。
ここから先は――。
「俺とお前……」
拳から、黒き風が舞い上がる。
「タイマンでケリをつけようぜ!!」
次回予告
親友の殺意。
傷つく父。
そして、極限へ追い詰められた笠井の内側から吹き始める、漆黒の風。
少年の中で眠り続けていた“何か”が、ついに目を醒ます。
次回、第96話「黒鴉の目醒め」




