第94話「夜の支配者」
変貌した江口が、四枚の羽根を羽ばたかせる。
次第にその速度が上がり、両脚がゆっくりと床から浮き上がった。
「…………」
笠井は拳を構えたまま、その姿を睨みつける。
シュッ――。
瞬間、江口の姿が消えた。
「――ッ!?」
冷水を浴びせられたような感覚とともに、全身を駆け巡る殺意。
そして、それに対する本能的な恐怖。
死ぬ――。
そう感じた瞬間、笠井は咄嗟に首を横へずらした。
ザシュッ!!
「ぐッ!?」
首筋に鋭い痛みが走り、鮮血が飛び散る。
笠井は数歩よろめきながら、傷口を手で押さえた。
「う、うう……」
「ああ~?」
背後から江口の声が聞こえる。
振り返ると、江口は宙に浮いたまま、昆虫の脚へと変貌した腕に付着した血を舐めていた。
「斬られる前に、首を少しずらしたか」
「…………」
(くそッ! ずらしてなかったら、首が吹っ飛んでいたぞ!)
笠井はすぐさま迎撃の体勢を整える。
だが、うまく身体に力が入らない。
(一撃で死ななかったとはいえ……立っているのもきつい)
床へ血が滴り、足元にじわじわと血溜まりが広がっていく。
「ハハッ! やっぱり、もう立ってるのもきつそうだな」
「はッ!」
笠井は口元を吊り上げた。
「お前のとろい動きくらい、避けてやるよ!!」
必死に強がってみせるが、次に致命傷を受ければただでは済まない。
笠井は全神経を目の前の江口へ集中させた。
「なら――」
四枚の羽根が激しく震える。
「必死に避けてみろよオオオオオオ!!」
瞬間、再び江口の姿が消えた。
(速い! だが――!!)
視界の端に江口の姿を捉え、笠井は反射的に身体を逸らす。
バシュッ!
「ぐッ!」
左肩を斬られる。
(完全には避け切れねえか!?)
「ハハハ! まだまだ行くぞ!!」
旋回した江口が、再び襲い掛かる。
バシュッ!
「くッ!」
ザシュッ!
「ぐうッ!」
一撃。
また一撃。
ぎりぎりで攻撃をかわしていくが、それでも身体には次々と新たな傷が刻まれていく。
「ちッ……なかなか、速えじゃねえか」
全身を無数に斬られながらも、笠井は致命傷となる一撃だけは必死に避け続けていた。
「驚いたぜ、亮」
突然、江口が攻撃を止めた。
宙に浮いたまま、笠井をまじまじと見つめる。
「この“夢ン中”にてめえを閉じ込めてから……お前、強くなってんな?」
「は……夢?」
「なんだ、お前。気付いてなかったのか?」
江口が笑う。
「ここは――」
両腕を広げた。
「俺が創った“夢”さ」
「…………」
笠井は周囲を見回す。
開かない扉。
割れない窓。
人間とは思えない力。
怪物へ変貌した部員たち。
そして何より、目を覚ました時から感じていた、この世界そのものへの違和感。
「なるほど……」
笠井は再び江口へ視線を戻す。
「ここに来てから、ずっと嫌な感じがしていたのはそういうことか」
「まあ、俺も最初は話半分だったけどな。それにしたって――」
弱り切った笠井を見て気を良くしたのか、江口はべらべらと喋り始める。
(よし……このまま喋らせておけば、少しは時間を稼げる)
笠井は話を聞くふりをしながら、意識を自分の身体へ集中させた。
この世界へ来てから、自分の身体は明らかにおかしい。
ならば――。
(こいつの言う通り、ここが普通の場所じゃねえなら……)
首の傷へ意識を向ける。
(俺にも、何かできるはずだ)
「しかし亮、お前がまさかこんな力を――」
江口が話し続けている間にも、流れ続けていた血が少しずつ、確実に止まり始めていた。
(……いける)
笠井は表情を変えない。
江口に悟られないよう、会話を続ける。
「それで?」
「あ?」
「俺をこんなところに閉じ込めて、どうするつもりだったんだよ」
「そんなの決まって――」
完全に慢心した江口が、一瞬だけ笠井から目を逸らした。
(――今だ!!)
「ふッ!!」
傷口を押さえていた手を振り抜く。
掌に溜まっていた血が、江口の顔へ飛び散った。
「がッ!? 何を――」
血が目に入り、江口が反射的に瞼を閉じる。
(今だ!!)
笠井は床を蹴り、一気にその場から離脱を図った。
だが――。
シュッ!!
「――ッ!?」
背後から何かが迫る。
振り返るよりも早く――。
ガリッ!!
右足首に、鋭い衝撃が走った。
「ぐあああああッ!!」
凄まじい痛みが全身を駆け巡る。
体勢を崩し、そのまま床へ倒れ込んだ。
「ぐッ……な、何が……」
右脚を見る。
「…………は?」
右足首から先が――ない。
つい先ほどまでそこにあったはずの右足首から先が、完全に切断されていた。
「く……う、動け……!」
両手を床へつき、立ち上がろうとする。
だが、右足首から先を失った状態では、まともに身体を支えることすらできない。
「動けよ……!!」
「ハハハハハッ!!」
背後から江口の笑い声が響いた。
「残念だったなあ、亮!!」
「……ッ!」
笠井が振り返る。
江口の口から、異常に長い舌が伸びていた。
そして、その舌先には――。
「…………!」
切断された笠井の右足首から先が乗っている。
先ほどの一撃。
あの舌が高速で伸び、笠井の右足首を切断したのだ。
「俺の油断を誘ったつもりだったんだろうけどよォ~」
江口が舌先を揺らす。
「ここは俺が創り出した空間だぞ?」
舌先に乗せた右足首から先を、見せつけるように持ち上げた。
「お前が何を企んでるかなんて、すぐに分かるんだよ」
「てめえ……!」
「まあ――」
江口は舌をゆっくりと口元へ引き戻していく。
「これで“詰み”ってところだな」
そして、笠井の目の前で――。
バリッ。
「――ッ!」
舌先に乗せていた右足首から先へ噛みついた。
バリッ。
バリバリッ。
「く……くそ……ッ!!」
骨が砕ける音。
肉を噛み潰す音。
つい先ほどまで自分の身体の一部だったものが、目の前で捕食されていく。
その光景と激痛に、辛うじて保っていた集中が途切れた。
切断された右足首と、先ほど止血したはずの傷口からも――再び、どくどくと血が流れ始める。
「う……」
視界が霞む。
床も、壁も、目の前にいる江口さえも、次第に赤く滲んでいった。
「おいおい、夢だからってよう!」
江口が嗤う。
「この世界で死んじまったら、当然ただじゃ済まないぜ!!」
「…………」
声が遠い。
身体から力が抜けていく。
それでも笠井は、僅かに口元を吊り上げた。
「なら……」
「あ?」
「親友の、よしみで……」
荒い息を吐きながら、江口を見上げる。
「見逃してくれねえか?」
「…………」
一瞬、江口が黙った。
そして――。
「そうかよ」
昆虫の脚へと変貌した腕を振り上げる。
「親友のよしみだ」
その鋭利な先端を笠井へ向けた。
「一気にやってやるよ!!」
(……ここまでか)
逃げる手段はない。
右足首から先を失い、立ち上がることすらできない。
それでも、笠井は最後まで江口から目を逸らさなかった。
鋭利な腕が振り下ろされる。
その時だった――。
バリンッ!!
「――ッ!?」
突如、渡り廊下の窓が砕け散った。
「な、何だ!?」
江口が驚いて振り返る。
「ここには誰も入って来られないって――」
砕けた窓の向こうから、一つの人影が飛び込んできた。
ぼやける視界では、笠井にはその正体が分からない。
「て、てめえ!」
江口の口から、再び長い舌が伸びる。
「何もんだああああ!!」
鋭い舌が侵入者へ放たれた。
だが――その影はぎりぎりで攻撃をかわし、次の瞬間には一気に距離を詰める。
「なッ!? 速い!!」
ゴッ!!
「ぶがッ!!」
勢いそのままに放たれた蹴りが、江口の顔面へ叩き込まれた。
江口は大きく仰け反り、そのまま廊下の奥へ吹き飛んでいく。
「…………」
笠井は呆然と、その光景を見つめていた。
人影が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「大丈夫か、亮」
「……?」
聞き覚えのある声。
(なんで……俺の名前を……)
笠井は顔を上げる。
「…………!」
さらに目を見開いた。
「お、おやじ!?」
突如として救援に現れたのは、笠井の父――笠井正彦だった。
「すまんな。遅くなってしまって」
正彦はすぐさま息子の傍らへ膝をつき、その背中に手を添える。
「まずは精神を整えろ。止血することだけに集中するんだ」
「あ、ああ……」
笠井は父の言葉に従い、意識を自分の身体へ集中させる。
背中に添えられた父の手。
そこから伝わる温もりに、不思議と乱れていた意識が落ち着いていく。
首。
肩。
腕。
そして、切断された右足首。
身体中から流れ続ける血。
ただ、それを止めることだけへ意識を向ける。
やがて――流れ続けていた血が、徐々に止まっていった。
(まさか……)
正彦は息子の姿を見つめる。
(感覚だけで、この世界の“理”を掴み始めているのか……?)
息子に秘められた才能に驚きながらも、すぐに意識を目の前の敵へ戻した。
「お、おやじ……」
「ん?」
「いったい……これは何なんだよ」
「詳しい話はあとだ」
正彦は立ち上がった。
「まだ、お前の友達は止まらないみたいだ」
「…………」
見ると、吹き飛ばされた江口が再び立ち上がっていた。
「ああ!?」
赤い複眼を見開き、正彦を睨みつける。
「なんで、亮のおやじがここに居んだよ!!」
正彦は右手を前へ突き出した。
「俺は――」
静かに江口を見据える。
「息子と君を助けに来た」
「はあ!? 何言ってんだ、こいつ!!」
江口が再び四枚の羽根を羽ばたかせる。
「まあいい!!」
先ほどまで以上に激しく、空気が震える。
「てめえも――」
江口の身体が前へ傾く。
「息子と一緒に死ね!!」
瞬間、その姿が消えた。
「ま、まずい!」
笠井が声を上げる。
「さっきよりも速い!!」
もはや笠井の目でも追えないほどの速度で、江口が迫る。
だが――正彦は微動だにしない。
「顕現――」
右手に光が集まっていく。
「風塵鴉鎚」
光が消えた時、その手には――一本の錆びついた金槌が握られていた。
「な――」
江口が正彦の目前へ迫る。
しかし――。
ゴンッ!!
「ぶッ!?」
振り上げられた風塵鴉鎚が、江口の脳天へ叩き込まれた。
その身体が勢いよく床へ叩き落とされる。
「…………」
笠井は何も言えない。
ただ、目の前に立つ父を見つめていた。
自分が知っている父とは、あまりにも違う。
正彦はゆっくりと金槌を構え直す。
「な、なんで……」
笠井が声を絞り出す。
「なんで、おやじが……」
正彦は息子へ振り返った。
「なぜなら――」
驚愕する笠井へ告げた。
「俺は、“開現師”だからな」
次回予告
右足を失い、死を覚悟した笠井。
その目前へ現れたのは、ずっと嫌い続けてきた父だった。
そして父の口から告げられる、知られざる真実。
「俺は、“開現師”だからな」
次回、第95話「父」




