第91話「水面下」
鬼哭餓亂城での戦いが終わり、笠井は和泉の病室を後にした。
鬼の大将である朱天将を打ち倒した和泉だが、その後遺症はまだ重い。
和泉だけではない。
理恵も、杏樹も、亜子も。
熾烈を極めた戦いは、今もなお彼らの精神に深い傷を残していた。
(黒の部隊も、しばらくは動けんな……)
和泉以外のメンバーもまた、それぞれの居場所へ戻っている。
(しかし――)
笠井には、ある予感があった。
この戦いを乗り越えた四人の若者たちは、きっと新たな段階へと到達する。
そんな予感は、すでに確信へと変わりつつあった。
(では、そんなあいつらに俺は何ができる?)
病棟を出て、病院の敷地をふらりと歩きながら、笠井は考える。
鬼哭餓亂城の侵攻を止めるためとはいえ、彼は再び悪鬼転生を行った。
王倶という、悪鬼を超えた存在の力を行使した代償は大きい。
「また、力を使えなくなっちまったな……」
自身の力が著しく低下していることは、笠井自身が一番よく分かっていた。
情けなさが胸の内へ広がっていく。
近くの自動販売機で缶コーヒーを買い、その横にある椅子へ腰掛けた。
敷地では、見舞客やリハビリを兼ねた患者たちが行き交っている。
その姿をぼんやりと眺めながら、笠井は呟いた。
「……俺一人でも、何とかできると思っていたんだがな」
缶コーヒーを一口飲み、膝に腕を置く。
かつては、どんな逆境に立たされても、自分の力だけで乗り越えられると思っていた。
誰かに頼らなくても。
誰かに助けを求めなくても。
自分さえ強ければ、何とかできる。
そう信じていた時代が、確かにあった。
この先に続く輝かしい未来を、何の疑いもなく夢見ていた。
ただ流れ、過ぎ去っていく時間の中で――笠井は一人、遠い過去へと思いを馳せる。
◇◇◇
笠井が初めて開現師としての力を発現させたのは、忘れもしない、まだ14歳の頃だった。
中学二年生。
思春期真っ盛りだった笠井は、当時、水泳部に所属していた。
別に、水泳が特段好きだったというわけではない。
単に、水の中を泳いでいる間だけは、何も煩わしいことに囚われずに済んだからだ。
「おい、笠井! 今度の合宿は参加するんだよな?」
泳ぎ終えた笠井に、隣のレーンから声が掛かった。
少年の名は、江口瞬。
笠井と同級生であり、彼を水泳部に誘ったのも江口だった。
「ああ……まあ、多分な」
「おい! まだおやじさんに言ってないのかよ!!」
笠井の曖昧な返事に、江口はむすっとした顔をする。
「んだよ、お前は俺の何なんだよ?」
「ああ!? そりゃあ、亮! お前の親友だろうが!!」
何の迷いもなく言い切る。
プールサイドへ上がり、二人はシャワーで身体についた塩素を洗い流した。
「そういうことを、はっきり言えるお前がうらやましいよ」
「何だよ、それ」
濡れた身体をタオルで拭きながら、笠井は江口を見る。
日に焼けた黒い肌に、からっとした笑顔。
ぶっきらぼうな自分とは違い、誰とでもすぐに打ち解けられるタイプだった。
「あったり前だろ? お前がいないと寂しいじゃん」
「…………」
――別に、俺がいなくてもいいだろ。
そう言おうとして、笠井は胸の内に留めた。
「……ああ。今日、帰ったらおやじに言うよ」
「おうよ!」
江口が自分を心配してくれていることは、笠井にも分かっていたからだ。
笠井は幼い頃に母を亡くし、父親と二人で暮らしていた。
しかし――父を嫌っていた。
母が亡くなった時でさえ、父は仕事を理由に帰って来なかったからだ。
母だけは最期まで、
『お父さんは、とっても真面目で優しい人なの……』
そう言って父を庇っていた。
だが、幼い笠井にはその言葉を受け止めることなどできなかった。
以来、父とはまともに話せなくなっていた。
今回の合宿にも、当然ながら保護者の同意書が必要だった。
だが、そのために父へ署名を頼むこと自体が、笠井には鬱陶しかった。
何と言えばいいのか、分からない。
たった一枚の紙を渡すだけ。
それだけのことが、どうしてもできずにいた。
しかし、江口に言った以上、これ以上避けてもいられない。
その日の夜。
笠井は帰宅した父に、意を決して声を掛けた。
「……あのさ」
「何だ、どうした?」
椅子に腰掛けた父が、笠井を見た。
真っ直ぐな視線。
その目を向けられた瞬間、次に続けるはずだった言葉が飛んだ。
頭の中では、何を言うのか分かっている。
それなのに口から出てこない。
父を前にすると、胸の奥がぞわぞわとして、不快感ばかりが膨らんでいく。
「…………」
自分から切り出したにもかかわらず、続きを口にできない。
「ああ、そういえば。亮」
逆に、父の方から話題を振ってきた。
「な、何だよ」
自分から話しかけておきながら、つい苛立ったような声が出てしまう。
そんな自分が嫌になる。
「お前、来週、部活の合宿があるんじゃないのか?」
「なんで、それを――」
思いもしなかった言葉だった。
「顧問の先生が、まだ同意書の提出がないって連絡をくれたんだよ」
「……ああ、西条先生から」
父は手を前に差し出した。
「ほら、同意書を渡しなさい」
「あ、ああ」
笠井は鞄から封筒を取り出し、中に入れていた同意書を渡した。
父はすぐに内容へ目を通し、署名を済ませる。
「ほら」
「……ありがと」
受け取った同意書を、笠井は封筒へ戻した。
「こういう機会は学生時代にしかないんだから、遠慮せず言いなさい」
父はそう言って、真っ直ぐ笠井を見つめる。
「…………」
やはり、その目は苦手だった。
何を考えているのか分からない。
どうして、そこまで真っ直ぐ自分を見るのかも分からない。
「……ああ、分かったよ」
それだけ答え、笠井は父から視線を逸らした。
◇◇◇
そして、合宿当日。
「よっしゃあ! 来たな、亮!!」
「うるせえな。朝から」
無事に参加できた笠井を、江口は大いに喜んでいた。
合宿とはいえ、当然ながら練習はある。
いや、普段よりも激しい。
夏の大会も、もうすぐそこまで迫っていた。
県大会でも上位に入る笠井へ課されるメニューには、自然と熱がこもっていく。
「笠井、一本付き合ってくれないか?」
休憩していた笠井へ声を掛けてきたのは、部長の坂口だった。
三年生である彼にとって、今度の大会が最後となる。
中学生最後の大会へ懸ける意気込みは、並々ならないのだろう。
「いいっすよ、部長」
答えた笠井の横から、江口も顔を出した。
「じゃあ、俺も一緒にいいっすか?」
「ああ、もちろん」
そうして三人で、50メートルを一本泳ぐことになった。
パンッ!!
合図と同時に、三人は水の中へ飛び込む。
水流に身を委ねながら、笠井は素早く腕と足を動かした。
まだ息継ぎはしない。
そのまま一気に水を掻き進む。
流れる水の中で、笠井は一人きりになる。
この瞬間だけは、あらゆることを忘れられた。
家のことも。
父のことも。
何も考えなくていい。
ぱっと顔を上げ、勢いよく息を吸い込む。
ここにいる間だけは、誰にも自分を捉えることはできない。
水中でターンを決め、壁を思い切り蹴った。
身体が一気に加速する。
水の中を滑るように、ぐんぐんと前へ進んでいく。
そして、ラストスパート。
すでに勝敗は決まっていた。
それでも最後まで手は抜かず、そのまま壁へ手を伸ばす。
最後のタッチを決めた。
「はあ、はあ……ありがとう、笠井」
膝に手を置き、肩で息をしながら坂口が声を掛ける。
「……いえ。俺もいい気分転換になりました」
「江口も、ありがとな」
少し遅れて江口がプールサイドへ上がってくる。
「……い、いえ」
まだ息を整えるので精一杯らしい。
「さあ、最後のメニューを始めるぞ!」
そこへ、顧問の西条が声を掛けてきた。
「あ、先生」
「ん?」
笠井が呼び止める。
「あの、合宿のこと……ありがとうございました」
西条は何事かと目をぱちくりさせていたが、すぐに思い出したように笑った。
「いや。君も楽しみなよ」
「……はい」
◇◇◇
そうして笠井たちは午後のメニューを終え、校舎へ戻った。
今回の合宿は、校舎を借りて行われている。
夕飯も部員たち全員で協力して作ることになっていた。
家庭科室を借り、わいわいと声を交わしながらカレーを作る。
誰かが野菜を焦がしただの、ご飯が少し柔らかすぎただのと、そんなくだらない話で笑い合いながら、全員で出来上がった夕飯を頬張った。
食事を終える頃になっても、話題は尽きなかった。
それから、それぞれの教室で就寝の準備を始める。
笠井も準備を終え、歯を磨いていると、坂口が声を掛けてきた。
「笠井、今日はありがとな」
「いえ。部長も最後の大会、一緒に頑張りましょうね」
「ああ」
二人並んで口をゆすぎ、それぞれの教室へ戻ろうとする。
「あ」
その時、坂口が足を止めた。
「――夜も、存分に楽しんでくれよ」
「……?」
意味を尋ねる間もなく、坂口は三年生が寝る教室へ戻っていった。
「なんだ、あれ……」
「おい、亮! もう寝るぞ!!」
「おう」
江口に呼ばれ、笠井も教室へ戻った。
毛布と掛け布団だけという簡易な寝床だったが、練習で疲れ切っていた笠井には十分だった。
横になり、瞼を閉じる。
ほどなくして、意識は深い眠りへ沈んでいった。
◇◇◇
どれくらい経っただろうか。
笠井は、ぱっと目を開けた。
「…………?」
まだ夜は明けていないらしい。
窓の外は漆黒に覆われていた。
教室の中も、当然ながら暗闇に包まれている。
だが――。
「……江口?」
笠井は身体を起こした。
隣にいたはずの江口がいない。
それだけではなかった。
周りで寝ていた二年生たちも、誰一人として残っていなかった。
「……何か、あったのか?」
立ち上がり、教室を出る。
廊下も暗い。
人の気配すら感じられない。
そのまま三年生が使っていた教室を覗く。
やはり、誰もいない。
一年生の教室も、もぬけの殻だった。
「はあ……いったい、どこに行ったんだよ」
全員で何か悪ふざけでもしているのか。
そう考えてみたものの、それにしてはあまりにも大掛かりだった。
廊下を歩いていると、階段の下から人の声が聞こえてきた。
一階へ下りる。
昇降口の前には、部員たちが集まっていた。
その中には江口の姿もある。
「お、笠井も起きたか」
「いったい、どうしたんだよ?」
笠井も皆の輪へ入った。
「いや、部長が肝試しをしようって……」
「はあ!? 今から?」
意味が分からない。
するならするで、寝る前にやればよかったものを。
「で、部長たちは?」
「他の先輩たちと一緒に、準備に行ったよ」
江口の言う通り、三年生の姿はない。
「はい! せっかく先輩たちが準備してるんだから、みんなもペアを組んで!!」
顧問の西条も、部員たちへ指示を飛ばした。
教師である西条にまでそう言われ、部員たちの戸惑いも次第に薄れていく。
やがて皆、喜々としてペアを組み始めた。
「笠井、一緒に行こうぜ」
「……ああ」
そんな中、江口だけは最初から、この状況を楽しんでいるようだった。
次回予告
楽しいはずの夏合宿。
だが、真夜中の校舎には、笠井だけが感じ取る奇妙な違和感が広がっていた。
そして始まる、深夜の肝試し。
夜の校舎で――何かが動き始める。
次回、第92話「閉ざされた夜」




