第92話「閉ざされた夜」
突如として始まった、真夜中の肝試し大会。
ルールは単純だった。
ペアで校舎内を一周し、再び昇降口へ戻ってくる。
代表者同士でじゃんけんをして、出発する順番を決めることになった。
「亮、悪い! 負けちまったよ!!」
江口は惨敗に次ぐ惨敗で、あれよあれよという間に最下位まで落ちてしまった。
「まあ、別にいいさ」
「いや~、こういうのって最後の方が怖いじゃん?」
「だったら勝てよ」
「うるせえ!」
誰かが出発するたびに声を掛け、残った者同士でどこから驚かせてくるのかと予想し合っていた。
しかし――。
そんな中、笠井だけはこの状況に妙な違和感を覚えていた。
(……やっぱり、おかしい)
そもそも、なぜ皆が寝静まった後になって肝試しを始めるのか。
やるつもりなら、最初からそう言えばよかったはずだ。
それだけではない。
目を覚ました時から感じている、何とも言い表せない感覚。
空気が重く、肌へまとわりつくような不快感が校舎全体に蔓延している。
けれど、周囲の部員たちは誰一人として気にしていない。
その感覚だけが、浮ついた空気から笠井を引き離していた。
やがて、最後の順番が回ってくる。
「よっしゃ、行こうぜ!」
「……ああ」
懐中電灯を受け取り、笠井と江口は暗い校舎へ足を踏み入れた。
◇◇◇
当然ながら、夜の校舎は暗い。
窓から差し込む僅かな月明かりと、手元の懐中電灯だけが頼りだった。
二人分の足音が、静かな廊下へ響く。
肝試しというからには、先に姿を消した三年生たちがどこかへ隠れ、後輩たちを驚かせてくるものだと思っていた。
だが――。
何も起こらない。
教室の陰から飛び出してくる者も、突然物音を立てる者も、気味の悪い声を上げる者すらいなかった。
ただひたすら、暗い廊下を歩かされている。
「なあ……おかしくないか?」
「何が?」
江口は、まだぴんときていないらしい。
「三年生の先輩たちだよ。いったい、どこに隠れてるんだ?」
「あ~……確かに、全然会わないな」
学習棟を歩き終え、理科室や音楽室などがある管理棟へ向かっても、誰一人として姿を見せない。
「それに、俺たちを驚かせるつもりなら、なんで前のグループの声が聞こえないんだよ?」
「声?」
「悲鳴の一つくらい聞こえてもいいだろ」
笠井たちの前にも、いくつものペアが出発している。
特に一つ前の女子グループなど、出発前から怖い怖いと騒いでいた。
それなのに――。
ここまで一度も、悲鳴を聞いていない。
「あれかな? みんな、案外こういうの得意だったとか?」
「馬鹿言え。俺たちの前の女子なんて、随分と怯えてただろ」
「ん~……言われてみれば、確かに」
ようやく江口も、少しだけ表情を曇らせた。
そのまま二人は、学習棟と管理棟を繋ぐ渡り廊下へ入る。
懐中電灯の明かりが、左右へ揺れる。
一歩。
また一歩。
廊下の中ほどまで来た――その時だった。
「キャアアアアアアアアッ!!」
「――ッ!?」
夜の校舎を切り裂くような叫び声。
笠井と江口は顔を見合わせ、次の瞬間には同時に走り出していた。
「今の、階段の方だよな!?」
「ああ、多分な!!」
勢いよく渡り廊下を駆け抜ける。
管理棟へ入り、階段へ向かう途中――。
「……ん?」
笠井の視界に、床へ転がる懐中電灯の明かりが入った。
その先、階段の下で一人の女子部員がうずくまっている。
先ほど笠井たちより先に出発した、一年生だった。
「おい! 大丈夫か!?」
二人が駆け寄る。
だが、少女は頭を抱えたまま、がたがたと身体を震わせている。
「どうした? 何があった?」
「…………」
笠井が肩へ手を添えると、少女はゆっくりと顔を上げた。
「バ……バケモノ……」
「……え?」
「ひッ……!」
それだけ言うと、少女は再び頭を抱えてしまった。
「おい、笠井! その子!!」
江口が、少女の左腕を指差す。
「――ッ」
暗くて気付かなかった。
二の腕に、小さな穴が開いている。
何か鋭利なもので突き刺されたような傷だった。
そこから滴った血が、制服を濡らし、床へ落ちている。
「誰にやられた?」
「…………」
「一緒にいた子は?」
返事はない。
少女は震えるばかりだった。
やがて騒ぎを聞きつけた他の部員たちも、次々と集まってくる。
「おい、どうしたんだよ!?」
「何があったの!?」
「この子と一緒にいた子は!?」
人が増えるにつれ、辺りへ混乱が広がっていく。
「まずは、保健室へ連れて行こう」
笠井はその場へしゃがみ込み、少女を抱え上げた。
「江口、西条先生を呼んできてくれ!」
「おっし、任せとけ!!」
江口が昇降口の方へ走り出す。
笠井は数人の女子部員とともに、負傷した少女を保健室へ運んだ。
◇◇◇
幸い、傷そのものは命に関わるほど深くは見えなかった。
他の女子部員たちと協力し、できる範囲で応急処置を施す。
少女をベッドへ寝かせると、笠井は小さく息を吐いた。
「……これで、ひとまずは」
だが、待てども江口も西条もやって来ない。
「遅いな……」
呼びに行くだけなら、それほど時間が掛かる距離ではない。
「俺、ちょっと様子を見てくる」
残っていた女子部員たちへ声を掛け、笠井は保健室を出た。
廊下へ出ても、相変わらず妙な空気は消えていない。
(さっきより、酷くなってねえか……?)
胸の奥がざわつく。
そのまま昇降口へ向かっていると、前方から大きな怒鳴り声が聞こえてきた。
「……何だ?」
足を速める。
昇降口では、江口たちと西条が言い争っていた。
「おい、どうしたんだよ!?」
笠井が近付く。
その場にいた全員が振り返った。
誰もが困惑と恐怖に染まった顔をしている。
そして、その奥――西条が顔を真っ赤にしながら、笠井を睨みつけていた。
「おい! 何で途中で止めたんだ!!」
「……は?」
何を言っているのか分からない。
西条は部員たちを掻き分け、笠井の前へ乗り出した。
「だ~か~らアアアアッ!! 何で肝試しを途中で止めたんだと聞いているんだろうが!!」
唾を飛ばしながら、まくし立てる。
「先生、部員の一人が怪我をしたんですよ! それに、一人は居なくなってるし!!」
「それがどうした!!」
「――は?」
「先輩たちがお前たちのために準備してくれてるというのに!! それをお前は!!」
西条の両眼は焦点が合っていなかった。
それぞれが、まるで別のものを見ているように歪んでいる。
(……何だ、これ)
明らかにおかしい。
酔っているようにも見えない。
寝ぼけているなどという状態でもない。
西条が、がっと笠井の胸倉を掴んだ。
「ちょっと、先生!!」
隣にいた部員が、見兼ねて止めに入ろうとする。
「うるさいッ!!」
ドンッ!!
「うぶッ!!」
西条が片腕を振り払った。
それだけで、部員の身体がふわりと宙へ浮く。
そのまま数メートル先の壁へ叩きつけられた。
「キャアアアアッ!!」
「お、おい!?」
完全に常軌を逸している。
「指導してやるううううッ!!」
西条が笠井へ拳を振り下ろした。
その瞬間――。
(――遅い?)
凄まじい勢いで迫るはずの拳なのに、笠井にはその動きがやけにゆっくりと見えた。
考えるよりも早く、右腕を伸ばす。
ガシッ!!
「うぐぐぐぐううううッ……!?」
西条の拳を受け止めた。
そのまま腕を捻る。
西条が苦悶の声を漏らしながら、片膝をついた。
「…………」
笠井自身が、一番驚いていた。
(何だ、この力……?)
掌へ力を込める。
その気になれば、このまま腕をへし折れてしまう。
そう思えるほど、身体にこれまで感じたことのない力が満ちていた。
だが、今は考えている場合ではない。
「すまん! 誰か、先生を押さえるためのロープか何か持ってきてくれ!」
呆然としていた江口が、はっと我に返った。
「わ、分かった! 取ってくる!!」
近くの用具庫へ駆け込む。
ほどなくして、黄色と黒のトラ紐を抱えて戻ってきた。
笠井は西条の両腕を背中へ回し、そのまま身体を縛りつける。
「お前! こんなことして、ただで済むと思うなよ!!」
西条は目をかっぴらきながら、訳の分からない言葉を喚き続けている。
「お、おい……大丈夫なのかよ、こんなことして……」
江口が不安そうな顔を向けた。
「西条先生、明らかに様子がおかしかった。今はこうするしかないだろ」
「でもよ……」
笠井は周囲を見渡した。
江口だけではない。
他の部員たちも、ひどく怯えている。
床で喚き続ける西条も、もはや支離滅裂な言葉しか口にしていない。
尋常ではなかった。
「それに……」
笠井が周囲を見回す。
「三年生の先輩たちは、どこに行ったんだよ」
「……あ」
これだけの騒ぎになっている。
壁へ人が叩きつけられ、叫び声まで響いた。
それなのに――三年生たちは一人として姿を見せない。
「とにかく、まずは助けを呼ぼう」
「あ、ああ!」
部員たちが昇降口へ殺到する。
ドアへ手を掛けた。
「……あれ?」
「どうした?」
「開かない!」
数人で押す。
だが――びくともしない。
「ダメだ! 鍵は開いてるはずなのに、開きやしない!!」
「代われ」
笠井が前へ出た。
先ほど西条を押さえ込んだ時と同じように、全身へ力を込める。
「ぐッ……!」
それでも動かない。
「何だよ、これ……」
ならばと、笠井は近くの教室へ駆け込み、椅子を一脚持って戻ってきた。
「危ないから離れてろ!」
両手で椅子を構える。
そして――。
「ふッ!!」
力の限り、ドアガラスへ叩きつけた。
バキイイイイッ!!
「――なッ!?」
凄まじい音が響く。
だが、砕けたのは椅子の方だった。
ガラスには、ひび一つ入っていない。
「なんだよ……これ」
誰かが呟いた。
今度は別の窓を確かめる。
教室も、廊下も、どこも同じだった。
鍵を開けても動かない。
叩いても、蹴っても、びくともしない。
「俺たち……」
震える声。
「ここに閉じ込められたってのかよ……?」
誰も答えられなかった。
その時になって初めて――笠井以外の部員たちも、ここが自分たちの知る校舎とは何かが違う、異様な場所であることを理解し始めた。
その瞬間。
「――しまった!」
笠井の背筋に悪寒が走る。
「保健室が――!!」
言い終えるよりも早く、廊下の奥――保健室の方から再び叫び声が木霊した。
「キャアアアアアアアアッ!!」
「――ッ!!」
笠井は即座に駆け出した。
「お、おい! 笠井!!」
江口も慌てて後を追う。
「お、おい……待ってくれよ!」
笠井は凄まじい速度で廊下を駆け抜けていく。
自分でも、なぜこれほど速く走れるのか分からない。
ただ、今はそんなことを考えている暇もなかった。
瞬く間に保健室へ辿り着く。
勢いよく扉を開けた。
「うッ!?」
むっとする臭いが、一気に鼻孔へ入り込んできた。
血の臭い。
「…………」
その奥には、信じられない光景が広がっていた。
「ジジ……ジジジ……」
不快な羽音にも似た音。
先ほど保健室を任せた女子部員が、床へ倒れている。
そして彼女を抱えているのは――おそらく、先ほどまでベッドで眠っていた後輩だった。
笠井が「おそらく」としか思えなかったのは、その姿があまりにも変わり果てていたからだ。
本来あるはずの両眼が、顔の左右へ大きく飛び出している。
赤く肥大化した巨大な複眼。
その二つだけで、顔の半分以上を占めていた。
口元からは、針のような突起物が伸びている。
「ジジ……ジジジ……」
まるで――ハエ。
ハエの頭を持つ、人間。
異形と化した少女は、倒れた女子部員の首筋へ突起物を突き刺していた。
そして――。
ずずっ――。
血を啜っている。
「お、おい! 笠井、待って――」
遅れて江口が追いついた。
「うわあああああああッ!!」
その叫び声に――。
「ジ……?」
ハエ人間が反応した。
ゆっくりと顔を上げる。
巨大な赤い複眼が、笠井と江口を捉えた。
「ジジッ!!」
床を蹴る。
「う、うわああああああ!!」
江口は完全に腰を抜かし、その場へ尻もちをついた。
針のような突起物が、一直線に迫る。
シュッ!!
だが――。
ゴッ!!
笠井の回し蹴りが、ハエ人間の胴体へめり込んだ。
「ジッ――!?」
異形の身体が真横へ吹き飛ぶ。
戸棚へ激突し、大きな音を立てて床へ崩れ落ちた。
「……ジ、ジジ……」
身体が僅かに痙攣する。
だが、すぐには起き上がってこない。
「す、すげえ……」
江口が呆然と呟いた。
しかし、驚いているのは笠井も同じだった。
西条を押さえた時も、廊下を走った時も、そして今も、明らかに自分の身体がおかしい。
(これは……いったい何なんだ?)
それでも、今は考えている暇などなかった。
笠井は保健室にあった包帯を掴むと、何重にも巻きつけて倒れたハエ人間を拘束した。
「これで……こいつは何とかなったか」
荒い息を吐く。
だが――。
「お、おい……笠井」
「何だよ?」
江口の声が震えていた。
ゆっくりと、笠井の背後を指差している。
「……そんな展開は、ないと思いたかったんだけどよ」
「…………」
笠井も振り返った。
先ほど血を吸われていた女子部員。
その身体が――ゆらりと動いた。
「……ジジ」
ゆっくりと立ち上がる。
両眼が膨れ上がり、口元が裂け、顔そのものが次第に人間の形を失っていく。
「ジジジ……」
「……やっぱり」
笠井は腰を落とした。
「悪い予感ってのは、当たるもんだな!!」
拳を構える。
だが、その時――。
「ジジ……」
「ジジジ……」
「……ッ」
保健室の外、暗い廊下から、一体、また一体と異形が姿を現した。
「あ、あれ……」
江口の顔から血の気が引く。
「多分……先輩たちだろうな」
三年生らしきハエ人間たちが、次々と集まってくる。
前、横、そして背後。
逃げ道を塞ぐように、笠井たちを取り囲んでいった。
「このままじゃあ……袋のネズミってか」
絶望的な状況。
普通なら、恐怖に身体が竦んでもおかしくない。
それなのに、笠井の身体の奥から次々と力が湧き上がってくる。
(……何だ?)
怖くないわけではない。
だが――それ以上に、妙な高揚感が胸の奥から込み上げていた。
水の中を、ただ前だけを見て泳いでいる時のように、余計なことが頭から消えていく。
「……よし」
「え?」
笠井は江口を見る。
「おい、江口。少しばかり、口を閉じてな!!」
「は?」
江口が反射的に両手で口を塞ぐ。
次の瞬間、笠井はその身体を片腕で抱きかかえた。
「な、何する気だよ!?」
「ジジジッ!!」
周囲を取り囲んでいたハエ人間たちが、一斉に飛び掛かる。
笠井は床を強く踏み込んだ。
「でないと――」
笑う。
「舌、かんじまうからな!!」
「――ッ!?」
そして、江口を抱えたまま――迫り来るハエ人間の群れへ、真正面から飛び込んでいった。
次回予告
閉ざされた校舎。
人ならざる姿へ変貌していく部員たち。
逃げ場を失った笠井は、江口を抱えたまま怪物の群れへ飛び込む。
しかし――異変は、すでに校舎全体へ広がっていた。
それは、ひとりから、またひとりへ。
次回、第93話「感染」




