第90話「戦いの余韻」
蒼炎の一撃が、朱天将の肉体を正中から両断した。
致命傷を負った城の主に呼応するように、すでに始まっていた鬼哭餓亂城の崩壊は、一気に加速する。
轟音。
和泉たちの足元を、無数の亀裂が駆け抜けた。
それでも――。
蒼炎に身を焼かれながら、朱天将は笑っていた。
「ハハハハハ! まさに愉悦よ!!」
炎の奥から、光を失わぬ瞳が和泉を射抜く。
「誇れ。いかなる手段を用いようとも、貴様らが我を討ち取ったことは、紛うことなき事実よ」
「朱天……お前の狙いは何だったんだ?」
和泉は灰切を支えながら問いかけた。
「こんな城を顕現させたところで、いずれ菩提府に討たれることくらい、分かっていたはずだ」
朱天将は、喉の奥で笑う。
「やはり、今の貴様には分からぬか……」
「何……?」
崩れかけた右手が、自らの胸へ突き入れられた。
焼け焦げた肉を掻き分け、その奥から何かを引きずり出す。
朱天将を崩界皇へと覚醒させた元凶――。
堕龕の魔種。
朱天将の肉体を焼き尽くす蒼炎の中で、魔種だけは燃えていなかった。
むしろ、その黒々とした輝きは増している。
「我もまた……所詮は、尖兵にすぎぬ」
「尖兵……?」
朱天将は、崩れかけた腕を高く掲げた。
掌の中で、《堕龕の魔種》が脈打つ。
「されど――」
朱天将の口元が、愉悦に歪んだ。
「我が一手が、世界を次なる段階へと押し上げる!!」
「やめろ、朱天!!」
和泉が叫ぶ。
だが、遅かった。
朱天将は、《堕龕の魔種》を握り潰した。
瞬間――。
内包されていた膨大な瘴気が、一気に解き放たれる。
「――ッ!?」
赤黒い濁流が城内を呑み込み、鬼哭餓亂城の外へ噴き出した。
丹後の夜空へ放たれた瘴気は、瞬く間に広がっていく。
京都を越え――日本全土へ。
「朱天! てめえ、何をした!?」
蒼炎に身体を崩されながら、朱天将は答えた。
「今、放たれた瘴気によって……この国における夢と現実の結びつきは、より強固なものとなった」
「夢と現実の……結びつき?」
「これより、夢は現世へ近づく。そして現世もまた、夢へ引き寄せられる」
朱天将の肩が崩れ、黒煙へと変わった。
「待て! どういう意味だ!?」
「すぐに分かる……」
崩れゆく己の身体を見下ろし、朱天将は最期まで笑っていた。
「では、我は先に逝く。あとは、貴様らの好きにするがよい」
蒼炎が、その肉体を黒い灰へ変えていく。
夜風に乗り、黒煙が月夜へと昇る。
その中に、朱天将の声だけが残った。
『我は先に――《黒き母神》の御許へ召されるとしよう』
「黒き母神……?」
その名を残し、朱天将は完全に消滅した。
同時に、鬼哭餓亂城を支えていた最後の力も失われる。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ――!!
床が砕け、和泉の足場が崩れ落ちた。
「くッ……!」
踏ん張るだけの力は、もう残っていない。
和泉の身体は瓦礫とともに投げ出され、月夜の空へと放り出された。
(みんなは……どうなった……?)
薄れゆく意識の中、仲間たちの姿が浮かぶ。
理恵。
杏樹。
亜子。
花奈。
梓。
そして、ともに戦ったすべての者たち。
(このまま……夢から醒められるのか……?)
現実へ戻れる保証など、どこにもない。
だが、今の和泉には何もできなかった。
身体から力が抜けていく。
闇へ落ちていく。
その時――。
「心配するな」
聞き覚えのある声が届いた。
「お前たちは、必ず眼を醒ます」
かつて、自分を暗い夢の底から救い出してくれた恩師の声。
「……笠井、さん……?」
落下する和泉の身体を、力強い腕が受け止めた。
薄れゆく視界の中、黒き外套が夜風にはためいている。
「よくやったな、和泉」
その一言で、張り詰めていたものが切れた。
笠井の腕に抱かれた和泉の肉体を、淡い光が包んでいく。
指先から光の粒子へと変わり、夜空へ溶けていく。
和泉は静かに瞼を閉じた。
永き悪夢の終わりを、信じながら――。
◇◇◇
世界の裏――その深淵にて。
月夜へ昇った黒煙が、漆黒の底へ流れ着く。
そして、眠り続けていた少女の内へと還っていった。
その瞬間。
少女の瞳が開く。
「おかえりなさい」
まどろみの中、少女は優しく微笑んだ。
その穏やかな笑みは、何も存在しない虚無の中で、かえって異様なものに映る。
少女はゆっくりと身を起こし、闇へ足を下ろした。
漆黒の世界で、黒いワンピースと赤い靴だけが鮮やかに浮かび上がる。
「おはようございます。良き夢は見られましたか?」
闇の奥から、男の声が響いた。
「さあ? どんな夢だったかしら」
少女は振り返らず、ただ楽しげに微笑んだ。
「朱天の働きにより、世界の均衡は傾き始めました」
少女の背後には、黄土色の袈裟をまとった僧形の男が跪いていた。
剃り上げた頭と、両眼を覆う黒布。
その身から漂う気配は、あまりにも禍々しい。
「我らも、己が役目を果たしてよろしいでしょうか?」
少女は答えず、微かな笑みを浮かべた。
しかし、それで十分だった。
「では、御意のままに」
男は深く頭を垂れ、そのまま音もなく闇へ溶けていった。
一人残された少女は、何もない虚空を仰ぐ。
それでも少女は、誰かを見つめるように笑った。
「また、会えるね――“始”」
◇◇◇
微睡の中。
漆黒に沈んだ世界の中心で、和泉は少女と向かい合っていた。
黒いワンピース。
赤い靴。
儚げな笑み。
少女は、懐かしいものを見るように和泉を見つめていた。
その唇が、ゆっくりと動く。
(何を……言ってるんだ?)
声は聞こえない。
深い水の底から響くように、言葉は輪郭を失っていた。
それでも、少しずつ音が届き始める。
「……じめ」
「誰なんだ……君は?」
問いかけた瞬間、和泉の胸を激しい痛みが貫いた。
罪悪感。
後悔。
理由の分からない感情が、胸の奥から溢れ出す。
(何だ……この感覚は……?)
一瞬だけ、少女の瞳に深い悲しみが宿った。
自分が傷つけた。
そう思っただけで、胸が引き裂かれそうになる。
だが次の瞬間、少女の瞳には、再び憂いを帯びた妖しい光が灯っていた。
「――また会いましょう、始」
「始……?」
途端、和泉の身体が後方へ引かれた。
「なっ……!?」
見えない力が、和泉を闇の外へ連れ去ろうとしている。
少女との距離が、一気に開いた。
「待ってくれ!!」
叫びは届かない。
少女はただ、遠ざかる和泉を寂しげに、それでもどこか嬉しそうに見つめていた。
「必ず……必ず、もう一度ここに来るから!!」
なぜ、そんな言葉が口から出るのか。
自分は少女を知っているのか。
なぜ、彼女の悲しみが、これほど胸を締めつけるのか。
何一つ分からない。
それでも、叫ばずにはいられなかった。
「必ずだ! だから――」
和泉は必死に手を伸ばす。
だが、その指先は少女へ届かない。
「だから、待っていてくれ!!」
少女の姿が、闇の彼方へ消えていく。
その瞬間。
和泉の口から、一つの名前がこぼれ落ちた。
「九十九――!!」
◇◇◇
和泉が再び眼を醒ましたのは――。
事件発生から、およそ一週間後のことだった。
「九十九――!!」
自らの叫び声に弾かれ、和泉は勢いよく上体を起こした。
「はっ……はっ……!」
白い天井。
清潔な病室。
開け放たれた窓から吹き込む風が、薄いカーテンを揺らしている。
胸の痛み。
乾いた喉。
頬を撫でる風の冷たさ。
そのすべてが、ここは現実だと告げていた。
反対に、少女の姿は急速に霞んでいく。
(誰だったんだ……?)
黒いワンピース。
赤い靴。
九十九という名。
忘れてはいけない。
そう思うほど、その面影は記憶の底へ沈んでいった。
「――起きたか」
「……っ!」
声に振り向く。
ベッド脇の椅子に、笠井が座っていた。
「……笠井、先生……?」
乾いた喉から、掠れた声が漏れる。
「ここは……?」
「まだ記憶が混乱しているようだな。無理もない」
笠井は水差しを手に取り、コップへ水を注いだ。
「飲め。ゆっくりとな」
「……ありがとうございます」
和泉は差し出された水を少しずつ飲んだ。
冷たさが、喉から身体へ染み渡っていく。
「俺……ずっと眠ってたんですか?」
「ああ」
笠井は空になったコップを受け取った。
「あの城から救出されて、約一週間だ」
「一週間……?」
和泉にとっては、ほんの一瞬だった。
だが、現実では七日もの時間が過ぎている。
「ほ、他のみんなは!?」
「安心しろ。全員、生きてる」
「……よかった」
張り詰めていた息が、一気に漏れた。
「他の連中は、お前より先に眼を醒ました。結局、お前が最後だったな」
笠井はコップを机へ置き、僅かに笑う。
「あの三人、お前が起きるまでは残るって、散々駄々をこねてたぞ」
「三人が……?」
「ああ。追い返すのに骨が折れた」
理恵が声を荒らげ、杏樹が涙ながらに抗議し、亜子が黙って居座る。
その光景が、容易に想像できた。
「みんなは今、どこに?」
「眼を醒ましたとはいえ、受けた損傷は大きい。所長と相談して、それぞれの居場所で療養させることにした」
理恵は梓とともに、來瀬川家の屋敷へ。
杏樹は、家族のいる東京へ。
亜子は、本来の師のもとへ戻ったという。
「七瀬さんと氷川さん、それに淳さんは?」
「七瀬は事務所で、今回の事件の資料整理だ。氷川さんなら、この部屋の外にいる」
「外に?」
「全快もしてないのに、お前が起きるまでは離れないって聞かなくてな。七瀬も氷川さんも、じっとしていられないらしい」
書類の山に埋もれる花奈と、険しい顔で廊下に立つ氷川。
その姿を想像し、和泉は小さく笑った。
「大久保は、今回の件が相当堪えたようだ」
「淳さんが……?」
「もう一度、徳井さんの下で一から鍛え直すそうだ」
「……そうですか」
事件から一週間。
仲間たちはすでに眼を醒まし、それぞれの場所へ戻り始めている。
自分だけが、時間の流れに取り残されたようだった。
「ところで、身体に異常はないか?」
笠井の問いに、和泉は腕を動かしてみる。
「ずっと寝てたせいか、身体はバキバキですけど……特には――」
言いかけて、止まった。
「……あれ?」
意識を、自分の内側へ沈める。
(白影……?)
返事はない。
(おい、白影。聞こえてるんだろ?)
何も返ってこない。
声だけではなかった。
これまで意識の奥に存在していた気配そのものが、消えている。
「白影……?」
胸の内側に、大きな穴が空いたようだった。
いつしか、そこにいることが当たり前になっていた存在。
その声も、気配も、どこにもない。
「白影の声が……聞こえない」
「……やはりか」
笠井の表情が険しくなる。
「お前が眠っている間、何度も検査した。だが、お前から悪鬼の反応はほとんど確認できなかった」
「それって……」
喉が震える。
「白影は……死んだんですか?」
「分からない」
笠井は、慰めることなく言い切った。
「白影そのものが消滅した証拠はない。だが――」
真っすぐに和泉を見つめる。
「今のお前と白影の繋がりは、完全に途絶えている」
「繋がりが……」
「ああ。声が聞こえないだけじゃない。悪鬼招来も使えないはずだ」
和泉は、自らの掌を見つめた。
朱天将との戦いで感じた熱。
身体の奥底から噴き上がった、蒼い炎。
そのすべてが、跡形もなく消えている。
「和泉」
笠井の声に顔を上げる。
「あの蒼い炎は、何だった?」
「俺にも……分かりません」
砕けかけたヴァジュラ。
限界を迎えた身体。
響き合った、仲間たちの力。
「あの時は、無我夢中でした。でも――」
和泉は胸元を押さえた。
「白影ならできるって、そう思ったんです」
「白影なら?」
「俺一人じゃない。白影と……みんなと一緒なら、朱天を越えられるって」
笠井は腕を組み、僅かに俯いた。
「深化覚醒が、本来の力を出し切っていなかったのか。それとも、初めから段階的に解放されるものだったのか……」
やがて顔を上げる。
「少なくとも、あの力が白影にまで大きな負荷を与えた可能性は高い」
「じゃあ……もう、戻らないんですか?」
「分からん」
笠井は再び、はっきりと言った。
「だが、今は分からないことと、二度と戻らないことは同じじゃない」
「笠井先生……」
「簡単じゃないだろう。だが、白影との繋がりを取り戻す方法は必ず探す」
ぶっきらぼうな言葉。
けれど、それが笠井なりの励ましだと分かっていた。
「その時は、また修行をお願いします」
「ああ。ただし――」
笠井は和泉の肩へ手を置いた。
「今は休め」
呆れたように言い残し、椅子から立ち上がる。
そのまま扉まで歩き、取っ手へ手をかけたところで、笠井の動きが止まった。
「……もう一つ、伝えておくことがある」
和泉に背を向けたまま、静かに口を開く。
「氷川さんからの報告だ。大江山での捜索中に――澪音の遺体が見つかった」
「……え?」
その名を聞いた瞬間、和泉の脳裏に一人の女性が浮かぶ。
オレンジ色に染まった夏の日。
そこで出会った、彼女の姿が。
「遺体が安置されている場所は、机の上の紙に書いてある」
笠井の言葉どおり、コップの置かれた机には、小さく折りたたまれた紙片があった。
「会いに行くかどうかは、お前が決めろ」
それだけを告げ、笠井は部屋を後にした。
一人、白い病室に残された和泉は、机の上の紙を見つめる。
一瞬のためらいの後、その紙片へ手を伸ばした。
◇◇◇
「――笠井さん」
病室を出た笠井へ、扉の脇に立っていた氷川が声をかけた。
「彼女のことを、和泉君に伝えたのですか?」
表情こそいつもと変わらない。
だが、その声には、隠しきれない懸念が滲んでいた。
「……ええ」
笠井の答えを聞き、氷川の顔に僅かな陰りが落ちる。
「彼への指導に、私が口を挟む立場ではないことは重々承知しています」
氷川は一度、言葉を切った。
それでも、意を決したように続ける。
「しかし、これ以上、彼を苦しめることは……私は看過できません」
普段、感情をほとんど表に出さない氷川。
だが、笠井は知っている。
この男が、誰よりも情に厚い人間であることを。
笠井は、その言葉を否定することなく頷いた。
「当然です。氷川さんの懸念は、もっともだと思います」
「ならば――」
「――それでも、これは避けて通れないことだと、僕は思っています」
氷川は、笠井の瞳を見つめる。
そこにいたのは、かつての若者ではなかった。
一人の弟子を預かる、師の眼をした男だった。
「これから和泉が開現師として生きていく以上、自分が救えなかった者や、自ら手にかけた相手と向き合わなければならない時は、必ず来ます」
そこまで口にして、笠井は僅かに視線を落とす。
その姿は、どこか過去の自分を重ねているようにも見えた。
「それに――」
笠井は、閉ざされた病室の扉へ目を向ける。
「ここで目を背けたままなら、あいつの中で、この事件はいつまでも終わらない気がするんです」
◇◇◇
俺が眼を醒ましてから、数日が経った。
検査の結果、身体に大きな異常はないと分かり、今はリハビリに取り組んでいる。
「はい、和泉さん。ゆっくりで構いませんからね~」
看護師から声をかけられながら、歩行訓練に励む。
眼を醒ましたばかりの頃に比べれば、随分と身体も動くようになった。
明日からは、さらに可動域を広げるため、ストレッチなども始める予定だ。
リハビリ室に置かれたテレビでは、今日も男性アナウンサーが深刻そうな表情で世間の情勢を伝えていた。
大江山での事件から、十日余り。
笠井先生をはじめとする大塚探偵事務所の面々は、今も事後処理に追われているらしい。
それも当然だろう。
今回の一件を巡り、菩提府は政府から厳しい追及を受けている。
事件の裏には、事態を手引きした菩提府上層部の一部だけでなく、政府関係者も関与しているのではないかと、所長は睨んでいるらしい。
もっとも、政治家たちが自らそれを認めるはずもないのだとか。
そして、厄介なことがもう一つ。
『それでは、本日ご紹介するのは! 最近、老若男女を問わず支持を集めている――』
画面が切り替わり、女性リポーターが、とある施設を紹介し始めた。
『“泡影教”の職員の方に、お話を伺いたいと思います!』
リポーターの隣に、一人の女性職員が映し出される。
《泡影教》。
現実世界を夢で塗り替えようとし、人々の悪鬼を強制的に暴走させて鬼夢を引き起こしてきた、菩提府の宿敵だ。
再びテレビへ目を向けると、職員の女性はにこやかな笑みを浮かべていた。
『ええ。私たちは、人々の夢を分かち合い、互いに応援し合うことを第一に考えておりまして――』
女性は、いかにも聞こえのよい言葉を並べている。
画面に映る姿も、至って普通だ。
施設に集まった信者たちも、ラフな格好で互いの近況を語り合っている。
その光景だけを見れば、どこにでもある交流サークルのようだった。
しかし、泡影教がここまで堂々と表舞台に姿を現したことは、長い歴史の中でも一度もなかったらしい。
『これより、夢は現世へ近づく。そして現世もまた、夢へ引き寄せられる』
『では、我は先に逝く。あとは、貴様らの好きにするがよい』
朱天が最期に残した言葉が、頭の中を巡った。
その時、看護師の声が思考を遮った。
「じゃあ、今日はここまでですね」
リハビリが終わり、車いすに座る。
随分歩けるようになったとはいえ、外出にはまだ車いすが必要だった。
「では、行きましょうか」
そこへ、部屋の隅で待っていた氷川さんが声を掛けてきた。
「ええ、お願いします」
氷川さんは俺の後ろへ回り、車いすを押してくれる。
「あれ? 和泉さん、今日はお出かけですか?」
担当の看護師が俺たちの様子を見て、声を掛ける。
「ええ、ちょっと、“約束”を果たしに――」
◇◇◇
氷川さんの案内で、俺は菩提府が管轄する施設へ向かっていた。
「……正直、私は反対です」
車を運転する氷川さんが、静かに口を開いた。
「和泉さんが、そこまで背負う必要はないんです」
普段、氷川さんが自分の意見を口にすることはほとんどない。
俺たち開現師を護衛する立場だからと、必要以上に踏み込まないようにしているのだろう。
そんな氷川さんが、今ははっきりと俺を止めようとしている。
「……俺も、彼女に会うことに、どんな意味があるのかは分かりません」
「なら――」
氷川さんの言葉を遮るように、俺は続けた。
「でも、ここで会わなかったら……俺はきっと、一生後悔すると思うんです」
氷川さんは俺の言葉を聞くと、それ以上は何も言わなかった。
これ以上、俺を傷つけまいと本気で心配してくれている。
その気持ちが分かるからこそ、申し訳なさが胸に残った。
それでも、かつて交わした約束だけは果たさなければならない。
窓の外を流れる景色を眺めながら、俺はポケットに入れた“約束”を強く握り締めていた――。
やがて車は、高い塀に囲まれた施設へ到着した。
門脇の受付から警備員が現れ、氷川さんが関係者用のカードを提示し、用件を伝えると、重い門が開いた。
車は敷地内を進み、白い大きな建物の地下駐車場へ入っていく。
薄暗い駐車場の奥では、数名の職員が待機していた。
車が止まると、俺は氷川さんの手を借りて車いすへ移る。
「お待ちしておりました。それでは、こちらへ」
白衣を着た職員に案内され、俺たちは白く整然とした廊下を進んだ。
しばらくすると、一台のエレベーターの前で足が止まる。
中へ乗り込むと、職員は操作盤へ専用のカードをかざし、さらに暗証番号を入力した。
「随分、厳重なんですね」
思わず口にすると、職員は操作盤へ視線を向けたまま答えた。
「当然です。彼女は、例の教団から直接送り込まれた刺客で、事件の核心に関わる重要人物でしたから」
確かに、理由は理解できる。
それでも、遺体一つを収容するには、あまりにも厳重に思えた。
そんな疑問が顔に出ていたのだろう。
職員は俺を一瞥し、言葉を続ける。
「なぜ、ここまでの措置が必要なのかは……実際に見ていただければ、お分かりになると思います」
到着を知らせる音とともに扉が開く。
再び白い廊下を進むと、突き当たりに分厚いガラス扉で隔てられた霊安室があった。
職員が再び認証を行い、扉を開ける。
その瞬間、中から刺すような冷気が流れ込んできた。
俺たちが中へ入ると、職員は壁一面に並んだ銀色の安置棚の一つへ手をかけた。
重い音とともに、寝台がゆっくりと引き出される。
その上には、大きな白布が掛けられていた。
輪郭から、横たわっているのが女性であることは分かった。
「……よろしいですか?」
職員が静かに尋ねる。
俺は小さく息を吸い込んだ。
遺体を保存するための冷気が、火照っていた身体の内側まで容赦なく冷やしていく。
「ええ。お願いします」
ここで引き返すくらいなら、初めから来てはいない。
職員は後ろに立つ氷川さんとも視線を交わし、確認するように頷いた。
そして、顔を覆っていた白布をゆっくりと取り払う。
「…………」
息を呑んだ俺の動揺は、周囲にも伝わっただろう。
すでに十月。
遺体が発見されたのは事件から数日後で、シンボルタワーで戦った時からは、さらに長い時間が過ぎていた。
俺は、それなりに覚悟を決めてきたつもりだった。
しかし――。
「不思議なくらい、きれいな状態でしょう」
職員が、僅かに声を落とす。
「私もこの施設に勤めて長くなりますが、これほど生前の姿を保ったご遺体を見たのは初めてです」
その言葉どおり、彼女の顔は、あの時の姿とほとんど変わっていなかった。
このような場所でなければ、ただ眠っているだけだと言われても信じてしまっただろう。
だが、その非現実的なまでに変わらない姿が、かえって彼女の“死”を確かなものとして突きつけてくる。
俺は――あの夏に交わした“約束”を果たすため、ここへ来た。
「これ……返しに来たよ。澪音」
ポケットから、丁寧に折りたたんだハンカチを取り出す。
そして、彼女の顔の横へそっと置いた。
オレンジ色のマリーゴールドの刺繍が、こちらを向くように。
けれど、澪音はもう何も言わない。
ハンカチを受け取ることも、笑いかけることもない。
霊安室には、冷房の低い音だけが流れ続けていた。
◇◇◇
帰路の途中、氷川さんは車を河原の近くで止めた。
俺は車いすを押してもらいながら、暮れゆく川を眺めていた。
夕日に照らされた水面が、赤みを帯びたオレンジ色に輝いている。
「約束は、果たせましたか?」
背後から、氷川さんが静かに問いかけた。
「…………」
俺はしばらく、煌めく川の流れを見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「――今年の夏も、ようやく終わったんですね」
日中にはまだ残暑の名残が残っている。
けれど、日が沈むにつれて吹き始めた風には、僅かな冷たさが混じっていた。
川面を染めていたオレンジ色の光も、少しずつ薄れていく。
季節は静かに、短い秋へと移ろい始めていた――。
夢幻開現師、第八章「鬼哭餓亂城」 完。
あとがき
『夢幻開現師』第八章をご愛読いただき、ありがとうございました。
この第八章をもちまして、『夢幻開現師』は一つの節目を迎えることができました。
実は、この作品の投稿を始めてから、約一年が経ちました。
正直なところ、なかなかPVが伸びず、執筆のペースも遅くなるなど、何度か筆を折りそうになったこともありました。
投稿を続けていくうちに、「もっと読んでほしい!」「もっと評価されたい!」という思いが強くなり、日々のPVや評価を気にしすぎてしまうこともありました。
そして、「自分は、なぜこの物語を書いているのだろう」と、そもそもの理由にまで迷ってしまったこともあります。
そうした経験を通して、世にさまざまな作品を発信し続けているクリエイターの方々が、並々ならぬ努力と覚悟をもって創作に取り組んでいるのだということを、未熟ながらも僅かに実感できたように思います。
それでも、私の作品を読んでくださる方がいること、そして何より、この『夢幻開現師』という物語を最後まで書きたいという初心を忘れず、これからも書き続けていきます。
読者の皆様には、今後もこの物語にお付き合いいただければ幸いです。
さて、第一章から第八章までを第一部と位置付け、次回からは第二部へ移行したいと考えています。
しかし、第二部をどのような構成にするのかは、まだ頭の中に漠然と浮かんでいる段階です。
そのため、しばらくの間、今後の展開をじっくりと考える時間を取りたいと思います。
再開の目途が立ちましたら、改めてお知らせいたしますので、その時までお待ちいただければ幸いです。
暑い日が続きますが、読者の皆様も体調には十分お気を付けください。
この暑い夏を、共に乗り越えていきましょう!




