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夢幻開現師―悪夢を断つ者―  作者: ks21
第零章:「胡馬北風《上》」
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第91話「水面下」

 鬼哭餓亂城《きこくがらんじょう》での戦いが終わり、笠井は和泉の病室を後にした。


 鬼の大将である朱天将《しゅてんしょう》を打ち倒した和泉だが、その後遺症はまだ重い。


 和泉だけではない。


 理恵も、杏樹も、亜子も。


 熾烈を極めた戦いは、今もなお彼らの精神に深い傷を残していた。


(黒の部隊も、しばらくは動けんな……)


 和泉以外のメンバーもまた、それぞれの居場所へ戻っている。


(しかし――)


 笠井には、ある予感があった。


 この戦いを乗り越えた四人の若者たちは、きっと新たな段階へと到達する。


 そんな予感は、すでに確信へと変わりつつあった。


(では、そんなあいつらに俺は何ができる?)


 病棟を出て、病院の敷地をふらりと歩きながら、笠井は考える。


 鬼哭餓亂城の侵攻を止めるためとはいえ、彼は再び悪鬼転生《あっきてんしょう》を行った。


 王倶《オーグ》という、悪鬼を超えた存在の力を行使した代償は大きい。


「また、力を使えなくなっちまったな……」


 自身の力が著しく低下していることは、笠井自身が一番よく分かっていた。


 情けなさが胸の内へ広がっていく。


 近くの自動販売機で缶コーヒーを買い、その横にある椅子へ腰掛けた。


 敷地では、見舞客やリハビリを兼ねた患者たちが行き交っている。


 その姿をぼんやりと眺めながら、笠井は呟いた。


「……俺一人でも、何とかできると思っていたんだがな」


 缶コーヒーを一口飲み、膝に腕を置く。


 かつては、どんな逆境に立たされても、自分の力だけで乗り越えられると思っていた。


 誰かに頼らなくても。


 誰かに助けを求めなくても。


 自分さえ強ければ、何とかできる。


 そう信じていた時代が、確かにあった。


 この先に続く輝かしい未来を、何の疑いもなく夢見ていた。


 ただ流れ、過ぎ去っていく時間の中で――笠井は一人、遠い過去へと思いを馳せる。


◇◇◇


 笠井が初めて開現師としての力を発現させたのは、忘れもしない、まだ14歳の頃だった。


 中学二年生。


 思春期真っ盛りだった笠井は、当時、水泳部に所属していた。


 別に、水泳が特段好きだったというわけではない。


 単に、水の中を泳いでいる間だけは、何も煩わしいことに囚われずに済んだからだ。


「おい、笠井! 今度の合宿は参加するんだよな?」


 泳ぎ終えた笠井に、隣のレーンから声が掛かった。


 少年の名は、江口瞬《えぐちしゅん》。


 笠井と同級生であり、彼を水泳部に誘ったのも江口だった。


「ああ……まあ、多分な」


「おい! まだおやじさんに言ってないのかよ!!」


 笠井の曖昧な返事に、江口はむすっとした顔をする。


「んだよ、お前は俺の何なんだよ?」


「ああ!? そりゃあ、亮! お前の親友だろうが!!」


 何の迷いもなく言い切る。


 プールサイドへ上がり、二人はシャワーで身体についた塩素を洗い流した。


「そういうことを、はっきり言えるお前がうらやましいよ」


「何だよ、それ」


 濡れた身体をタオルで拭きながら、笠井は江口を見る。


 日に焼けた黒い肌に、からっとした笑顔。


 ぶっきらぼうな自分とは違い、誰とでもすぐに打ち解けられるタイプだった。


「あったり前だろ? お前がいないと寂しいじゃん」


「…………」


 ――別に、俺がいなくてもいいだろ。


 そう言おうとして、笠井は胸の内に留めた。


「……ああ。今日、帰ったらおやじに言うよ」


「おうよ!」


 江口が自分を心配してくれていることは、笠井にも分かっていたからだ。


 笠井は幼い頃に母を亡くし、父親と二人で暮らしていた。


 しかし――父を嫌っていた。


 母が亡くなった時でさえ、父は仕事を理由に帰って来なかったからだ。


 母だけは最期まで、


『お父さんは、とっても真面目で優しい人なの……』


 そう言って父を庇っていた。


 だが、幼い笠井にはその言葉を受け止めることなどできなかった。


 以来、父とはまともに話せなくなっていた。


 今回の合宿にも、当然ながら保護者の同意書が必要だった。


 だが、そのために父へ署名を頼むこと自体が、笠井には鬱陶しかった。


 何と言えばいいのか、分からない。


 たった一枚の紙を渡すだけ。


 それだけのことが、どうしてもできずにいた。


 しかし、江口に言った以上、これ以上避けてもいられない。


 その日の夜。


 笠井は帰宅した父に、意を決して声を掛けた。


「……あのさ」


「何だ、どうした?」


 椅子に腰掛けた父が、笠井を見た。


 真っ直ぐな視線。


 その目を向けられた瞬間、次に続けるはずだった言葉が飛んだ。


 頭の中では、何を言うのか分かっている。


 それなのに口から出てこない。


 父を前にすると、胸の奥がぞわぞわとして、不快感ばかりが膨らんでいく。


「…………」


 自分から切り出したにもかかわらず、続きを口にできない。


「ああ、そういえば。亮」


 逆に、父の方から話題を振ってきた。


「な、何だよ」


 自分から話しかけておきながら、つい苛立ったような声が出てしまう。


 そんな自分が嫌になる。


「お前、来週、部活の合宿があるんじゃないのか?」


「なんで、それを――」


 思いもしなかった言葉だった。


「顧問の先生が、まだ同意書の提出がないって連絡をくれたんだよ」


「……ああ、西条先生から」


 父は手を前に差し出した。


「ほら、同意書を渡しなさい」


「あ、ああ」


 笠井は鞄から封筒を取り出し、中に入れていた同意書を渡した。


 父はすぐに内容へ目を通し、署名を済ませる。


「ほら」


「……ありがと」


 受け取った同意書を、笠井は封筒へ戻した。


「こういう機会は学生時代にしかないんだから、遠慮せず言いなさい」


 父はそう言って、真っ直ぐ笠井を見つめる。


「…………」


 やはり、その目は苦手だった。


 何を考えているのか分からない。


 どうして、そこまで真っ直ぐ自分を見るのかも分からない。


「……ああ、分かったよ」


 それだけ答え、笠井は父から視線を逸らした。


◇◇◇


 そして、合宿当日。


「よっしゃあ! 来たな、亮!!」


「うるせえな。朝から」


 無事に参加できた笠井を、江口は大いに喜んでいた。


 合宿とはいえ、当然ながら練習はある。


 いや、普段よりも激しい。


 夏の大会も、もうすぐそこまで迫っていた。


 県大会でも上位に入る笠井へ課されるメニューには、自然と熱がこもっていく。


「笠井、一本付き合ってくれないか?」


 休憩していた笠井へ声を掛けてきたのは、部長の坂口だった。


 三年生である彼にとって、今度の大会が最後となる。


 中学生最後の大会へ懸ける意気込みは、並々ならないのだろう。


「いいっすよ、部長」


 答えた笠井の横から、江口も顔を出した。


「じゃあ、俺も一緒にいいっすか?」


「ああ、もちろん」


 そうして三人で、50メートルを一本泳ぐことになった。


パンッ!!


 合図と同時に、三人は水の中へ飛び込む。


 水流に身を委ねながら、笠井は素早く腕と足を動かした。


 まだ息継ぎはしない。


 そのまま一気に水を掻き進む。


 流れる水の中で、笠井は一人きりになる。


 この瞬間だけは、あらゆることを忘れられた。


 家のことも。


 父のことも。


 何も考えなくていい。


 ぱっと顔を上げ、勢いよく息を吸い込む。


 ここにいる間だけは、誰にも自分を捉えることはできない。


 水中でターンを決め、壁を思い切り蹴った。


 身体が一気に加速する。


 水の中を滑るように、ぐんぐんと前へ進んでいく。


 そして、ラストスパート。


 すでに勝敗は決まっていた。


 それでも最後まで手は抜かず、そのまま壁へ手を伸ばす。


 最後のタッチを決めた。


「はあ、はあ……ありがとう、笠井」


 膝に手を置き、肩で息をしながら坂口が声を掛ける。


「……いえ。俺もいい気分転換になりました」


「江口も、ありがとな」


 少し遅れて江口がプールサイドへ上がってくる。


「……い、いえ」


 まだ息を整えるので精一杯らしい。


「さあ、最後のメニューを始めるぞ!」


 そこへ、顧問の西条が声を掛けてきた。


「あ、先生」


「ん?」


 笠井が呼び止める。


「あの、合宿のこと……ありがとうございました」


 西条は何事かと目をぱちくりさせていたが、すぐに思い出したように笑った。


「いや。君も楽しみなよ」


「……はい」


◇◇◇


 そうして笠井たちは午後のメニューを終え、校舎へ戻った。


 今回の合宿は、校舎を借りて行われている。


 夕飯も部員たち全員で協力して作ることになっていた。


 家庭科室を借り、わいわいと声を交わしながらカレーを作る。


 誰かが野菜を焦がしただの、ご飯が少し柔らかすぎただのと、そんなくだらない話で笑い合いながら、全員で出来上がった夕飯を頬張った。


 食事を終える頃になっても、話題は尽きなかった。


 それから、それぞれの教室で就寝の準備を始める。


 笠井も準備を終え、歯を磨いていると、坂口が声を掛けてきた。


「笠井、今日はありがとな」


「いえ。部長も最後の大会、一緒に頑張りましょうね」


「ああ」


 二人並んで口をゆすぎ、それぞれの教室へ戻ろうとする。


「あ」


 その時、坂口が足を止めた。


「――夜も、存分に楽しんでくれよ」


「……?」


 意味を尋ねる間もなく、坂口は三年生が寝る教室へ戻っていった。


「なんだ、あれ……」


「おい、亮! もう寝るぞ!!」


「おう」


 江口に呼ばれ、笠井も教室へ戻った。


 毛布と掛け布団だけという簡易な寝床だったが、練習で疲れ切っていた笠井には十分だった。


 横になり、瞼を閉じる。


 ほどなくして、意識は深い眠りへ沈んでいった。


◇◇◇


 どれくらい経っただろうか。


 笠井は、ぱっと目を開けた。


「…………?」


 まだ夜は明けていないらしい。


 窓の外は漆黒に覆われていた。


 教室の中も、当然ながら暗闇に包まれている。


 だが――。


「……江口?」


 笠井は身体を起こした。


 隣にいたはずの江口がいない。


 それだけではなかった。


 周りで寝ていた二年生たちも、誰一人として残っていなかった。


「……何か、あったのか?」


 立ち上がり、教室を出る。


 廊下も暗い。


 人の気配すら感じられない。


 そのまま三年生が使っていた教室を覗く。


 やはり、誰もいない。


 一年生の教室も、もぬけの殻だった。


「はあ……いったい、どこに行ったんだよ」


 全員で何か悪ふざけでもしているのか。


 そう考えてみたものの、それにしてはあまりにも大掛かりだった。


 廊下を歩いていると、階段の下から人の声が聞こえてきた。


 一階へ下りる。


 昇降口の前には、部員たちが集まっていた。


 その中には江口の姿もある。


「お、笠井も起きたか」


「いったい、どうしたんだよ?」


 笠井も皆の輪へ入った。


「いや、部長が肝試しをしようって……」


「はあ!? 今から?」


 意味が分からない。


 するならするで、寝る前にやればよかったものを。


「で、部長たちは?」


「他の先輩たちと一緒に、準備に行ったよ」


 江口の言う通り、三年生の姿はない。


「はい! せっかく先輩たちが準備してるんだから、みんなもペアを組んで!!」


 顧問の西条も、部員たちへ指示を飛ばした。


 教師である西条にまでそう言われ、部員たちの戸惑いも次第に薄れていく。


 やがて皆、喜々としてペアを組み始めた。


「笠井、一緒に行こうぜ」


「……ああ」


 そんな中、江口だけは最初から、この状況を楽しんでいるようだった。

次回予告


 楽しいはずの夏合宿。


 だが、真夜中の校舎には、笠井だけが感じ取る奇妙な違和感が広がっていた。


 そして始まる、深夜の肝試し。


 夜の校舎で――何かが動き始める。


 次回、第92話「閉ざされた夜」

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